読書人カレッジ2021: 大学生のための本の講座

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  • Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784924671522

作品紹介・あらすじ

 小社では2021年度より、日本財団さんとの共同新事業「読書人カレッジ」を立ち上げました。本事業は大学生の読書推進活動として、本の専門家である作家や研究者、書評家の方々に、各大学で「読書」に関する講義を行っていただく試みです。
 どのように本を選び、読んで考え、その内容を伝えるのかに悩む大学生のために、書評紙「週刊読書人」にご登場いただいている作家、研究者、批評家に講義を行ってもらいました。本書は、2021年度の1年間に行われた11講座の講義録です。

感想・レビュー・書評

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  • 女子栄養大学図書館OPAC▼ https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000058093

  • 一般の大学生向けの読書講座をまとめたもの。

    大学生なら自分で切り拓いてね。
    と思うのです。

  • とてもとても面白かった!最後の宮台さんの講義は難しかったけど、その他の人の講義は読書と人格がうまく絡まっていて、読みたい気持ちにさせられた。講義後の質疑応答の部分が特にスキだった。

    p.21 「日本人は、自分の体に合った洋服を自分で作ろうとすると大失敗する。押し付けられた洋服に体を合わせる方が安全だ」
    自分たちに都合の良い国や法律を作ろうとした日本は、戦争という大失敗をした。それなら、自分の体に合った洋服(憲法)を作るよりも、むしろ押し付けられた洋服(憲法)に姿形を合わせようとした方が、間違いを起こさない。これが今の日本国憲法なのです。

    p.34 「わたしの望みは、死んでからなお生き続けること!」(アンネ・フランク) 自分を読んだとき、私は衝撃を受けました。そうか、作家になって言葉を書き残せば死なずに済むんだ!そう思った10歳の私は大きくなった自分も作家になりたいと言うようになりました。

    p.47 伝えると言うのは、本当に難しいです。私も自身がありませんし、感動した作品に対して、「すごくいい」とか「とにかく読んで」としか言えないことも、多々あります。でも、心の中に作品の「凄み」は確かに沈殿しているはず。何かを創作したり、他にも、例えば料理を作っているときとか、掃除中とか…いつでも良いですが、別の時間や何かを経由することで、作品を通して感じた気持ちが出てくる時がある。感情は、必ずしも言葉から言葉の変換がされずとも、心の中にきちんとあれば良いのではないかと、私は思っています。

    p.60 「 でも必ず1冊は本が書ける。小説やフィクションにはどうしても才能の梅があるけれど、自分の人生の経験を書いた本を書きやすく、面白ければ本になる」

    p.66 書く行為は、他人を傷つけることも癒すこともできます。困難や悲しみ、悔しさが当人だけにしか存在しないときは、どうしたって暗い気持ちになってしまう。しかし、それが書かれたものになって、私たちの目の前に現れた時、別のものに変化していく瞬間があります。

    p.71 ノンフィクションは星を作ることはできないけれども、星をつなげて星座を作ることができる」。事実を作ることはできないが、事実を使って物語を作ることができるのです。

    p.73 周りの人に読者の喜びを知ってもらうためには何をすればいいと思いますか?ブックカバーをつけず、表紙とタイトルがわかるような状態の本を、いつも意味ありげに呼ぶのはどうでしょうか。ポイントは、本当に夢中になって読むことですね。いたんですよ。私のそばにそういう人が。「どんな内容なの?」と聞いたら、「秘密」と答えます。「この本、よかったよー」と自分から進めるのではなく、面白そうに読んでみる。コーヒーを飲んでいる時も、食事をしている時も、常に。日本を置いておく。卵楽しげに読んでいる様子を見せると、周囲の人もその人の本のことが気になるはずです。。周りの人に読者の喜びを知ってもらうためには何をすればいいと思いますか?
    ブックカバーをつけず、表紙とタイトルがわかるような状態の本を、いつも意味ありげに読むのはどうでしょうか。ポイントは、本当に夢中になって読むことですね。いたんですよ。私の側にそういう人が。「どんな内容なの?」と聞いたら、「秘密」と答えます。「この本、よかったよ」と自分から勧めるのではなく、面白そうに読んでみる。コーヒーを飲んでいる時も、食事をしている時も、常に隣に本を置いておく。頭を楽しげに読んでいる様子を見せる、周囲の人もその本のことが気になるはずです。

