Qの観てきた映画史上、最高傑作。
あらすじとしては、おおむね、以下の通り。
第二次世界大戦直前、イタリアのトスカナに、友人とともに、伯父を頼って、ぽんこつ車でやってきた、陽気な男、グイド(ロベルト・ベニーニさん)。
グイドは、小学校の教師ドーラ(ニコレッタ・ブラスキさん)に一目ぼれし、熱烈、かつ、ユーモラスなアタックの末、結婚して幸せな家庭を築き、一人息子のジョズエ(ジョルジオ・カンタリーニくん)をもうける。
しかし、次第に戦争の影は、グイドの町にも及び、グイド一家は、ナチスの将兵によって、列車に詰め込まれ、強制収容所へと送られてしまう。
母親と離れ離れにされた、幼い息子のジョズエに対し、グイドは、一つの「うそ」を思いつく。そして、その「うそ」のゲームを達成したら、豪華景品と共に、家に帰れると、告げるのだった……。
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冒頭の、友人と二人、ぽんこつ車で、坂道を下っているとき、ブレーキが効かなくなり、ナチスの高官を迎える沿道の群衆の中につっこみ、いろいろ勘違いされたまま、たすきをかけて、例の「最敬礼」をしながら、オープン・ルーフ(?)の車に立ったグイドが、つっぱしって行く、というシーンから、ラストの、母子の再会のシーンまで、もう、笑いあり、涙あり、ユーモアも、ペーソスも、機知も、偶然も、奇跡も、目をそむけたくなるような、過酷な「現実」も、家族愛も、幸福も、ありとあらゆるものが、渾然一体となって、この作品には、つまっている。
もしかすると、その「渾然一体さ」が、「LIFE」なのかもしれない。
名シーンの連続から成る、この作品の中で、今も目に焼き付いているのは、「ゲーム」がいやになって、家に帰りたいとむずかるジョズエに、青と白の縞模様の囚人服を着たグイドが、いつもの陽気な早口で、「あともうちょっとなのに、ざんねんだなあ、でも、お前がそう言うんなら仕方ないよ、さあ、家に帰ろう」などと、身支度(といっても、持ち物など、ほとんど何もないのだが)を始め、すたすたと、捕虜収容所のバラックのドアを出て、雨に打たれながら、ジョズエを振り向き、にこやかに笑って、静かにたたずむシーン。
結果、ジョズエは、迫真のグイドの演技に、「ゲーム」を続ける気になるのだが、あの、雨の中に立つ姿は、忘れられない。
本来、こうしたことに、せんさくは不要だし、あれは、一種の「賭け」であり、ジョズエが「ゲーム」を続けるように仕向けたものであるけれど、(そういう想定は、あり得ないが)もし、ジョズエが、それでも「帰りたい」という選択をしたのなら、グイドは、静かに笑って、一緒に「お母さんのところに寄って、一緒に帰ろうか」などと、最後まで陽気に「うそ」を貫き続けたのではないか、と思ってみたりもする。終盤、「かくれんぼ」する息子に、「ブリキの兵隊」を、やってみせたように。
あの「息子を優しく見つめながら、雨に打たれて立つ姿」に、何か「聖なるもの」を、感じるのは、なぜなのだろうか。(グイドは、ひたすら、陽気で、純粋、何があっても、とんちとユーモア大好きな、やせっぽっちの、「家族思いな男」、なのだが)
あの、捕虜収容所での、ナチス・ドイツの将校の、とてつもなくいい加減な「うそ説明」の、翻訳をかってでたシーン、もう、最高としか言いようがない。
「戦争」、「ホロコースト」、「強制収容所」、これほどまでに強烈に重いテーマを、「人生の素晴らしさ」の視点から描き切り、ユーモアと、涙と、笑いと、愛で包みこんだ作品を、他に知らない。
もし、「真の勝利」というものがあるとするならば、このグイドと、ジョズエ、ドーラが見せてくれたものが、その一つの在り方なのかもしれない。
ちなみに、監督・脚本・主演は、「グイド」役の、ロベルト・ベニーニさんであり、「ドーラ」役の、ニコレッタ・ブラスキさんは、ベニーニさんの、実の奥さん。また、ベニーニさんの父親は、アンネ・フランクさんがなくなった、同じ強制収容所に収監されていたとのことである。
世界各国の映画賞を受賞したこの作品、どの賞の授与式なのか分からないけれど、ベニーニさん、授与者の方に、キスしまくり、おそらく映画界の重鎮で、いかめしい感じの授与者の方も、相好をくずして笑ってしまっていた。きっと、根っから、ベニーニさんって、こういう方なのだろうなあ、と、こっちまで楽しくなった。
「Life is beautiful」、原題は、“La vita è bella” で、「ラ・ヴィタ・エ・ベルラ─生きてることは、素晴らしい─」
「生命賛歌」の、最高峰。