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感想・レビュー・書評
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(1977.08.18読了)(1977.07.28購入)
*解説目録より*
コロンブスの登場以来新大陸は、旧大陸の人々にとってさまざまな夢の源泉と絶えざる搾取の対象になった。彼らは、当然のこととして原住民を奴隷状態で酷使した。それは「劣者が優者に支配されるのは正当」というアリストテレスの論理によって正当化された。しかし突如として原住民側に立つ男ラス・カサスが出現し、それに生涯をかけて反対する。本書は、十六世紀中葉における原住民奴隷化の是非についての思想的闘いを感動的に描く。
【目次】
序
凡例
Ⅰ 空想としてのアメリカ
Ⅱ アリストテレスとアメリカ、1550年まで
Ⅲ ラス・カサスとセプルベダの前哨戦、1547年-50年
Ⅳ バリャドリ大論戦、1550-51年 -舞台装置-
Ⅴ バリャドリ大論戦、1550-51年
-アリストテレスの先天的奴隷人説のインディオへの適用-
Ⅵ バリャドリ大論戦、1550-51年
-インディオに対する正義の戦争の遂行-
Ⅶ 戦闘の余波、1550-1955年
Ⅷ 「世界のすべての民族は人間である」
付録 セプルベダとアルフォンソ・デ・カストロの往復書簡
解説 「バリャドリ大論戦」までのラス・カサス 増田義郎
※中南米
「ラテン・アメリカ史」中屋健一著、中公新書、1964.02.25
「インディアスの破壊についての簡潔な報告」ラス・カサス著・染田秀藤訳、岩波文庫、1976.06.25
「世界の歴史07 インディオ文明の興亡」増田義郎著、講談社、1977.05.20詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大事だと思われる本を紹介したい。
『アリストテレスとアメリカ・インディアン』
1550年に、アメリカ先住民を武力で征服し奴隷にしたり虐殺することが「正しい」ことなのか間違ったことなのか、を当時のスペインの一流とされた学者が論争した「バリャドリ大論戦」を扱った本だ。
戦争・征服・奴隷化を自分の学識を武器として肯定したのはセプルベダという人物で、反論したのは告発の書『インディアス破壊小史』を遺したラス・カサスだ。
そしてセプルベダがその現代的にみると暴論の根拠としたのがアリストテレスの「先天的奴隷人」説だということだ。
「人類の特定の一部は奴隷たるべく自然によって生まれつき定められており、労働を免れ徳高き生活を営むべく生まれた主人に奴隷として奉仕する」なんてことをアリストテレスは説いていたんだって! これは知らんかった。万学の祖とされてきたアリストテレス、フレーゲが記号論理学を発明するまで2000年間揺るがなかった論理学を打ち立てた知の巨人であることは否定できないけど、「石はそのあるべき所へ向けて落ちゆく」という運動学説でずっと自然科学の発展を阻害してきた面もある。こんなところでもトンデモの種を蒔いとったんだな。
そのセプルベダがアメリカ先住民に対する侵略戦争を肯定する理由というのが、
1. インディオが犯してきた罪の重さによって。特に彼らの偶像崇拝と自然に反する罪。
2. インディオの性質が粗野であるという事実によって。これは彼らをして、もっと洗練された人たち例えばスペイン人に奉仕するよう義務づけるものである。
3. キリスト教を広めるために。原住民を前もって屈服させておくことによって、これはより容易に達成されるであろう。
4. 原住民の中の弱者を保護するために。
というものだった由。
これって形を変えて、最近の侵略者やレイシストやプーチンなんかも同型の屁理屈を言ってるよな。そういう意味で、500年前の「バリャドリ大論戦」って全然古びてない、今に通じるものじゃないのかな。