    これからの読書教育に求められる事は、何だと思いますか?いろいろありますが、親や教育の立場に立つ人が読書を楽しんでいる姿勢を見せることが大切だと考えています。この本は良い/悪いと優劣をつけたり、読者に何かしらの見返りを求めるのではなく、読むと言う行為を純粋に楽しむ。そんな大人の姿を見せることで「読書は楽しいもの」と言う印象を子供を持つと思います。それと、本を身近に感じる環境も重要です。小さい頃、私は漫画を書店に買いに行く習慣があったのですが、年齢が上がるにつれて、自然と形が多い本を手に取るようになっていきました。子供が面白いと感じる方は、もしかしたらくだらないかもしれません。でも、どんな本でも自分の小遣いで買う習慣があったりすると、良いのではないかと思います。

    人格形成のために、洗える分野の本を読む必要があると思いますか?
    人間と同じように、本にも性格があります。好きな本もあれば嫌いになる本もあるし自分の好みのジャンルやテーマは、もちろんあるでしょう。だから苦手な本と無理矢理付き合うよりは、楽しむ楽しめる本をどんどん読んでいくと良いと、私自身は考えています。ただ、教養深めるためであったり、良い人格を形成するために本を読む事は、退屈だし、嫌気がさします。Netflixを見たり、YouTubeで音楽を聴いたりすることと同じで、読書も娯楽として楽しんで良いものです。何かしら見返りを求めるから、楽しさや面白さが半減してしまう。ゆるい形で楽しみながら読書と付き合ううちに、偶然の出会いがあったり、何かが起きたりする。好きなものを読みながら、起きることをのんびりと待ちましょう。

    フィクションとノンフィクションの違いはどこにあると考えますか?

    基本的には同じだと思っています。語弊があるとまずいので、具体的に説明しますね。ある時、ジャングルの中で「黄色と黒のしましまのしっぽ」を見たとします。あなたはそこに虎がいると考え、しっぽが浮いているとは思わないでしょう。続けて、あるこの場所であるおじいさんが亡くなったと言う話を思い出したとします。もしかしたら、おじいさんは虎に殺されたかもしれない。虎がいると認識した時点で、自動的にフィクション/ノンフィクションに分類されない物語が立ち現れてくるものなのですね。フィクションであれば、おじいさんはサーカスの一員で逃げ出した虎を捕まえに来たと展開できるかもしれません。簡単にノンフィクションならば、その想像を現実に引き合わせて、本当はどうだったのかを裏表から見ていく必要があります。現実と言う縛りこそあるけれど、自分の胸に埋まっているものがあると語りを探っていくのがノンフィクションなのではないか、と考えています。

    本を爆買いする癖があるのですが、読むスペースが遅く、一向に減りません。どうすればよいでしょうか。また、何度も同じ箇所を読まなければ理解できないことが多く、読書に時間かかってしまいます。早く正確に読む方法は、ありますか。

    爆買い、いいですね。私も読みたい本がたくさんあって、もっと早く読めたらと思うこともあります。でも、ゆっくり読むのも早く読むのも、その人の個性 です。買った本はあなたのものなので、早く読めと誰かにせかされることもない。自分のペースで読み進めて、気になった本を積んでおく。になったときにペラペラとめくってみたり、少しだけ読んでまた閉じたりと自由に読んでの読んでいったらどうでしょうか。

