ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー
- 藤原書店 (1990年4月20日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
- / ISBN・EAN: 9784938661052
作品紹介・あらすじ
絵画、音楽、映画、読書、部屋、料理、服装、レジャー、スポーツ、友人、しぐさ、意見、結婚…。毎日の暮らしの理屈ではない行為の中の見えない権力・階級化原理を独自の概念で鋭く緻密に分析する今世紀人文・社会科学、最高の成果。
感想・レビュー・書評
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ディスタンクシオン、英語読みで、ディスティンクション。
他者と自分とを差別化することで、自分を認識すること。
ただ、その差別化の仕方が、相手を侮蔑、貶めて相対化するのではなく、フラ語では上品、高等な、という意味合いもあることから、どちらかというと、自分自身を高めるニュアンスの方が理解する上では正しい。そのため、日本語訳では、卓越化という言葉が採用されている。
フランスの現在もなお残る階級社会という社会階層、身分の差が、人々の趣味、すなわち人々の日常の生活様式、慣習行動という目に見えない部分にまで影響を与えているということを述べた作品。
つまり、本来的に個人の好みに関わる問題とされ、一見全面的に各人の自由な選択に委ねられているかに見える趣味の領域においてさえ、我々の判断が実は自分の所属している階級もしくは集団に固有の知覚・評価・判断・行動図式の体系(=ハビトゥス)によって厳密に方向づけられ規定されているということ、そしてそこには必然的に自らを他の階級・集団から区別し卓越化しようとする戦略が介入て来ざるを得ないということ、こうした基本認識の上に立って、種々のアンケート調査に基づく膨大な資料を駆使しながら、恣意的な差異を生産する分類=階級化のメカニズムがいかにして広義の「文化」をヒエラルキー化してゆくのかを明らかにしようというのが、ブルデューの意図である。
書中で、上流階級の人たちの趣味が正統趣味とされている。社会学においては、何が正しいとか正しくないとかっていうことは言えないし、だからこそ社会学だし、順だとか逆だとかいろいろ言われている中で、相対的に捉える必要が常にある学問だと思っていた。
だから、正統趣味って字面だけを見たとき、何が正統だ、ブルヂューアホか、って思ったけど、ちゃーんと書いてありましたよ!!
「正統性」は本来、「法律的に見て正当な根拠があること」すなわち「合法性」の意であるが、ブルデューはこれを成文化された法律や規則の存在するわけではないあらゆる文化領域に拡大適用し、支配者が被支配者に対して自らの文化の優越性を承認させるにあたっての基本的根拠と設定している。
こうした分節化をもたらす原理として機能しているのが区別=卓越化もしくは分類=等級づけclassmentの操作であることは言うまでもない。
それ自体の根拠を問われることは決してないという意味で、「正統性」とはこのようにいわば1つの虚構としての概念なのであり、おもはや恣意的なものとしては知覚されなくなるに至るまで正当化され、公認された恣意性、とでも言うべきなのである。
そうそう。正統とされているものほど、恣意的な、一方的なものはないね。だから僕は広告が嫌いなんだ。正統化しようと躍起になってさ~俺が正しいって顔してふんぞり返ってるでしょう?気持ち悪いよね~。一方でテレビですよ。テレビやネットはもちろん正統趣味を再生産している側面もあるけど、広告と違って逆もできると思うんです。逆ってのは、庶民趣味を伝えることもできるよねってこと。多様性に富んでいるっていう意味ではどっちかってったらネットの方が強いか。でも、ベクトル的に、庶民から上流へ向けてっていうボトムアップなニュアンスはテレビか。ネットは階級にしろ何にしろ、その人のバックグラウンドを最初はフラット化させるよね。
続きはディスタンクシオン2で。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
(一部、そしてふんわりと感想)
たとえば、美について。美術館という装置は、王(権力者)を頂点とするヒエラルキー構造を強化するために蒐集物を体系化したのがもと。だから、その文脈に従うかどうかで美を理解しているかの判断をするのが、メインストリームの階層構造化においては、まあ「文化資本」は発生するだろう。それが真実に通じる美そのものか、ということではない。それが、真実に通じると美とされているかどうか、だ。「されているかどうか」の判断を行う材料が文化資本、学歴資本、社会関係資本、etc...であり、これら資本やディスタンクシオンはきわめて功利的な営みの結果でもある。高尚めいたり、秘匿ぶり、コードに沿うことは、階層を強化し、固定化し、地位や財産を囲い込む(再生産する)うえで大変肝要なのだ。
ニーチェ「権力への意志」とかで価値評価、何が美で真実により近いかって、それって時の権力者と金魚のフンどもの都合ですやん、的なお話があった。こちらの作品はそれにリサーチデータを礎にポモふりかけで召し上がれー、モグモグ、…って感じ?
