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- / ISBN・EAN: 4988104023087
感想・レビュー・書評
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中高の授業で出会い、(確か)凄惨な描写が多いけど観た方が良いと言われていたような記憶もある。
映画は昔から好きだったけど、この場合予告編だけで卒倒しそうだったから一旦身を引いた。
思い出したように今になって観たけどやっぱり辛い。
今も動揺が止まらない。
確かに受難の場面はしつこく頭の中に迫ってくる。
でも一方でキリスト教が身近にあった10年の間、先生方が何を伝えられようとされてきたか漸く明快になった気がする。
人間はどこまでも残酷になれる。
でもイエスはそんな人間達にどれだけ痛めつけられても彼らを赦すよう「父」に懇願する。
喘ぎも途中から痛みからではなく彼らの所業を憐れむ声のように聞こえてきた。
イエスがゴルゴダの丘に向かう道の両側でマリアと悪魔が対峙する場面が何だか鮮明に焼き付いている。
また一歩、踏み出した。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
生き生きとした暴力を描きたいが為だけにイエス・キリストを利用した感がハンパない作品だった。皮肉を込めて言わせてもらうと「人類史上最も神聖なスナッフ・ビデオ」だな、これは。
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キリスト教、宗教について考えたいときに。補足情報なしでは、ただの痛い映画でしょう。(私は若干そうでした。)母の存在が強く印象に残った。
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救済をでかく見せるための拷問、わかってもこの表現は無理。キリスト教の魅力がわからなくなった。
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ドレ画集ではあるが新約聖書のあらすじをざっとおさらいして臨んだ本映画。
イエス捕縛から裁判を経てゴルゴダの丘での受難までという割り切った作り。
残虐シーンの多さで喧伝されていたし、やはり鞭打ちの場面では眉をしかめてしまった。
しかしそれよりも何よりも、回想場面(幼いイエスが母と語らうところは特に)、幻想の場面(あんなに蛇っぽい人は見たことがない)、母マリアとマグダラのマリア(意想外にしっかりしているところも含め)、呼び止められて十字架をかつがされたユダヤ人、笑うローマ兵たち、などなど、映画による感動がもたらされた。
また悪いのはだれかではなく、責任の中心はやはり空白だった。これはいつの時代でも同じだ。
そして人はどれだけでも残虐にもなれるし、自分の残虐さにとまどったりもする。
つまり集合してきた人々の在り様が、決して一色ではないところも素晴らしい。「やりすぎじゃないのか…」と顔をゆがめる人もいる。
(ちなみにピラトは中間管理職っぽかった)
ただの原理主義者変態マゾヒストじゃないんだな、メルよ。
スローモーションなし、BGMなし、効果なし、でも見てみたい。 -
そりゃもう終始痛々しい映画です。
止まぬむち打ち、増えていく傷、はりつけのシーン。
見たくないと思いながらもあっという間に終わってしまいました。
人の罪とは重いなあ、全て背負ってくれたんだなと思うとなんだかただ申し訳なさがわいてきました。
あまりキリスト教について詳しくなかったので
呆然と見てしまい痛い印象しかありませんでした。
パッションというのも「情熱」の意味ではなく十字架での死のこと、受難のことなのですね。
キリスト教徒の方はどんな気持ちで見るのでしょう。
少年が悪魔になるとここわかったー。
一回見れば十分。 -
宗教映画。良作だと思う。鞭打ちなどの拷問シーンは圧巻でその苦しさが伝わり感情移入してしまう。作中のイエスは現実逃避し意味不明な言動で周囲を腹立たせる新興宗教のおっさんにしか見えないのだが、その受難を見ると原罪の概念も相俟って、申し訳なさのあまり入信し、広めてしまうのもわかる気がする。(悪魔は実在せず、イエスの妄想とも取れる。) 日本の新興宗教にも通ずるところがあり、色々考えさせられる作品。
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「サバクタニ」と発するシーンを見れて言うことなしです。
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メル・ギブソンが資材を投じて作成した映画で、国によっては放映禁止措置までされた映画です。
イエス・キリストの最期の12時間に何があったのか、新約聖書に簡潔に描かれている事が、僅かな脚色を加えつつですが、ここに詳細に語られています。
ローマの圧政に苦しんでいた当時、神との契約として人が救われるためには、律法を守ることが何よりも大切とされていて、それがとてもとても厳しいものでもあった時代に、人が救済されるためには律法は必要ではない。信仰だけで十分である。
そう言ったイエス・キリストは、それだけでも当時の司祭たちには、赦されるものではなかったのでしょうね・・。
そして、イエス・キリストを通して、神との新たな契約が結ばれる事になり、そこからキリスト教が生まれるのですが・・。
決してキリスト教だけが素晴らしいとか、それを信じれば救われるとか、そんなことを言うつもりは全くありません。
救いも優しさも、それぞれが見いだして、それぞれがそれに近づいていくものだと私は思っています。
その上で、ですが・・。
はじめて観た時には、そのあまりにも度を超えた痛々しさに涙しました。
でも、今は違う意味で涙します。
人生には、精神的に困窮することがあります。
そんなときに、なぜかこの映画を思い出し、十字架にかけられたイエスキリストの受難を思い出してしまうのです。
苦しみに上も下もない。
そこからなにを選ぶか。
そこに愛があるのか。
選んだその道は、苦難に満ちていても愛があるのか。
自分の道は誰かを笑顔に出来るだろうか。
そんなことを考えたときに、思い出すのです。
「主は、乗り越えられない苦難を人々に与えはしない」
と言います。
それなのに私は、苦難に立ち向かうときに、恥ずかしながら、食い縛ります。
時に境遇を憂う事もあります。
でも、イエスキリストは違います。
ここまで凄惨を極めたむごい仕打ちを受けながら、それでもなお最後の一瞬まで、人々の救いのために尽くし、祈ります。
それは、神の子だから出来たことなのかも知れません。
ですが、私にはそれだけではないと感じるのです。
それはただの惨たらしい磔刑と言うものだけではなく、私たちに向けられた、「生き方」をも示しているようにも思えるのです。
与えられる恵みを享受するだけでなく、自らにイエス・キリストの教えを宿すとはどういう事なのか。
愛すること、赦すことの真意はなんなのか。
決して目を背けてはいけない何かが、そこにあるように思えるのです。
劇中の、マグダラのマリアとの出会いのシーンもとても印象深いものです。
痛々しく、惨たらしい映画ですが、最期の一瞬まで目が離せないものとなっています。
個人的に、手放せない映画のひとつです。