    嘘や麻薬を読むのが辛く、興味のある内容に入る前に疲れてしまいます。初めて読む本であっても、読みたい上まで飛ばさずにページ通り読むべきでしょうか。

    ぜひ読み飛ばしてください。こんなこと言っちゃいけないのかもしれませんけど笑 楽しいと思う気持ちがあれば読み進められますが、そうでなければ読書がどんどん苦痛になっていきます。苦しさを感じる前に読み飛ばして、例えばたとえその本の中で2、3行しか読めなかったとしても、自分にとって面白い文章があればよしとする。読書が苦手な人は、一字一句、最初から確かめながら読んでいる印象があります。頭に入ってこない自分があったとしても、それはそれで良し。わからないまま読み流すことも、場合によっては必要だと私は思います。映画を見ている時、すべての カットを理解しなければ!と意気込む人は少数派ですよね。同じように、読書もその時には細部がわからなくても良いと割り切って、いちど読み通してみる。全体像をつかんだ後、細部を確認していく読み方も良いと思います。仮に手放したとしても、縁のある方は不思議と戻ってくるんです。そして、思いもしなかったところで、突然面白さに気付いたりする。人間は人生は長いので、その時が来るまで待ちましょう。言うべき本は、たくさんあります。

    いろんな人と関わりを持つためにも平易な小説を読んでその気持ちがわかるようになりたいです。何かオススメがありますか。人のことを知りたいと言うことでしたら、私はノンフィクションをお勧めします。質問者は理系の方のようですので、マイケル・ルイス『最悪の予感 パンデミックとの戦い』はどうでしょうか。アメリカは世界健康安全保障指数1位です。しかし、パンデミックが起きない方法を研究していた科学者たちの成果を採用しなかったために、現在もなお、大変な感染拡大が続いている。その原因となった理系研究者の人間模様や意思決定について書かれていて、読み応えがある一冊です。自分と重なる部分が多かったり、似たような場所で生きている人のノンフィクションは、読者として感情移入がしやすい。ノンフィクションを探す際の指針にしてみてください。
    皆さんにお伝えしておきたいのですが小説を読めば人の気持ちがわかるようになると言う考え方は、ちょっと疑った方が いいと思います。教育者の中には、「人の気持ちを人の感情がわかるように」、「優しくなるために」と、本を読むことを勧める人もいます。でも小説をたくさん読んだとしても、その気持ちは当人以外は誰にもわからない。もしかすると、本人さえ自分の気持ちを把握できていないかもしれません。他者の気持ちは、あくまで推測するしかないんです。私はこの前提で、ノンフィクションを書いています。それよりも、何かの出来事があったときに、自分がどのような感情を持ったのか、気がつけるようになる方が大切です。自分の感情がどういうものかを理解した時、初めて外部とつながることができたり、他者の気持ちが共感することができる。本を読んで人の感情を思いやれるようになるのは、その後からだと思います。

    p.86 安吾は「生きろ」と言うのですよ。「生きよ堕ちよ」と言うのです。「堕ちよ」と言うのは、理想に反して堕落していくのが人間だとしても、落ちきったそのそこから自分自身のモラルを見つけ出せ、と言うことです。そのためにはまずは「生きよ」と。生きることを大肯定している作者なんですね。その頃、僕はどこかで作者って死ななきゃいけないんじゃないかと思っていたのですが、僕は安吾の姿勢の方を選ぶことを選ぶと思いました。僕はこの時、言葉によって自分自身の存在を足元から丸ごと支えてもらったと言う思いがあって、僕自身も誰か鬱々として迷っている人に「自分も生きていいんだ」と思えるような言葉を差し出せたらいいなと思って、物書きになろうと思ったんです。

    p.87 手伝いと言うのは良くも悪くも本に書かれた言葉が1番体に浸透する時期で、自分がどっちの方向に行けばいいのか、自分の世界の姿がどうなっているのかと言うのを探そうと思っているた時だから、その時に出会った言葉っていうのはとても体の中で浸透していくんだと思います。自分が今まで知らなかったジャンルの本や舞台や映画、そういうところに好奇心を広げていくことができる。言い換えれば、ちょっと無理ができる。ただし、無理して読んだり見たりした者がどれだけ自分の中に残るかと言うと、またここが微妙なもので、やっぱり自分が1番関心が持てるものがずっと心に残るとも言えるのですが、このちょっと無理したときに得られたものが、その後の考え方に幅を与えることもあるのですね。だから、大学生の今はまだ、自分の関心のちょっと外側にあるものにも目を向けて読んだり見たりすることも大事だと思います。

