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感想・レビュー・書評
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「歴史の必然性」はあんまり関係なさそうだった。「政治理論はまだ存在するか」は腰を据えて読まないとむずかしそう。
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バーリンの「歴史の必然性」(1954年)、「二つの自由概念」(1958年)、「政治理論はまだ存在するか」(1962年)を収録。バーリンはラトビア生まれ、ユダヤ系の自由主義哲学・思想史家。E・H・カーが批判の対象にした哲学者でもある。最近、バーリン関係の本がちょこちょこ出ているような気がするので、哲学方面では流行っているのかもしれない。
にしても。難しい。カーは『歴史とはなにか』のなかで、バーリンの「歴史の必然性」を「才気に満ちた平易な論文」(p62)と位置づけたうえで批判をしているけれど、僕にとっては全然「平易」じゃない。
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「しかしながら、経験の唯一のパターンの発見がわれわれの理性の満足―これを形而上学者は希求し、その名においてかれらは経験科学をたんなる「生のままの」事実の事実上の配列にすぎないものとして斥ける、つまり理性のみが理解できると考えられる「合理的」な連鎖によってつながれていない事実・人物・事物のたんなる記述にすぎないとされるのである―を与えるかどうはともかく、またこれが多くの形而上学や宗教の背後にあろうとあるまいと、それは現実の現象の秩序―経験的場面―を変えるものではない。そして、歴史が取扱うと政党に主張しうるのは、この現象、経験だけなのである。」(p268)
「徹底的な決定論の証拠は手近かにはない。ある理論的な仕方でそれを信奉する首尾一貫した傾向があるならば、それはきっとわれわれの批判的反省能力の増大あるいはわれわれの科学的技術の改良のためというよりは、むしろ、ある「科学主義的」、形而上学的な理想のため、あるいは道徳的重荷をおろし、個人の責任を最小限にして、それを非個人的諸勢力―それこそがわれわれの不満のすべての原因であると安んじて非難しうる―に譲り渡してしまおうとする熱望のためであろう。」(p278)
「不可避性」、あるいは〈法則性〉に対する、バーリンによる厳しい批判。念頭にはマルクス、そしてヘーゲルが置かれている。〈自由〉を主題に論じたバーリンならば、〈個人の責任〉と歴史を結びつけて考えるのもわかる気がする。ただし、バーリンが言うところの〈自由〉は、〈なんでもやりたいことをやる自由〉のような安直な〈自己責任論〉に直結する類の議論ではなく、〈自己自身を律しうる自由〉、あるいは〈自分の能力を発揮しうる自由〉、すなわち「積極的自由」が重視されているんだけど。(積極的自由においては、疎外されているものも能力を発揮する場が与えられるために、国家による一部の人間の「消極的自由」に対する干渉も可能になる)
ただしカーによれば、バーリンが〈個人の決定に対する道徳的責任〉と、〈歴史の因果論的連結〉を同一のレベルで混同している、という。バーリンは、マルクスやへーゲルに対して「個人の責任を最小限」にしようと「熱望」している、という批判を向けたけれど、カーからすれば「個人の責任」を道徳的に問うことは、歴史学者が立ち向かうべき問題ではない、ということなんだろう。(たぶん)
『歴史とはなにか』を読んだときは、バーリンに対する批判の意味合いがよくわからなかったけど、バーリンをちょっと読んでみたら、カーの議論にもやや単純化の嫌いがあるのではないかな、という気になってきた。つまり、カーもバーリンの自由を「消極的自由」的にしか捉えていないような印象がある。
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まあ、カーとバーリンの論争の評価については、僕にはこれ以上論じる実力はない。ただ、ひとくちに「歴史の法則性」の有無を争点にしようと言っても、その前に社会のなかに生きる「個人」をどのように意義づけるかという前提を考えないといけないのだな、と感じた。そのことがわかっただけでも、この本を読んだ甲斐はあったのかもしれない。
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