公〈おおやけ〉 日本国・意思決定のマネジメントを問う

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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784910063096

作品紹介・あらすじ

コロナ対応で露呈したこの国の意思決定の不在は、敗戦のあの日から何も変わっていない。 「他の国にはある公への意識が、この国には見られないのはなぜなのか」をテーマに、あの日から我々が生きてきた「日常」の風景を作家として描くことで、政治議論からこぼれおちるこの国の本質をあぶり出す。 作家的感性で描く、この国の政治の本質とは。

感想・レビュー・書評

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  • 「公」という言葉を中心に考えを述べた後、自らの取り組みを自伝的に記した本。『昭和16年夏の敗戦』で述べた総力戦研究所の取組を現在のコロナ対応に当てはめ、同じような過ちを犯していることを説明し、その後、「公」と「私」の観点から近代文学を分析している。そして最後に、主として全共闘運動の議長としての活動から、東京都知事を辞職するまでの取り組みを自伝的に述べている。道路公団民営化や参議院宿舎建設阻止に真剣に取り組む熱意に感銘を受けた。抵抗勢力と闘いながら改革を推進していく難しさがよくわかった。

    「(コロナ禍)あたりまえだと思っていた日常生活が正面から否定されるなど考えてもみなかったのではないか。だがそういうときにこそ、変革のチャンスが訪れているのだ」p1
    「対策本部会合では野党から質問が飛ぶわけではない。自分たちが疑問をぶつけ合い、それを官僚たちに指示すればよいのだ。ところが官僚はとんでもない宿題を負わされるのを避けるため先に台本を作ってしまう。政府の審議会など、往々にして官僚主導で行われている。審議会の事務局がシナリオを作って運営するのだ。だから御用審議会などと批判される」p21
    「小泉進次郎環境大臣が対策会議に1度だけ欠席した。2月16日、日曜日に開かれた地元の後援会の新年会に出ていた、と共産党議員に追及されメディアでも批判された。脇が甘い面があったのは事実だが、この日の会議はわずか11分だった。発言の機会もなく意思決定に関わりのないものであれば時間の無駄ではないかと思ってしまう、それもあながち否定できない」p24
    「菅官房長官は「連絡会議」が事前に開かれたことは認めたが、すでに連絡会議より以前に今井秘書官ら側近の官邸官僚の進言で一斉休校が決められていたことは伏せた。菅官房長官は、重大決定に自分が外されていたことを隠した。このあたりから、コロナ禍の対策は、今井秘書官ら官邸官僚の主導で進み始め、しだいに世情からかけ離れていくのである」p33
    「(太平洋戦争)日本国民の310万人が死んだ。(一次大戦は、双方の死者1700万人)」p41
    「日本がアメリカと戦争をはじめた昭和16年末より、原子爆弾を落とされて戦争に負けた昭和20年までの4年間を、ダルマ落としのようにスコーンと抜くと、風俗やライフスタイルは、ほぼそのままつながるのである。進駐軍と呼ばれたアメリカの占領部隊が現れたからアメリカナイゼーションがはじまったわけではなく、戦前からアメリカ文化は洪水のごとく押し寄せていた」p47
    「日本は戦争に負けてアメリカの属国になったことで確かに国民の生活は楽になった」p49
    「日本人は歴史の一過程のなかにある役割をもって自分が存在しているとの意識が希薄である。ステレオタイプの歴史観では、戦前は悪・狂信的、天皇主権、戦後は善・民主主義、国民主権との図式でしか考えない。それでは教訓を得ることはできない。戦前も官僚主権、戦後も官僚主権と連続している部分も気づかなければいけない」p67
    「戦争はしない・できないという憲法の下では「有事」という発想は消滅する。有事には私権が制限される。「有事」のない日本では国家が国民を強制するという法律はないのだ。世界中探しても「有事」を想定していない国家は存在しない。だから「ディズニーランド」であり、入口の門番はアメリカ兵に任せ、圏内は架空の平和に満ちている」p94
    「(2017年にノーベル賞受賞の)カズオ・イシグロの作品に比べると、日本の文学はひたすら「私の営み」だけを追い求めている」p103
    「冗談半分に言うのだけれど、僕は結核に憧れた。作家になるための資格のように思われたからだ。多くの作家が結核・肺病によって夭折している」p152
    「戦後に消えたものは貧乏と結核だったと書いた。もうひとつは戦争である」p155
    「戦後の一般的な感覚は、戦争が終わった1945年に線を引き、戦前と戦後を分けるのが当たり前になっている。しかし、その考え方が歴史認識を曇らせてしまうのであり、戦前と戦後の連続性、共通するところを捉えないと「近代」というカテゴリーにならない。例えば、天皇主権から国民主権に転換したと学校の教科書は説く。しかし実態は、戦前も戦後も「官僚主権」であった」p178
    「(戦前は)軍部と内閣との統合機能は元老たちが人治でカバーしていた」p180

