中世の秋 (1958年)

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感想・レビュー・書評

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  • 図書館から。
    主として抜き書き。

    ※抜き書き
    貪欲は傲慢が持つ象徴的、神学的性格を欠いている。つまり、貪欲は自然な物質的罪であり、全く現世的な衝動である。貨幣流通が今までの壁を打ち破り、精力拡大を可能にした時代に生まれた罪が貪欲なのだ

    。人間的価値の評価は単なる算術の問題となった。~後略~

    ※抜き書き
    より美しい生活へのあこがれはいつの時代でも、その遠い目標に達するのに三つの道を用意した。最初の道は世界の外へ真直に続いていた。つまり現世否定の道である。~中略~
    第二の道とは、この世界自体を改良し、完全にする道であった。中世はこの種の努力をまだほとんど知らなかった。~中略~
    美しい世界への台さんの道は夢である。これは便利な点では一番だが、いつまでも目的地と遠く隔てられている道だ。~中略~
    しかしこの美しい生活への第三の道、厳しい現実から美しい仮象への逃避は、単に文学上の問題にすぎないのだろうか。否、明らかにそれ以上のものがある。この道は他の二つと同じく共同生活そのものの形式

    や内容に関連するし、しかも生活が未開状態であればあるほど、より強く輝いてみえるものだ。

    ※抜き書き
    社交場のふとした心づかいすら綿密周到に形式化された。宮廷女官のどういう役同志は互いに手をとって歩くかということまで厳密に定められている。さらに誰と誰はこのように親密にしていいか、またしては

    ならないかまで厳密に指図される。こうした同伴や合図や呼びかけにきっかけをつくってやることは、ブルゴーニュ宮廷儀式について著作を残したかの老いた女官にとってまさに芸術的知識に属している。

    ※抜き書き
    処女救出は、もっとも自然でいつもみずみずしい浪漫的主題である。これが人生から直接生じた思想であることは誰でも日常生活で納得できることなのに、にも関わらず、時代遅れの神話解釈がこれを自然現象

    の再現と見たのはいかがしたことだろう。文学では、この主題は時に余りにも度をこして繰り返されたため、一時的に回避された。しかしまた常に新しい形式で、たとえば映画のカウボーイのロマンスなどに化

    けて再登場する。そして文学を離れて人が心の中で愛を思う時、この主題は疑いもなく不変の強みを持っている。

    ※抜き書き
    恋する貴婦人の神や肌の匂い漂う薄絹や衣装を身につけることにこそ、馬上試合の愛欲的性格がこの上なく明確に示されている。~中略~戦いを好まぬが心は気高く寛大な夫を持つある貴婦人が、自分に愛を誓

    った三人の騎士に彼女の肌着を送った。彼女の夫の催す馬上試合にてそれを着て、他によろいの類は一切つけず、ただ兜と脛当てだけで試合に出てほしいというのである。最初と二番目の騎士は恐れて引きさが

    ってしまった。第三番目の貧乏騎士はこれを受け、夜その肌着を胸に抱きしめ、情熱こめて接吻した。試合において彼はこの肌着を軍衣のごとく着こなし、その下によろいもつけず登場した。肌着はさんざんに

    破られ彼の血で染まり、彼自身も重傷を負った。彼の比類を絶した勇敢さは評判となり、人々は彼を称賛した。彼の恋する貴婦人は彼に心を許した。そこで愛をかち得た騎士は、反対に同じ犠牲行為を彼女に求

    め、かの血染めの肌着を送り返した。馬上試合の終わった祝宴の席上、この血染めの衣装をまとって現れてくれというのだ。彼女はこれを受けとり、優しくかき抱き、当日は血染めの衣をいとわず着用して現れ

    た。居合わせた多くの人々は彼女を非難し、彼女の夫は狼狽した。最後の結びで語り手はこう問うている。二人の愛し合う恋人のうち、どちらが一体相手のためにより大きな犠牲を払ったであろうかと。

    ※抜き書き
    現実の力は常にあらゆる方法で働きかけ、人々をして騎士道的理想の否定へと向かわせた。実践兵学はすでに早く馬上槍試合的方法を中止した。つまり、一四、五世紀の戦は忍びよりと奇襲の戦であり、攻め込

    みと掠奪の戦いであった。

    ※抜き書き
    少なくともこれらは外観上美しい光景を作り出し、その中で人々は生きているのだという幻想にとらえられていた。しかしそのそこでは、身分の高い人々の間ですら驚くほど粗野な愛の生活が営まれていた。後

    世になれば消滅してしまったが、日常の風習の中にもまだまだ、あたりはばからぬあつかましさが残っていた。ヴァレンシェンヌでイギリス使節を待っていたブルゴーニュ公は、彼らのために町の浴場を整備す

    るように命令した。それは、「施設とその従者となったすべてのもののため、いたれりつくせりの風呂で、必要とあれば美人の歓待も準備され、それも気に入った相手を自分で選べるようになっていた。これら

    すべては大公の財布で賄われた」彼の息子シャルル豪胆公のはにかみは多くの人から非難された。はにかみは王侯にふさわしくない、というのである。エダンの快楽亭に設けられた機械仕掛けの娯楽の一つとし

