未来派: 百年後を羨望した芸術家たち

著者 :
  • コトニ社
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感想 : 1
  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784910108056

作品紹介・あらすじ

なぜ百年後を羨望するか?
私たちは、なぜ未来に憧れ、そして失敗するのか。

20世紀、そして21世紀における文化・政治・テクノロジー・広告といったさまざまな人間活動の萌芽であった芸術・社会運動「未来派」。
その「未来派」の全容に、宣言・運動・詩法・建築・ネットワーク・ダイナミズム・音楽・ファシズム・起源という9つの切り口で迫り、現代における「未来観」の再考をはかる。
哲学者・美術批評家の多木浩二がイタリアで渉猟した膨大な書物や資料をもとに書いた渾身の遺作。

【本書の特色】
1.芸術・社会変革運動「未来派」について書かれたモノグラフ。
2.「未来派」による絵画・彫刻・建築などの図版120点を収載。
3.「未来派」の数ある宣言文の中から主要な11篇をイタリア語とフランス語から翻訳し収録。

感想・レビュー・書評

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  • これを押さえとけば、おおよその大衆文化を冷静に見られるようになり、
    部屋の片付けや就業中の廃棄が楽になる本。


    戦後の日本の大衆文化は欧米諸国による影響を受けているとしか考えられない。
    しかし、元来の日本の文化は楽しくなく、必要がないから淘汰されていると私は思っているので、別に欧米諸国を恨んではいない。
    欧米諸国のそういった芸術を紐解くと、未来派や青騎士(ワシリー・カンディンスキーやフランツ・マルクなどの表現主義)の影響を受けているように思う。

    最近の創作は昔と違って、冒険物語がつまらなくなったように思える。
    それは未来派の『過去の崇拝や古代への執着を破壊する』(つまり近代化を求めているのであろう)という宣言による影響があったのではないかと私は思う。
    物語の内容を文字に起こせば、特段、昔と変わっていない。

    では、なぜ面白くないのか。

    私が考えるに、
    映画「NOTHING ナッシング」(ヴィンチェンゾ・ナタリ監督作)のようなことが芸術の世界で起こったのではないかと思う。

    (※以下映画のネタバレ。)
    この映画は、
    『「自分たちを、煩わせるものを消す能力」を持っている男性2人が、
    最終的には何も無い世界を望み、真っ白な世界で首だけになるという物語』なのだが、
    正しく、そのようなことが、21世紀になって、起こったように思える。
    そして、冒険物語は以前に創作した作品と類似した内容であり、
    そういった冒険物語の舞台は、概ね、異世界や異空間なので現代の時代背景を考える必要がない。
    それらの創作活動は未来派が嫌悪していた、『過去の崇拝や古代への執着』と変わらないため、
    未来派に影響を受けた創作者達が取捨選択をした結果、創作自体が不必要になったに違いない。
    つまり、創作することも鑑賞することもロマンを追うこともナンセンスになってしまったのだと私は推測する。
    (……「ナンセンス」という言葉自体、死語になってしまい、ナンセンスだから「NOTHING ナッシング」なのかな……)

    この映画の物語は、我々人類が、何かに対して憂い、合理性を求めた結果の姿であるように思えるし、
    オタマジャクシの尻尾がいつか消えて、蛙になるようなことであり、決して悪いことではないと思う。

    オオサンショウウオやコモドドラゴンになることを夢見たオタマジャクシが、
    それが叶わず、蛙になり、
    『皆が蛙の形態で良いと思っている世界』と『納得していない自分の世界』の温度差のようなものによって、歪曲され、
    映画「NOTHING ナッシング」や昨今の創作に表れているように私は思う。


    フランス革命後にサンドロ・ボッティチェッリのようなルネサンス芸術を再興したり、
    新プラトン主義を再考するような芸術家が、あまりいなかったように、
    今後のおおよその創作は、未来派を認識していない、未来派のような創作になると私は予想する。
    この未来派のような活動の先に現れる、扇動をする人物は、
    きっとフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェや、アドルフ・ヒトラーや、ウンベルト・ボッチョーニのような存在だと思われるため、
    そういった人物がどこにどのように受け入れられ、どのような影響を与えて、なぜそういった人物に共鳴してしまうのか、理解するためには 本著は有意義な資料だと思われる。
    本著は作品のカラー印刷が成されておらず、芸術的な資料ではなく、飽くまでも歴史的な資料として読むものだと思う。