  • あまり著者のことをわかっていないというのもあるが、総じてイライラする本だった。三島由紀夫や菊池寛は「公」、太宰治や村上春樹は「私」という組分けと自分は前者であるという優越?(でも売れてなくないか)みたいなところがモヤモヤ。ただし、政治という中枢に近づいてロジックとファクトで奮闘した姿は素直に感銘を受けた

  • p143 大正天皇崩御は大正15年12月25日
    昭和元年は1週間のみ

  • タイトルに示された「公」という概念を巡って、作家そして政治家である猪瀬直樹がそれぞれのこれまでの活動を振り返りつつ、今の社会で求められる「公」とは何なのかを論じた論考。

    新型コロナウイルスの対応で結果として諸外国のような膨大な死者数を出すことは防いだものの、そのマネジメントには批判されるべき点が多々あったのも事実。そうしたマネジメント並びにリーダーシップの不在を出発点として、その不在の源流を探る旅は、日本の近代文学に着地する。日本特有の”私小説”である。日本の”私小説”は得てして一切、公的な世界を切り離された自身の世界観の耽溺に陥る。もちろん、海外文学においても当然、自身の内面という世界観を描く作品は多々あるが、そこでは常に公的な世界との関係性の中で自身を位置づける工夫が見られるという点で、公的なるものからの離脱が見出される。一方で、戦後の政治体制を紐解いていきながら、官僚主導の政治体制の問題や、実際に猪瀬直樹が政治に世界に飛び込むきっかけとなった道路公団の民営化の話題などが語られていきつつ、目指すべき”公”の在り方を示す。

    猪瀬直樹という極めて優れた作家及び高い実務能力を持つ政治家が何を考えてこれまで活動を続けてきたのかという点をこれ一冊でほぼ掴むことができる。そんな彼の”公”を巡る問題意識は極めてその通りだと思うし、読み物としても十分に面白い。

  • 猪瀬氏というと東京オリンピックの誘致を頑張ったけど不祥事があって退いたという印象と夏の敗戦の印象しかなかったんだけど、小泉内閣で行政改革をやってたり今は大阪府と市の特別顧問をやってたりで力のある実務家だった。
    日本では意思決定が密室でなされているから過程が不明でファクトとロジックに基づいているのか検証できない。というよりムードに沿うかたちでファクトもロジックも歪められていったことを総力戦研究所を例に説明している。また、官僚主権の国であることも戦前と変わらない。
    公の時間に私の営みがあるという文学だが、三島の自決以降の日本文学は私だけの空間になった。
    全共闘時代にマネジメントを学んだ著者。その後小泉内閣で道路公団民営化に尽力し、東京都の副知事となり、五輪招致で宮内庁とのやりとりとか、辞任までの話とか。
    というわけで猪瀬氏が何者かというのが本人の言葉で理解することができた。

  • 2020/08/21 猪瀬直樹 「公」
    日本国の課題は「国家中枢の欠落」という根本的欠陥
    日本国という組織は様々な「優秀な官僚組織」によって支えられ、運営されている。
    それは個々の組織の利益追求=部分最適に終始し、日本国全体の利益はおざなりにされる=全体最適の放棄 
    特に「負の配分」を伴う「新戦略」には「補填」が不可欠(田中角栄)
    しかし補填の予算手当が出来ない人口減少時代は、「構造改革」「戦略転換」は進まず、「国の着実な劣化」が進むだけ
    それが平成の失われた30年間の本質
    根本原因は日本の優秀な官僚組織体制にあるというのが猪瀬直樹氏の一貫した見立て
    戦前は日本の軍部が「軍事予算」により日本国を滅ぼした
    現代は超高齢化による「社会保障予算」が国を滅ぼそうとしている
    コロナ禍はそれを加速させる