    p.96 「1人の人間と言うのは、複数の言語がお互いに変形をしながら共存している場所であり、その共存と歪みそのものをなくそうとすることに意味がない。むしろ、なまりそのものの結果を追求していくことが文学創造にとって意味を持ち始めるのかもしれない。」多和田葉子『エクスソフォニー』

    p.98 今の日本と言うのは、区別がないはずのものに区別をつけて当たり前と言うふうになっているんじゃないかなと思うんですよね。例えば外国籍の人のビザ。日本での在留資格があるか無いかで、ないから収容されてもいいとか、長期間自由を奪われていいとか、果てには死んじゃっても仕方ないみたいなんてひどい考え方が正当化されているような感じがある。もしかしたら皆さんの中にもそういう考え方になびいている人もいるかもしれませんが、でも「ちょっと待って」と僕は言いたいんです。在留資格のあるなしで命の扱いを変えてもいいという考え方、人の命を左右してしまう考え方はあなたはほんとに正当化するんですかと。そこをもう一回考えてみてほしいと思うんです。

    p.99 本を読むと言う事は、他の人がどういう風に世界を捉えているかを知ることです。僕はやっぱりそれを知りたいから本を読む。それに、本を読むことで孤独にもなれる。これは孤独と言うものを肯定的に言っているのですが、孤独をとり戻すために本を読むと言うところもあると思います。それは自分の呼吸のペースを取り戻すためでもある。今はSNSを覗いた途端にあちこちから他人の言葉が押し寄せてきて心が満たされますけど、本を読む時と言うのは、1人の作者、あるいは作品と自分だけの対話なので、端的に言って呼吸が落ち着くんですね。そういう時は、自分が自分らしさを取り戻している時だと思うので、孤独になるためにも本を読むことをお勧めしたいです。ゆっくり読書の時間が取れなくても、電車の中で5分、10分読むだけでも、それまでとは違う心の隙を得られます。そして本を読むと言うのは、僕なりの言い方で言えば「みんな自分と同じだね」と言うことに気がつくこと。そして同時に「みんな違うんだね」と言うことにも気がつくこと。そういう複雑さを知るために本を読むということがあります。さらに、お互いの違いには上下関係などなくて「対等だね」と気づく。この同じ時間、同じ空間に自分の知らない様々な世界があることを発見して、その驚きを喜ぶ。その違いをが喜ぶ。自分の知らない文化には違和感が生じるものですが、人間のモラルに反することでなければ、その違和感も驚くとともに「すごいね」と喜ぶ。複雑なことを複雑のまま、豊かなものとして受けとめられるようになるためにも、本を読む事は大事なんじゃないかと僕なりに考えています。もしその過程で、対等であるはずなのに実際はお互いに立場が不均衡であることに気がついたら、なぜそんなことになっているのか、そこから知るべきものが生まれてくるでしょう。

    p.101 「積ん読」を解消する方法は?
    僕自身もそうで、「積ん読」の対象ってとても難しいと思うんです。やっぱりまずは、読みたいと思った時に読むというのが1つ、本のタイトルが目に見えるように並べておくこと。本のタイトルが見えなくなると忘れていって、どんどん新しい本が積み重なっていく。読みたいときにに読む癖をつけるのと、見えるところに本を並べておくと言うことが効果的かなと思います。

    p.112 私の場合には本屋に行って買うことが多いですが、とにかく面白そうな本の話を聞いたら、その本を探し回ります。絶版になっていても何とか手に入れる。それをすぐに読むか、と言えば読みません。積ん読になっています。積ん読になっているのが、いいんです。積ん読とは、時間があるときに心が動いたら読む、と言う習慣だと思っています。とにかく心が動かされた本にどんどん出会っておくことです。何を読むべきかを考えるよりも前に、心動いた本をためておいて、読める時に端から読んでいく。初めから乱れているわけですね。何を読むのかなど、特に決まっていないんです。

