「甘え」の構造 (1971年)

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感想・レビュー・書評

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  • 辻村深月の『傲慢と善良』と、さる専門雑誌にて和田秀樹先生が「甘え理論」について言及していたのでもう一度読んでみる。

    甘えは日本人特有の気質であり、ソーシャルスキルでもあるようだ。

    従って、「甘え上手」な人は社会的にも有利である。

    欧米文化が原罪即ち罪悪感の文化であるならば、日本人は恥の文化であるとは菊と刀でもその後の文化人類学でも概ね認められているとも思う。

    西欧や北米の人たちは、どんな場面でも選択肢が与えられる。本書でも土井先生がアメリカにて体験した「紅茶に砂糖をいくつ入れるか」とかいちいち選択肢があり、決定せねばならんと記述があったし、高校から自分どのカリキュラムを選択して授業を履修するか、自己決定権がある。

    日本では、出されたものを出された通り飲んで食べるし、場合によっては大学でさえ履修すべき授業を選択させてくれる事もあると聞く。

    これでは、自分で決定するという体感が身につかない。

    本書では「祭り」についても少しだけ取り上げられていたが、今日の、渋谷のハロウィン騒ぎは日本人らしさが出ていると感じる。

    信号が代わり、警察官の指示と号令の基にぐるぐる走り回るさまは盆踊りと酷似している。

    太鼓の音に合わせてぐるぐるぐるぐる同じ動きをみんなと一緒にぐるぐるする。

    そして日本人はみんなでぐるぐるが大好きだ。

    盆踊りもみんなでぐるぐる、茶道もみんなでぐるぐる、ディズニーランドは左から右回りでぐるぐる、ラーメンのなると巻もみんなぐるぐる、暴走族もブンブンぐるぐる、最近はグルコサミンだってみんなでぐるぐるだ。

    みんなでぐるぐるしてるとなぜか幸せな気分になるものだ。

    さて。

    恥の文化は、内と外という感覚を育み、欧米における公共性という感覚を育む事はなかった。

    日本人が礼儀正しいだの、災害時にも整然としている事が「素晴らしいと欧米メディアが絶賛している(と日本人が言う)」時も、これは欧米における公共性というよりは、個人で決定する事を避け、誰かが決定し行動する事を待っているだけに過ぎないのではないかとも感じた。

    これだけ個人の自由が認められ、自由が普遍的な価値観であるとされ続けた戦後幾数十年ではあるけれど、現在の日本人も個人の自由というものを軽視している。

    これは、やはり個人であることに耐えられず、集団における個人でなければ安全・安心できないからに他ならない。

    だから、「わがまま」は許されないけれど「気まま」は赦される。食事や旅行をするにも大人数は許されて個人は許されない。

    学校に入る前に友達100人できるかな?を歌わされ、みんなで仲良くしましょうと言われ、ちょっとみんなと違う経験をしてるからって教師も一緒になって疎開児童を「セシウムさん」と渾名され、ランチメイト症候群だのぼっち飯だのがとてもさびしく恐ろしいものに感じる。

    孤独は恥ずかしいもので、「ぼっち」と言われるのはなぜかを考えると、土井先生の甘え理論に立ち返ってくる。

    甘えとは相手あってのものである。

    甘える・甘えられるという関係性は、とても温かく自然で、原初的な母子関係に近い関係性である。

    これが、旧い日本社会を指して「欧米が父性社会で日本は母性社会だ」とされる所以でもあるだろう。

    母子関係は依存的関係であり、子供は原初的没頭の母親に抱えられ、万能感を満たし、攻撃性が生じ、抑うつを経験し躁的防衛を経る。

    この体験こそ「甘える」という事であって、甘える練習を養育者との間で練習し、別の相手にも甘え、甘えられるように成長していく。

    甘えとは、クラインの理論のようであり、コフートの理論のようでもある。

    和田先生曰く2000年頃から土井先生の「甘え」理論は読まれなくなっているそうだ。

    この頃からは「自己責任論」の時代が到来し、甘える事が許されなくなっただろうか。

    これは日本人が成長し、より良くなった結果だろうか?