    日本の組織は平時では世界の中でも高いパフォーマンスをあげるが、乱世・戦時には対応できない
    トップリーダーの不在=無責任なのか、無答責なのか 日本の組織風土

  • 日本は行政機関がシンクタンクと執行機関を兼ね、国家ビジョンを官僚機構が作っている。
    本来であれば、独自で多様なメディア界が「公」であり、クリエイティブな人々がビジョンを作り、その下請けが行政機関であるべき。

    国のビジョンは文化の世界からつくられるものであり、行政はビジョンを執行する場。
    ビジョンをつくるのは、行政や官僚ではなく、アーティストやフリーランサー、さまざまなジャンルのクリエイターであるべき。
    なぜなら、「クリエイティブな人びとのクリエイティブな勇気」にこそ「公」が宿っているからである。
    独自で多様な文化および(独自で多様な)メディア界が担う「公」こそが、行政・官僚への抑止力になる。

    新型コロナウイルス対策本部という最高意思決定機関は、討議ではなくただの発表の場であった。
    一斉休校は全閣僚が出席する対策本部ではなく、今井秘書官ら側近の連絡会議だけで決められており、ここからコロナ禍の対策は、今井秘書官ら官僚官邸の主導で進んでいく。

    国家の意思決定のプロセスは、歴史的な検証に耐えられるものでなければならないが、意思決定のための会議は、議事概要すら作られない有様だ。

    第二次世界大戦中の総力戦研究所は、自給率と国力の差の明確なデータを打ち出し、「日米開戦は無謀」という結論を出すも、現実の内閣はそうではなかった。

    経済閣僚が開戦に異議を申し立てたのは、仮にインドネシアを占領して石油を確保しても、フィリピン、マレーシアからアメリカ軍とイギリス軍に包囲され、石油の本国への輸送ができないからだ。

    日米開戦をめぐる意思決定は、根拠があやふやだった。戦前・戦後を通してこの意思決定のちぐはぐさは断絶されたわけではない。
    総力戦研究所の研究生が「日本必敗」の結論に到達できたのは、ファクトとロジックの力であったが、そうしたものはムードに沿う形で曲げられてしまった。

    政治的リーダーの役割は、ファクトとロジックに基づきながら新型コロナウイルスの対策をし、それを自らの言葉で国民に説明し、工程表を示しながら主体的に働きかけることではないのか。

    困窮世帯30万円給付の真相…もともとは自民も公明も野党も一律10万円で進めていたが、いつの間にか困窮世帯30万に変わっていた。今井秘書官が発案との見方で一致している。

    自衛隊の存在に代表されるように、日本は存在しているものを「ない」としてきた国だ。戦争をするとかしないとか右翼や左翼といったことは関係なく、憲法改正で「軍隊である」と書き込み、存在することを認めれば、諸制度の齟齬が少し弱まるだけなのに、それをして来なかった。
    第二次世界大戦と現在の自分たちは連続する形で存在しているのに、日本では大戦そのものを置き去りにし、戦前を無かったことにしている。

    福沢諭吉は、社会においては男だけでなく女の活躍も重要だとして「男女交際」の概念を説いたが、それはいずれ「男女の恋愛交際」に変質してしまう。
    もともと小説は時代と個人を描いたノンフィクションの記録であり、そこには「公」と「私」の葛藤が描かれていたが、日本独自の「私小説」の隆盛はマーケットの中で市民権を得て、「文学」は「公」から離れていった。

    日本は、戦争を通じて天皇主権から国民主権に転換したと言われているが、実態はずっと「官僚主権」である。
    その官僚構造には2つの歪さがあり、1つ目は、一つのポスト(事務次官)を4人で分け、それぞれが恩恵に浴すように一年交代で任期を全うしていること。これにより、リスクをとらず、組織をただ生かすことが目的になる。
    2つ目は、天下り先の公益法人に無駄が蔓延ろうとも、経営に責任が無いため、事業をひたすら拡大しつつげて効率の悪い経営が生まれること。
    財政投融資のシステムにより、一般会計の税金に頼らず、郵便貯金や厚生年金を原資とする財投資金が、特殊法人や道路公団に注ぎ込まれた。

    こうした歪な構造を解消するため、
    郵政3事業(郵便貯金、郵便事業、簡易保険)というお金の元と、特殊法人や公益法人というお金の出口を一体となって民営化を進めたのが小泉政権であり、猪瀬直樹はその民営化推進委員であった。