    p.113 コンタサルの「南部高速道路」と言う短編を受けていますが、これも非常に面白い。フランスで交通渋滞に巻き込まれ、車が全く動かない。延々と渋滞は解消せず、季節は巡り、高速道路で出産したり、死ぬ人も出てきます。時間そのものが止まってしまったかのように交通が止まり、人生が高速道路の中にあるような状況が生まれる。ところが今度は不意に交通渋滞が解消してしまうと言う、これも反合理主義的な作品です。

    p.124 先生はいろいろな国に巡ってこられたと、プロフィールにありました。多くの国を知ることで、物や人に対する価値観に変化はありましたか。

    旅をすることで自分自身が変容する、と言う経験だけではないと言うことに最近気が付きました。1982年にメキシコに行ったと最初のほうに話しましたが、その折にメスティーソたちとも仲良くなりました。ひと月ぐらい滞在して、日本に帰ってきて、それ以後は全くやりとりをしていません。その時に出会った男性が、その後結婚して子供ができた。子供に男性は、昔、ハポネスがメキシコに来て、先住民の村に旅をしていた、ということを伝えたらしいんです。その子は大きくなって、2010年くらいから世界中を放浪するようになります。日本にも来てどうやら私のことを探していたらしい。その事は数年前にある人から、1982年にメキシコの山の中をウロウロしていたのはあなたですかと言うようなメールをもらって分りました。つまり私が1982年にはメキシコに行ったときには生まれていなかった子が、親に旅行で来ていた日本人の話を聞かされて、大きくなったりをするようになり、日本にやってきたと。旅人は、旅に出て自分自身が何かを学んだり経験が豊かになるだけでなく、他者に対しても影響与えていると言うことがあるのだと思うんですね。それがときには、直接出会った人たちだけでなく、次の世代にも影響与えるようなことが起きる。旅することが、自己変容だけでなく、他者にも影響をもたらし、様々な人生に影響を与えていく。その広がりの面白さを感じてもいます。

    p.134 1つ目に、書評は論文とも違います。研究とは専門的な知能蓄積であり、研究論文は専門知識をインプットすれば、トレーニングがあって初めて書くことができるものです。自分の論文が、過去から現在の研究史への、知の蓄積に貢献するか、あるいはそれらを突き崩しうるかを考えるのが研究論文です。同ジャンルの研究論文を1冊も読んでいない人が、論文を書けるかというと難しいと思います。例えば研究文学研究で、カフカの作品を論じるとしたら、先行研究を網羅的に読んで、自分のこれから書く論文が先行研究のどこに位置するのかをしっかり考えることが必要です。一方、書評にはそのようなトレーニングは入りません。さっきお話しした 僕の大学の先生、もう亡くなってしまいましたが、文芸評論家の加藤輝洋さんがこう言いました。「批評や書評と言うものは、100冊本を読んだ人と、1冊しか本を読んだことがない人、この2人が同じ土俵で同じ力で殴り合いができるもの。どちらが偉いとか関係ない」書評は知識量で書くのではないんです。さらに書評は不要とも少し異なります。批評とは、ある作品をそれまで置かれてきたものとは別の文脈に位置づけ直すこと。独自の解釈を試みたり、文脈そのものを見出したりと言うことが必要です。 例えば、夏目漱石の『こころ』について以前、ある批評家が言ったことが、センセーショナルに受け取られました。心は語り手である先生、先生の友達の「K」が同じ女性を好きになってしまった、その三角関係をめぐる物語だと言われてきました。が、その批評家が言ったのは、「『こころ』は先生と兄をめぐる同性愛の物語ではないか」と言うことでした。これが、それまでとは別の文脈に、作品を位置づけ直すと言うことです。心をこれまでとは違う、同性愛の物語と言うコンテクストの中に位置づけ直すことで、自分だけの新しい価値をこの作品に見いだす。それが批評と言う ものです。しかし書評は、そのようなベクトルだけで書く文章ではありません。書評では、その本がどんな内容なのかを、まずしっかり伝えること。これが必要条件です。その本がどのような内容かをしっかりと伝え、その作品がいかなる価値を持っていて、それを読むことが読者にとってどのような体験になり得るのかを、広く届く文章で表現する。これが書評です。もちろん先に述べたような批評の枠組みで描かれる書評もあり得ますが、それは充分条件の部分だと僕は思っています。