    成長と言うと、フロイト曰く、エディプス(父親)葛藤を超える事が成長即ち人格統合であるという。

    社会的にも、これまで父親葛藤はずっと存在していた。

    戦前世代への反発としての学生運動。

    学生運動していたかと思うと授業に出て髪を切って就職活動を始めた世代への反発としての親父狩りや校内暴力。

    暴れまわって利己的な事をやっていたかと思うとバブルを謳歌するだけだった世代。

    何も残さなかったと反発する失われた30年(ミレニアム・プレ/ポスト3.11、ジェネレーションXYZ世代)

    これらはいずれも父親葛藤のようであり、先の世代への同一化拒否である。しかし、流れを見れば、同一化拒否があっても結局は反発した世代も次の世代からは同様に同一化拒否を叩きつけられ、反発されている。

    このように考えれば、昨今の風潮である職場の飲み会拒否も、働き方改革も、先の世代の価値観への同一化拒否であり、「もうそれは許さないぞ」という攻撃性である。

    ハラスメント然り、飲み会然り、そんな甘え方は通用しないぞ、下の世代であるわたし達に甘えんなと。

    ところが、昨今では若い世代に対して自己責任がより一層の強い圧力として表出している。

    老後は2000万円貯金しておけ、災害対策も国に頼るな、などである。

    ここへ至って、甘えは相手が見えなくなり、「他者」になったようである。(和田2019)

    相手があっての甘えであったが、相手はいつの間にかいなくなり、見えない「他者」となった。

    これでは、これまで日本人の社会を動かしていた甘える・甘えられるという基礎的なコミュニケーションのパターンが通用しない。

    日本人にとって甘えを失う事は、言語を失うことと同じではないか。

    このままではバベルの塔の崩壊後のように、コミュニケーションが成り立たなくなるかもしれない。

    もっと甘えてもいいし、甘えられるのもいいじゃないかと恐ろしくもなってくる。


    (ここまで2019.10.28)


    その他
    P.108
    日本人にとって自由は死の中にしかない。

    P.126
    「こんにちの社会の人間関係は昔に比べて容易に人を甘えさせない」

    P.157日本人の被害者意識。
    甘えの心理。丸山真男の指摘。
    指導的立場にある人たちであっても被害者意識に悩んでいるという逆説的事実。

    潜在的な被害的心理、甘えの心理。


    p.159 甘えを媒介にして人との共感関係を経験したことが少ないと目標に執着する、しかしその目標は非現実的である。

  • 1991年の第2版のもののため、表紙が異なる。また、「『甘え』再考」が加えられている。
    序文でも述べているが、極めて「甘え」とは当たり前のことだ。ひとなら誰にも「甘え」というものは共通している。それは甘えとは「好意」だから。
    不思議なことに、ひとは、自分ではない誰かの「好意」を欲するし、「好意」を向けるひとを好きになる。当然、自分ではないひとに好意を向け、依存することをよしとしない考えもあれば、よしとする考えもある。
    性善説・性悪説はこの甘えの裏表について言っているのだと思う。好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い。向けるなら好意がいいわけで、そんなもの自分ではないひとに求めるなんてよくない。そんなところだろう。
    また、宗教というものを考える際にも、何に甘えているのか、その違いに尽きる。キリスト教は人間からはるか遠くに隔たった主に対して甘える。だから、人間同士の甘えなんて、微々たるものにすぎないし、主の前からすればひとえに同じものになってしまう。そのため、個とならざるをえないのだ。神を殺してしまうということは、甘える対象を原始的な自と他に回帰させることに他ならない。今まで主の前で同じとされていた者に甘えなければならなくなってしまったのだ。
    この本で言う、日本人とか西洋というのは、国のことを指しているのではなく、甘えに対する心性の違いを指している。
    自分ではないひとと暮らす限り、好意というものを上手に向けられなかったり、好意を受けたことに対して適切な反応を返せなかったりすれば、それは病的な関係となる。甘えとはどこまでもコミュニケーションだからだ。好意を向けるということは、好意を向けられたいということの裏返しなのだ。気が済まない、すねる、ひがむ、くやむとはそういう関係性の中で起こる。さらには、被害・加害も甘えというひとつのものの裏表に過ぎないということになる。
    では、甘えの関係が最初に起るのはどこか。生まれ落ちたその時だ。そして、そこから始まってひとは様々な人間に甘え・甘えられて成長していく。そうやって、内と外を形作って生きていく。そういうことができなくなっていけばどうなるか。どの人間関係でどんな甘えをし、どのように甘えられればいいかわからなくなる。「金儲けをして何が悪い」だとか「ひとを殺して何が悪い」というようなそういう開き直りが生じるのも、ちゃんと甘えられない子どものままだからということになる。
    このように、「甘え」とは、どうやら時間的空間的にもひと共通するものだという当たり前のものなのだ。だが、この当たり前の事実には、その根底に甘えとは独立した「自分」というものがいるということを忘れてはならない。これは「自分がある・ない」という時の「自分」ではない。甘え・甘えられる対象としての「自分」ではない。甘え・甘えられたいと「思って」しまうこの「自分」がどういうわけかいてしまうということがなければ、甘えられないのだ。このことについて、本の中では巧みにかわされている。おそらく、そう思うことさえも「甘え」なのだときっと言い切ってしまいたかったに違いない。だから、欲求か本能か感情なのかと問われて困ってしまったのだ。ひとの存在そのものが「甘え」の所産だと言ってもいいからだ。
    ひとが甘えようと思って甘えるのではなく、始めから甘えた存在なのだ。だからこそ、当たり前の事実となる。唯甘え論といったところだろうか。