個人的にはギチギチしたほうがほんとは好きなんだけども、データとかついてて20世紀末らしい語り口調のほうが、ケーキでも頬張りながら気楽に読めるなーというのがふんわりした感想ではあります。
はぁ。それにしても、好きなものと社会階層がつながってますよーという話が延々書いてあり、読み物としては刺激が少なく、少々食傷&欠伸する。調査に基づいていて、適当な偏見では決してないという実証としてはばっちりなのだろうが、生活定点やマーケティングリサーチのリポート読んでるほうが面白い。しかし、現代以降を観察するにあたっては、目を通して理解しておかなくてはならない必須本のひとつではあるだろう。
(現在の日本社会において、この本で行われる各種考察を読む際に、考慮しておくべき異なる背景について。↓)
・日本自体がフランスをはじめとする欧米に対して、ここで述べられているヨーロッパ式階層においては、かなりの「格下」である。
・日本はこれらの階層グッズをハリボテの猿真似、もしくは金で買っている、とみなされている。階層を手に入れ、権力を高める4種の根源(ソース)のうち、金のウェイトが高すぎる。あとは、粗野な民衆の力。聖なる意志や勇敢さといった、精神性や高貴さを、そのソースとしているケースを認められづらい。 -
イングランド、ウェスト・ミッドランズ(バーミンガム)にある労働者階級の中学校。生徒、パンクロック(カウターカルチャー)が好き。卒業後、労働者階級の仕事に就く。労働者階級の家に生まれ、労働者階級の学校へ行き、労働者階級の文化を身につけ、労働者階級の仕事をする。階級の再生産。エスノグラフィー。ポール・ウィリスWillis『Learning to Labour: How Working Class Kids Get Working Class Jobs (ハマータウンの野郎ども)』1977
※エリート層は高級文化を享受し、大衆文化にはなじまない。英ではラグビーはエリート、サッカーは大衆のスポーツ。
フランス。一般民衆と比べて、上層の人々は生活の必要から解放されており、審美的態度で物事を見る。上層の人々は教養・趣味・感性・ふるまい・礼儀・マナー、言葉の発音、音楽的素養(身体化された文化資本)において洗練されている。上層の人々は書物・絵画(客体化された文化資本)をたくさん持っている。上層の人々は学歴・資格(制度化された文化資本)が優れている。上層の人々は文化的に洗練された素養を必ずしも誇示しようと意図していない。無意識の文化的性向になっている。▼文化資本は、家庭環境や学校教育で各個人に蓄積される。親から子に受け継がれる。上層の人々の子供は家庭や高等教育を通じて親と同じ高い地位(学歴・職業)を得る。こうして階層は再生産される(文化的再生産)。ピエール・ブルデューBourdieu『ディスタンクシオン』1979
※経済資本があり、文化資本もある家(上層)。経済資本がなく、文化資本もない家(下層)。経済資本はあるが、文化資本がない家(学のない成金)。経済資本はないが、文化資本はある家(学のある貧乏人)。
※労働者「階級」出身で、高学歴という教育「階層」に属し、自営業という職業「階層」に属し、低所得という所得「階層」に属する人。
※低学歴だけど、金持ちの社長・芸能人。高学歴だけど、貧乏な非正規。
『政治学』 -
冗長でまわりくどく小難しいが、若いうちに一読しておくと、役に立つのではないかと思う。まとめ記事や要約ではなく、翻訳であっても一次情報に触れるのは大切。
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<閲覧スタッフより>
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所在記号:361.5||フヒ||1
資料番号:10140265
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http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784938661052 -
フランス語的表現の理解に時間がかかりますが、文化社会学をかじるものとして興味深い一冊です。