    「諮問機関の存在理由は、満場一致で承認された答申を出し、法案の直接の原案を用意することではない。審議過程の公開を通じて、問題のありかを広く明らかにし、選択肢を少数に絞り込むことである。」
    要は、民営化推進委員会の議事を原則公開し、意思決定機関を外部から見える化したのだ。外部から見えるようにして議論すれば、勝つのはファクトとロジックなのだ。

    メディアは間違えるが訂正をしない、そのあり方に対して猪瀬は異議を唱えた。メディアが弱者を踏み潰すようであってはいけない。メディアは内部に自浄作用の仕組みがないとならず、当事者に負けないくらいの情報を集めた上で、「もし自分が当事者であればどう決断するだろう」と考えるのが大切なのだ。



    【感想】

    本書の作者は、東京都知事として行政に携わった猪瀬直樹だ。
    猪瀬は、本書の主題である「公」が、日本においては官僚主導で作られてきたことと、
    行政組織の非合理性が太平洋戦争から存在し続けてきた事実を、作家ならではの洞察力とファクトに基いて、分かりやすく説明している。

    第二次世界大戦中の「総力戦研究所」は、アメリカとの開戦の是非を、「最初は善戦する可能性はあるも、国力の差で次第に戦況を返されるため、最終的に勝ち目は無い」と、綿密なファクトとロジックに基づいて結論付けた。
    これを東條英機ら当時の内閣に進言するも、その場を支配していた「空気」に押され、結果的に真珠湾攻撃を強行してしまい、勝ち目のない戦いに突き進んでいった。

    このような、「ムード」に支配された上層部の独断による、非合理的な意思決定という枠組みは、終戦後綺麗に解消したわけではなく、未だ官僚機構に太い根を張っている。

    その代表例がコロナ禍における休校決定と、後世において政策を検証するための議事録が、「不要」と切り捨てられたことである。

    普段の行政においても、緊急事態宣言化においても、大切なことは意思決定機関を外部から見える化することであり、そこではファクトとロジックにより論理的な判断をすることが、リソースの無駄遣いを防ぎ、硬直化した行政組織にメスを入れることにつながる。

    作者はまた、現在のメディアの体たらくさにも喝を入れている。
    メディアは間違えるが訂正をしない。行政にメスを入れるのも一度きりであり、効果検証を継続して行わない。メディアは自分が蒔いた種を回収しようとせず、大衆へのポピュリズム的報道に注力している。

    猪瀬は、本書のタイトルにもなっている「公」について、「国のビジョンは文化の世界からつくられるものであり、行政はビジョンを執行する場である。」と述べている。
    アーティストやフリーランサー、メディアというクリエイティブな人間が担う「公」こそが、行政への抑止力になり、行政は本来、彼らのビジョンを執行する場にすぎないのだ。


    現在の日本は、官僚組織によって作られている。
    国会議員達における立法の成立件数は、官僚主導の内閣提出法案に比べればわずかなものであり、国民も行政の庇護下に置かれ活動をしている点で、全ては行政の傘下にあると言える。

    政府は、「ムード」によって非合理な戦争をしていた時代から、何も変わっていない。
    そして国民も、大本営発表と戦時統制に従いながら生活していた時代と、何も変わっていない。

    独断と受け身の構造は、あの戦争の時代で一区切りついたわけではなく、いまだに国中に蔓延っている。
    その構造を変えるには、メディアと国民が一丸となり、行政組織に力を加えていくしかない。
    そして行政を丸裸にし、事実とデータに基づいた透明性のある行動を促していくことで、この国の未来を変えられるのだ。

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著者プロフィール

猪瀬直樹

一九四六年長野県生まれ。作家。八七年『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。九六年『日本国の研究』で文藝春秋読者賞受賞。東京大学客員教授、東京工業大学特任教授を歴任。二〇〇二年、小泉首相より道路公団民営化委員に任命される。〇七年、東京都副知事に任命される。一二年、東京都知事に就任。一三年、辞任。一五年、大阪府・市特別顧問就任。主な著書に『天皇の影法師』『黒船の世紀』『ペルソナ 三島由紀夫伝』『民警』のほか、『日本の近代 猪瀬直樹著作集』(全一二巻、電子版全一六巻)がある。近著に『日本国・不安の研究』など。

「2021年 『昭和23年冬の暗号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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