    て、「婦人方がその下を通ると裸にされてしまう、といったからくり」が勘定書の中に載っている。

    ※抜き書き
    ~前略~それは腐っているかまたは縮みあがっており、手足は痙攣して硬直し、口は裂け、内臓の中にはうじ虫がうごめいている風であった。死の思想は絶えずこの恐ろしい姿を持ち出すのである。だがこの腐

    敗自体が消えうせ、やがて土となり、また花ともなりうるということを、一歩進んで見極めようとしなかったのは、奇妙なことではないか。~中略~
    性の不安とは、すなわち美と幸福とを否定する感情だ。何故否定するかといえば、この美と幸福には傷心と悲嘆がつきものだからだ。こうした考えを示す中世キリスト教の表現が、古代インド、特に仏教界のそ

    れと似ていることは驚くべきほどだ。そこでも繰り返して老衰と病気と死が恐れられ、腐敗は色も毒々しげに誇張して描かれた。

    ※抜き書き
    かく罪深い生活に恥ずる色もなくまじわって信仰をけがすさまを見ると、まるで無神論的だと思われるが、しかしこれはむしろ宗教に素朴な親しみを持っていることから起こったのだ。ただ宗教に満たされ信仰

    を当然至極のことと思っている社会のみが、かかる脱線や堕落を知っているのだ。半ば形骸化した宗教的課業を惰性的に毎日繰り返している人々、その同じ人間が時として説教する乞食僧の焔のごとき言葉に打

    たれ、圧倒的な宗教的啓示を感じ取ることができるのだ。

    ※抜き書き
    この時代の人々の心はキリストでいっぱいにされていたから、ちょっとした行為や考えで少しでもキリストの生涯やその苦しみに似たような所があると、忽ち心の琴線はキリストへの共鳴を始める。台所へ薪を

    運ぶ貧しい修道女は十字架を運ぶのだと思い込む。ただ木を運ぶだけで、それが最高の愛の行為という燦然たる光輝を伴うことになる。めくらの女が手桶を洗濯場で洗えば、それを馬小屋の秣桶と思い込む。ル

    イ十一世とイエスを比較し、皇帝とその子及びその孫を一緒にして三位一体と呼ぶなど、王侯崇拝を表現するのに宗教的概念を濫用するのも、また等しく宗教的感情内容が飽和に過ぎた結果である。


    ※抜き書き
    自己否定の感情の宿す大きい危険は、インドの、また二、三のキリスト教の神秘家の到達した結論に胚胎している。すなわち、完全で観想的で愛に満ちた霊魂は決して罪を犯さない、という考え方だ。神の中に没入したからには、もうその人にはいかなる自己の意思も残されていない。ただ神の意志があるだけだ。だからたとえ官能的嗜好に惹かれても何の罪もないはずだ。

    ※ことわざの抜き書き
    大魚は小魚を餌にする。粗衣をまとう身は風に逆らえぬ。必要がなければ誰が純潔なものか。人間っていう奴は自分の肌を心配している間は善良だ。困ったときには悪魔の手も借りたい。一度も滑ったことがないほどうまく蹄鉄をつけたものはいない。なんでも黙っている人はすべてに平和だ。綺麗にくしけずった頭は兜をうまくかぶらない。他人の皮でベルトを大きくせよ。この主人にして此の下僕。この裁判官にしてこの判決。全部のために尽くす人は誰からも報いられない。頭にかさぶたのある人は帽子をとってはならない。戦争とはこういうもの、負ける時もあり、勝つ時もある。飽きないものはない。死より確かなものはない、といわえれるがまったくだ。

    ※抜き書き
    中世の文章を読むときよく出る疑問が、ここでもまた生ずる。それはいったい詩人は自ら賛美することを真面目に考えているのだろうか、ということだ。同様にまたこうも問いたくなる。ジャン・プティやブルゴーニュの彼のパトロンたちは、彼らがオルレアン公の犯したとする奇行の全てを本当だと信じていたのか。あるいはまた、王侯貴族の連中は自分たちの騎士的作戦や誓を飾り立てる奇妙な空想とお芝居を、すべて真面目に受け取っていたのだろうか。

    ※抜き書き
    すなわち、王侯貴族の手元に美術品が集って所蔵品になる。かくて美術品は無用のものとなり、人々は贅沢品として、骨董品として、また王侯の宝物の貴重な一部として、これを楽しむ。ここから初めて、真の芸術感覚が生まれた。そしてそれはルネサンスにおいて見事に開花する。

    ※抜き書き
    中世的な考え方からすると、美の概念はいつも完全、釣り合い、光輝といった概念に帰する。

    ※抜き書き
    (異教主義、ギリシャの神々やマリア、天使を同一視することについて)驚くべきはこれに対する教会の態度である。教会は純粋に思弁上の協議に関してはほんの小さな逸脱に対しても細心の注意を払い、敢然と反対の態度に出たのに、この貴族社会の祈祷書の教えに対してはなんら異議を申し立てず、広がるにまかせたのである。

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著者プロフィール

1872~1945。歴史家、文明批評家。フローニンゲン大学卒業。フローニンゲン大学、ライデン大学で教授職を務める。ライデン大学学長。著書に『中世の秋』『ホモ・ルーデンス』『エラスムス』『わが歴史への道』などがある。

「2018年 『ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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