で、このセプルベダって、「スペイン人はその優越性のゆえに野蛮人を支配する明らかな権利を持つ」ということを言いたいがために、「ローマ侵攻(1527年)の際のスペイン兵の温良さ・人道的感情」なんてことを例として述べてるのだが、歴史的事実としてはスペイン兵はローマでとんでもない蛮行をおこないそこを地獄にしたのが本当で、つまりこの人は歴史修正主義者でもあるようだ。
現代にも同類はうじゃうじゃ居るよね。
そして彼はスペインで最初の愛国的著述家なんだそうで「スペイン人が神から授かった思慮、才能、雅量、克己心、人道性」云々を述べ立てるためのスペインの偉人伝みたいな本も書いとるそうだ。
差別者で歴史修正主義で愛国者。三点セットで来るんやな、いつの時代でも。
これに対抗して事実と普遍的な善の探求(キリスト教徒としての)で以て粘り強い論陣を張って、スペイン王に侵略を止めさすことには及ばぬもののある程度のブレーキはかけさすことができたのがラス・カサスであった。
このラス・カサスにしても、アリストテレスの全否定はできなかったとのこと。結局アリストテレスはルネサンス期を支配する哲学者であり、その思想はカトリシズムの哲学的基礎を準備したのだから聖職者のラス・カサスはアリストテレス全否定では論陣が張れなかったのだろうね。
しかし、ラス・カサスは「先天的奴隷人」説を決して弁護はしない。逆に彼はその適用範囲をできるだけ狭く限定しようとしたのである。彼は単に、アメリカ先住民について先天的奴隷人の範疇に入らないことを主張しただけでなく、いかなる国家・いかなる民族といえども決してそうした劣等の位置を押し付けられてはならないという結論に結びつく展開をしているとのこと。
このへんを僕はラス・カサスさん、意味深だなと思った。「先天的奴隷人」をまるごとのある民族に当てはめるのは間違いだと主張したが、「先天的奴隷人」に該当する人間が全く居ないという否定はしなかったあたり、腹に一物あったんじゃないか? つまり上記のセプルベダ氏こそは、彼自身が「先天的奴隷人」に当てはまる一例ではないのか。彼はアリストテレスの本をラテン語に翻訳するなど艱難辛苦というべき学問的偉業をやっているけど、その苦行をトンデモなことにしか活かせない(彼はメキシコとかの侵略者からご褒美をもらってたそうだ)そうなってくると彼の学問的努力は奴隷労働でしかなかったということにならんか?
類似した人間は現代の我々の周りにも居るだろう。例えば高偏差値の大学の法学部に入ってとてつもなく難しい司法試験に合格するという勉強の苦行を積み重ねて裁判官になって、人間理性を真っ向から侮辱し貶し込めるような判決文を、それこそ艱難辛苦で捻じ曲げて捻じ曲げてひねり出す。こんな営みに耐えられるのは彼が先天的に奴隷根性を身に着けてるからじゃない? そうでもなけりゃ裁判官になるまでのクソみたいな勉強も真理を捻じ曲げた判決文のこねくりまわしという難行も、耐えられたもんじゃないだろう。先天的に奴隷に相応しくできてる人以外にはそんなことはどだい無理だと思うし。
裁判官にかぎらず、そういう奴隷的生き方を凄まじい努力でやってる人間ってけっこういますよね。
そういうことも、この本を読みながら考えちゃいました。
「バリャドリ論戦以来のどの世紀にも、両陣営が信念と情熱を弱めたことなど一度もなく、論戦は常に繰り返し研究され、むしかえされ続けてきた。十六世紀に二人の立て役が演じた戦いは、ラス・カサス、セプルベダ双方の支持者が世界の各地に輩出するにつれ、それ自体論争の主題となって今日に到ったのである。
四世紀以上も前にバリャドリで論じられた、文化・宗教・風習・技術的知識の異なる二つの民族の間の正しい関係は何かという問題は、極めて今日的で重要な意味を持つ。セプルベダとラス・カサスは、われわれとは異なる民族がこの世界には存在するという事実そのものが発する問いへの、二つの基本的で相対立する解答を、今日もなお代表し続けているのだ。」
この記載にピンとくるものがある人はこの本を手に入れるとよいと思う。
でも残念なことに絶版で古本でもちょっと手に入りにくい。見かけたら是非ゲット!