    p.155 管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』
    皆さんの中にも次のような経験がある人もいるのではないでしょうか。本を読むべきものだからと、最初から飛ばさずに目を通す時、肩肘を張ってしまって、逆にページが進まなくなっていく。もしくは読書の猛者みたいな人の話を聞いて、たった1冊の話題本を読み終えることができない自分は本好きを名乗れないのではないかと不安になる。こういう状況には、私もよく陥ることがあります。それに対し菅さんはこう答えるのですね。「本は読めないものである」。本書では、「読む」と言う行為を根本的なところから考えていきます。最初の1行から最後の1秒まで、飛ばすことなく順番に読んでいく。それだけが読書ではありません。冒頭から進めなかったり、 落とさなかったとしても、心に残っている1場面、1フレーズがある。そういう本は、「読んだ」と言っていいと菅さんは書いています。どんな読み方であっても、自分にとって新しい言葉を獲得できたのであれば、それは読書の形の1つです。企画系には、まだ読み終えてない愛読書だって存在していいと私は思っています。その本を読了しているのか、それとも途中なのか、もしくは未読なのかを他人に証明する必要は無い。履歴書を書くためや、友人にマウンティングするために読書をしているわけでは無いからです。それよりも大重要なのは、自分を励まし勇気づけてくれる言葉とどれくらい出会えたかです。ここにいる自分を肯定できる、勇気づけてくれる1冊、1行、1文、ひとことがある。そういう本は、きっと 心の栄養補給源になる。私の周りにあるのも、そういう本達です。例えば『本は読めないものだから心配するな』の中にある次の一文はいつも力を与えてくれます。「本を読む。忘れる。それは当たり前。内容を覚えていなくても、「読んだ」と言わなくても、心配しなくていい。喜びを持って前に進もう。読めば、心の天気が変わる」。これは私の持論ですが、100回読める本と出会うことは、違う本を100冊読むことと同じ位価値があると思います。世界には山のようにたくさんの本があるのに、もったいないと思う方もいるでしょう。けれど、年間に何千冊も読むような読者の猛者でも、100回読める本と出会っている人は少ないと思います。自分にとって大事な1冊と言うものは簡単に見つけられるものではないし、探してもすぐ すぐに出会えるものでもないんです。だからこそ、たった1つで良い、生涯向き合うことができる本と巡り会えたら、とても幸運です。毎年この季節に読む本とか、一生手元に置いておきたい本が数冊あるなんて、素敵だと思いませんか。

    p.157 自分にとって大切な本と言うのは、向こうから歩いてきてくれるものではありません。こちらから本の森に入っていき「これかな、違うかな」といろんな本との出会いを繰り返していく必要があります。最初は相性の悪い本と出会うこともあるでしょう。ですが1冊でも好みの本と出会えると、その著書の著者の好きな本、その本を訳した翻訳者の別の作品と読書の幅が広がっていきます。そうすることで、自分の好きな本を察知できる「読書のアンテナ」 が次第に出来上がってくるんですね。「読書のアンテナ探し」はできれば学生のうちをお勧めします。社会に出て、例えば会社勤めする何かするようになれば、ほとんどの人は本なんか読む余裕もないほど忙しくなる。自分はどんな本が好きなのか、じっくり考えられる時間はがあるのはやっぱり学生時代だと思うんです。

