火の魚 (1960年)

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感想・レビュー・書評

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  • 室生犀星という名はあまりに有名である。
    それなのに私はこれまで室生犀星の書いたものをひとつも読んだことがなかった。

    室生犀星という人は私にとって教材に出て来て知っていて当然であっても現代に読むものではないように思ってきた。
    しかも何故かいつのまにか私は室生犀星をかなり古い人だと思うようになっていた。恥ずかしい話だが、昭和まで生きていないと思っていた。イメージとして坪内逍遥のちょっとあとあたりの人だと思いこんでいた。
    この『火の魚』は初版昭和35年だから思っていたよりずっと最近の人でびっくりしてしまった。学生の頃覚えたことはすっかり忘れ、勝手にイメージを創って思い込んでしまうというのは私の悪いところである。


    前置きが長くなってしまった。本題へ。
    『火の魚』は装幀家・栃折久美子さんとの話で(作中では折見とち子)、映画やドラマにもなっているらしい。
    映画やドラマになるくらいだから長いのかと思ったら短篇だった。
    この本には他に8つの短篇が収められている。

    ひとつひとつが短いからあっという間に読めてしまう。
    このくらいの旧仮名なら私は問題なく読める。というかほとんど新字との違いが分からないくらいに感じた。
    もちろん私が文学部出身で「てふてふ」に慣れているというのもあるが、室生犀星の物語が古くさくないということが大きな要因だと思う。

    作中の老作家はきっと室生犀星自身なんだろうなと思った。
    それで、その老作家の性格がいい。いい、というのは良い人というのではない。どちらかというと「いじわるじいさん」的な感じでいい。
    じいさんと若い女の子の話というのもあんまりないものだからおもしろい。『火の魚』『衢のながれ』『朝顔』がそれで、私は『衢のながれ』も好きだけど、やっぱり『火の魚』がいちばん素晴しいと思う。毒加減もいいし、主題もはっきりしていていい。心に残る。


    読んでいて感じたのは、室生犀星は『人』の作家だなぁということである。
    風景描写や美しい文章や色彩に富んだ文章というのはなく、人間の表情や心持ちを細かく描くタイプの人だ。
    とくに、ちょっとした仕草や顔つきや瞳などに現れる心というのを描くのが上手だと思った。
    そして、人を見詰める犀星の捉え方や感じ方が、他の作家とは違っていることも印象に残った。
    いじわるっぽさも、天の邪鬼っぽいところも、いいところばっかりの人間じゃないというのが人間らしくていい。人がちゃんと生きていて、生の人間という感じがする。

    室生犀星、ちょっとおもしろいなぁ、イイなぁ。
    『火の魚』に出てくる栃折久美子さんがとった金魚の魚拓が装丁されている『蜜のあはれ』を読んでみたくなった。


    人の描写ではないが、そうだなよなぁと思ったところを私自身のメモとして抜粋。

    詩だけは文學の途中でこれを發見して愛誦することが、出来ないもののように思へた。少年時代と靑年時代のつなぎあたりから、詩といふものはその人間に愛されて來るもので、少年期に詩を知らないで過ごした人間には、たとへ一流の小説家に成長しても、詩のわからない男となりょり外はなかつた。詩は文學の丁稚小僧のうちに仕込まれなかつたら、一生詩の外に抛り出された人間になるのだ。詩は嚴しく人嫌いをするののだ。(『あまい子姉弟』より)

    物を眺めるのに時間をかけるといふことは、故意には出来ないものだ。物を學ぼうとする人間は、たとへ、どういう隙間からでも覗いて見る物は見てゐるものだ(玉蟲より)

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