    これらの扇動する人物の創作や活動はジョヴァンニ・セガンティーニの自伝で良いのではないかと思いながら、
    「現代でもこういうことはあるんじゃねぇかなぁ……(そもそも感覚の分野なんだから知識で啓蒙する必要ないんじゃないかなぁ……ゲームしてよう)」と冷静に現代を見据えても良いのではないかと思った。

    唯物論と近代化とヘドニズムが混ざり合って、何が創作できるのだろうか……。
    きっと猥雑なドラえもん(のような偶像)なので、大人になったら距離を置くべきだと思った。

    本書は登場人物が非常に多く、創作分野や表現が多岐にわたり、創作物も多いため、
    眠る前に羊を数える感じで読むと、良い感じで眠くなる本だと思った。

  • 岐阜聖徳学園大学図書館OPACへ→
    http://carin.shotoku.ac.jp/scripts/mgwms32.dll?MGWLPN=CARIN&wlapp=CARIN&WEBOPAC=LINK&ID=BB00612261

    なぜ百年後を羨望するか?
    私たちは、なぜ未来に憧れ、そして失敗するのか。

    20世紀、そして21世紀における文化・政治・テクノロジー・広告といったさまざまな人間活動の萌芽であった芸術・社会運動「未来派」。
    その「未来派」の全容に、宣言・運動・詩法・建築・ネットワーク・ダイナミズム・音楽・ファシズム・起源という9つの切り口で迫り、現代における「未来観」の再考をはかる。
    哲学者・美術批評家の多木浩二がイタリアで渉猟した膨大な書物や資料をもとに書いた渾身の遺作。
    (出版社HPより)

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著者プロフィール

1928〜2011年。哲学者。旧制第三高等学校を経て、東京大学文学部美学科を卒業。千葉大学教授、神戸芸術工科大学客員教授などを歴任。1960年代半ばから、建築・写真・現代美術を対象とする先鋭的な批評活動を開始。1968年、中平卓馬らと写真表現を焦点とした「思想のための挑発的資料」である雑誌『プロヴォーク』を創刊。翌年第3号で廃刊するも、その実験的試みの軌跡を編著『まずたしからしさの世界を捨てろ』(田畑書店、1970)にまとめる。思考と表現の目まぐるしい変貌の経験をみずから相対化し、写真・建築・空間・家具・書物・映像を包括的に論じた評論集『ことばのない思考』(田畑書店、1972)によって批評家としての第一歩をしるす。現象学と記号論を駆使して人間の生と居住空間の複雑なかかわりを考察した『生きられた家』(田畑書店、1976/岩波現代文庫、2001/青土社、2019)が最初の主著となった。この本は多木の日常経験の深まりに応じて、二度の重要な改訂が後に行われている。視線という概念を立てて芸術や文化を読み解く歴史哲学的作業を『眼の隠喩』(青土社、1982/ちくま学芸文庫、2008)にて本格的に開始。この思考の系列は、身体論や政治美学的考察と相俟って『欲望の修辞学』(1987)、『もし世界の声が聴こえたら』(2002)、『死の鏡』(2004)、『進歩とカタストロフィ』(2005、以上青土社)、『「もの」の詩学』、『神話なき世界の芸術家』(1994)、『シジフォスの笑い』(1997、以上岩波書店)などの著作に結晶した。日本や西欧の近代精神史を図像学的な方法で鮮かに分析した『天皇の肖像』(岩波新書、1988)やキャプテン・クック三部作『船がゆく』、『船とともに』、『最後の航海』(新書館、1998〜2003)などもある。1990年代半ば以降は、新書という形で諸事象の哲学的意味を論じた『ヌード写真』、『都市の政治学』、『戦争論』、『肖像写真』(以上岩波新書)、『スポーツを考える』(ちくま新書)などを次々と著した。生前最後の著作は、敬愛する4人の現代芸術家を論じた小著『表象の多面体』(青土社、2009)。没後出版として『トリノ 夢とカタストロフィーの彼方へ』(BEARLIN、2012)、『視線とテクスト』(青土社、2013)、『映像の歴史哲学』(みすず書房、2013)がある。2020年に初の建築写真集『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』を刊行した。

「2021年 『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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