    p.159 それまで言葉は、音として飛び出た瞬間に消えてしまうものだった。けれど、覚えた文字で、お、は、よ、雨、土上に駆けつけると、何回でも「おはよう」に会える。書くことで、今までは捕らえられなかった言葉を、1つの空間の中に抑え込めることができる。そういう言葉が詰まっているものが本である。すごく興奮しました。

    p.160 どう言えば良いかわからない自分の経験に、他の誰かが言葉を与えてくれる。その表現を探すことが、私にとっての読書でした。中学生位の頃から、小説を書いてみたいと、私はぼんやり考えるようになります。19から10 17から19歳位になると、自分で生み出した言葉や架空の舞台を使って作って、「私のような主人公」が全く違う人生を歩んでいること物語を描くようになりました。

    p.191 翌97年からはオタクのうんちく競争も「イタいもの」になります。ネタはマウンティングよりもコミュニケーションのために使うことになりました。続いて「キャラを演じる」という言葉が流行ります。場の空気を読んで過剰だと思われないように振る舞うことです。さらに世紀が変わって、場の空気を読めないことが「KY」と言われ始めます。KYにならないようにキャラを演じる。それが「友達」の基本。つまり友達がいなくなったのです。僕の考えでは、これが日本の劣化の「顕在化」の始まりです。例えば皆さんのような大学生をリサーチすると会話のタブが3つあります。 政治の話、性愛の話、本当に好きな趣味の話です。どう思われるか分からないし、過剰だと思われかねないからです。だからTwitterでは本アカウントと別に裏アカウントを複数持つようになりました。今の高校生は大学生は平均で1つのアカウントを持つと言う調査結果もあるほどです。

    p.194 もし、その昭和OSはなかなかなものでした。製造業中心なので、社会にはものが行き渡り、家電や交通インフラや通信インフラの恩恵から外れる人もいなくなりました。昭和末期には、かつてと違って見かけだけでは、地方出身者か都会出身者か、ブルーカラーがホワイトカラーかの区別もつかなくなりました。誰もが一般ピープルになった反面、弱者の連帯が不可能になりますこれをジャック・ヤングは2007年に「過剰包摂社会」と呼びます。その意味は、客観的には豊かになる機会や幸せになる機会を排除されているのに、主観的には排除されていることを意識できないので、配慮が止まらず加速していくと言う意味です。日本の経済思想の停滞や悪化は97年に始まりますが、大まかに言えば平成の時代はまさに「過剰包摂による排除」を進んだ時代です。それに気づかずに来れたのが、この2年半のコロナ禍でだんだん気づいてきた。これが「令和」の時代だと考えられるでしょう。

    p.199 実は若い世代ほど現政権に支持する度合いが高い。特に18歳から20歳が最も高いです。理由は2つあります。第一に、若い世代は豊かな時代を知りません。僕らの時代は1980年代のバブルの時代を知っています。ディスコで踊ったりナンパしまくったりが当たり前の時代です。高級車BMWが「六本木のカローラ」と呼ばれました。学生もバイトで中古外車が買えました。学生の仕送りも今の倍でした。バイトすれば贅沢放題。皆さんには想像もできないはず。物心がついた頃からそうだから「そんなもの」と思っているはず。僕みたいな世代は今とは全く違った「時代の空気」を記憶するので、今の貧しさが分かります。それがわかるほど政権に批判的になります。記憶がない皆さんは貧しさがわからず、政治には批判しない。先の昭和OSのおかげで、絶対的貧困ではなく、比較で感じる相対的な剥奪感だからです。

    p.207 僕が80年代に繰り返した大規模調査では、自己肯定感と対人能力が密接に関係しました。「自己肯定感が対人能力を高めて実りある対人関係が自己肯定感を高める」と言う循環があるのでしょう。家族の幸せを起点に考えれば、「家族の幸せ→自己肯定感の高まり→対人関係の充実」と言う因果関係があることになります。

