世界文学全集〈第2〉赤と黒 (1960年)

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  • 小林秀雄にカミュが、スタンダールの精神に出会い、思いを寄せていた。
    燃え上がる情熱と淀んだ野心。死に向かっても消えないこの二面性は、カミュが描いて見せた反抗の精神によく似ている。かと思えば、積み上げられた社交術に象徴的な伏線の印象は、バルザックの人間喜劇の様子そのままだ。第一部でのヴェリエールのレーナル家でのはじまりは、谷間の百合を思い出させる。
    だが、この『赤と黒』はバルザックの人間喜劇と違い、連続した歴史ではなく、あくまで、1830年代、ジュリヤンの生い立ちにとどめている。だからこそ、あのような幕引きでなければならなかったと思う。物語中のひとの中に生きるのではなく、読むひとの精神に息づくことを願っているかのよう。また、作者としての顔がいたるところに現れて、物語に溶け込まないように呼んでくれる。
    文学は鏡だ。スタンダールは作中で言い切っている。そして、虚構は自身の私生活への干渉を避けるためだとも。だから、スタンダールの生い立ちや何かを追いかけたとしても、この『赤と黒』の本質は見えてこない。巧妙に隠されたりごちゃまぜにされたりしている。それに、虚構の世界を用意した以上、スタンダールにとって、自身とは一線を画す覚悟で思考しているのだ。
    だから、批判すべきは文学という鏡を用いた映し方でも、その対象となった映されたものでもなく、そうやって文学に映されるものとして、その対象が放って置かれてきたことにある。
    ひとの精神がこれを維持しないで何が維持してきたのだろうか。社会ではない。社会もひとの精神の中にある。当時のイデオロギーというものか。これも違うとスタンダールは言っている。文学にとって政治は首にくくりつけた石だと。風刺や政治物は必ず廃れてしまう。スタンダールの鏡は、イデオロギーを見出してしまうひとの精神の鏡なのだ。
    たしかに、反動的な当時の身分制や金銭的な問題、外交状況などそういったものが映し出されている。だが、それと同時に、社交や恋愛というものもまた、ひとりの同じ人間の上に映し出されている。どちらか一方だけでひとが生きているわけでもないし、かといってどっちもなければひとが生きられないわけでもない。
    それゆえに、ジュリヤンは生きることに執着しなかった。生きるということは、そんな次元とは独立して別にあるからだ。それ以上でもそれ以下でもない。マチルドのその後や、生れる子どものその後を描かかずに、レーナル夫人の死で幕を下ろしたのは、スタンダールのそういう文体の力なのだと思う。

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