  • カテゴリ:図書館企画展示
    2014年度第1回図書館企画展示
    「大学生に読んでほしい本」 第1弾!

    本学教員から本学学生の皆さんに「ぜひ学生時代に読んでほしい!」という図書の推薦に係る展示です。

    佐々木正宏教授(心理学科)からのおすすめ図書を展示しました。
            
    開催期間:2014年4月2日(水) ~2014年6月14日(土)【終了しました】
    開催場所:図書館第1ゲート入口すぐ、雑誌閲覧室前の展示スペース

    心理学科の学生だったときに本書を読みました。
    著者土居健郎氏は精神科医で、渡米したときのカルチャー・ショック体験から甘えに注目し、甘えをそれがなければ母子関係も成立しないといえるほどの根本の心理であると考えました。本書では、その甘えや甘えと密接な心理について論じています。平易な日常語を用いて考察を進めているところが大きな特徴です。たとえば、出かける前に何度も鍵をかけたかどうか確認するといった強迫行為について「それをしないと気がすまないような行為」と簡潔に定義しています。著者が精神科医として日本人の患者をみるときに、日本語で記載し、日本語でものを考えるようにしたことの成果といえるでしょう。

  • 1971年に書かれた本だが、全然古くない。今の我々が感じている不安を見事に言い当てている。

    それでどうすべきかは容易には思いつかない。
    養老さんが言われるように行くところまで行くしかないのだろう。

    ただ、このように言葉にしてもらい、また、不安や苦悩を共有できるのが人間だということに気付けるだけでもちょっと心強いなと感じることができた。とても良い本だと思う。

    Mahalo

  • (1984.02.06読了)(1984.02.04購入)
    (「MARC」データベースより)
    「甘え」は日本人独特の心理であり、「甘え」なくしては日本人や日本文化は語れない。「甘え」という概念について、その論理や病理など、多角的な面から論じる。

    ☆関連図書(既読)
    「タテ社会の人間関係」中根千枝著、講談社現代新書、1967.02.16
    「適応の条件」中根千枝著、講談社現代新書、1972.11.20
    「モラトリアム人間の時代」小此木啓吾著、中公文庫、1981.11.10

  • 1981年第2版。同じ構図で白いカバー。

    この本の核心部分は前半にあり、後半はやや緩慢に。

  • いろんな心理学ぽい本を読んでいて行き着いた一冊。
    結構有名らしい、古本屋で見つけてたのは感動だった。
    すべてはここに集約されているのかも。

  • 「甘えだねえ!!」
    甘えも日本の文化。
    甘えをしない人間がダメ。
    甘えは恥ずかしいかもしれないけど。
    甘えを覚えよう。
    甘えをしないから殺人するんだよ。
    甘えこそ平和の象徴だ。

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