    p.228 そのために各段階の風景がどのようなものだったか見ます。50年代の家は長屋か二階建て木造住宅で、ご飯は大人数で取り分けて、電気は電話がある数少ない家を介して呼び出し、テレビは不特定多数が集まるところに設置された街頭テレビでした。60年代の団地化で、2世代での家族団欒の食事、電話は玄関先に1台、テレビが茶の間に1台になります。80年代の「コンビニ化」で団地はマンションに変わり、電話もテレビも各部屋に1台になります。ちなみに80年代半ばには、ロジャースやダイグマのようなロードサイドショップで韓国や台湾が供給するOEM (供給先ブランド)のテレビが一万5000円で買えるようになったので「テレビの個室化」が起こり、85年の電電公社民営化(NTT誕生)で電話が買い切り制になって多機能化し、コードレスホンが普及したことで「電話の個室化」が起こります。これらに先の「個食化」が相まって、「1つの屋根の下の他人化」が進んだのです。それに続く90年代からの「携帯」は皆さんが体験しておられることなので説明はいりません。ガラパゴス携帯がスマホになり、それにタブレット端末が変わり通信回線もどんどん太くなると言う流れがあっただけ。かくて今は大学生でテレビを持つ人の方が珍しくなりました。ニュースもスマホで見るので新聞を購読する大学生も珍しくなりました。その意味で、テレビも新聞も捨てに終わることが確定したビジネスモデルなのです。ちなみに2020年以降本離れ=ブログ化を通り越して、ブログ離れ=動画化が進んでいます。まずブログだけではなく。InstagramのようなSNSを含めて脱文字化が進み、TikTokやYahoo!動画の切り抜きや、映画の本の要約動画サイトを含めて圧倒的な動画化が進みつつあります。

    p.232 汎システム化で、生活世界が完全消滅した
    全体傾向として、地域・家族・個人が空洞化し、それをテクノロジーで見るようになりました。「地域の空洞化」を家族の内閉化(専業主婦化)」で埋めるときには、家電製品が機能します。「家族の空洞化」を「市場化と行政化」で埋めるときには、コンビニのPOS(リアルタイム在庫管理テクノロジー)が機能します。「個人の空洞化」を「ケータイ化」で埋めるときには、IT (情報通信テクノロジー)が機能します。全てはひと繋がりなのです。

    p.270 僕の見解を加えると、そして計算可能な過程が社会を覆うと、今度は人が計算不可能性の免疫を失います。だから深い恋愛や友愛が避けられるようになります。資本だけでなく今度は人が、人の計算不能の可能性をコストだと感じ始めます。すると無人化そのものが今度は人のニーズになります。そんなふうに社会の無人化が進みます。

  • 田原総一朗「いま話したいこと、伝えたいこと」
    小林エリカ「記憶、過去、歴史、時間、放射能 ―― 目に視えないものをえがくこと」
    佐々 涼子「ノンフィクションの醍醐味と自由な精神」
    木村 友祐「さまざまな世界を知り、孤独を取り戻すために本を読む」
    奥野 克巳「文化人類学者の文学修行」
    長 瀬 海「書評とは何か ―― その役割と書き方」
    温 又 柔「本と出会おう、言葉と出会おう、仲間と出会おう!」
    宮台 真司「民主主義に意味はあるか」「権威/市場主義化する世界の中で」ほか

  • 大学生がどんなふうに、どんな本を読んだらいいか。いろんな人から意見を聞く講座の講義録。

    まずは、その人に興味を持つこと。

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著者プロフィール

ジャーナリスト/1934年滋賀県生まれ。早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社、64年、東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。77年からフリー。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」「サンデープロジェクト」でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。98年、放送批評懇談会35周年記念城戸又一賞を受賞。現在も「激論!クロスファイア」(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ、ラジオの出演多数。著書に『日本の戦争』(小学館)、『創価学会』(毎日文庫)、『さらば総理』(朝日新聞出版)など多数。

「2023年 『会社が変わる!日本が変わる!! 日本再生「最終提言」』 で使われていた紹介文から引用しています。」

田原総一朗の作品

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