スタンスは違えど、メディアミックスでは、芸達者な配役の妙も加わり、月の個性が際立っていた。
アニメ版は、宮野真守の熱演と荒木監督の思い入れの強さで、原作の補完を超えたクオリティの高さを誇る(特に25話&37話)。
徹頭徹尾、月に寄り添い味方する視点での制作は、希少な度胸と言える。
彼の精神の天秤を大事に見極め、周囲を巡る関係性も丁寧に熱い。
生涯唯一の相手として執着し合ったLも、忠誠と献身を尽くした海砂も。
総一郎の生真面目な溺愛と、白月に顕著なファザコン的敬愛。
キラ誕生の根幹にあったろう、父親のような人間が報われることを望む願い。
おそらくアニメは全話でもって、月の追悼番組だったのだろう。
原作のリューク=編集部の投影とするなら、アニメ版のリュークは、最後まで月を想い続けた、監督を始めとするスタッフの姿が重ねられている気がする。
常にその傍らにあり、共棲めいた協力と労りを添え、忘れられない追慕を捧げて。
総じて、メディア化も含めて、制作者の姿勢が露出せざるをえない作品であることは確か。
微妙な立ち位置にある主人公を、どう捉えるかを誤魔化せない。
彼を悪人とカテゴライズすれば、作り手側にとって楽にはなるだろう。
主義主張やパーソナリティをブラックボックス化すれば、勧善懲悪のカラーで片が付く。
だが、そこに負を集約させた際の、座り心地の悪い疑念こそが、彼の存在意義ではないかと考える。
“それで良いのか。それだけで良いのか、本当に?”と自己追究を余儀なくされる。
少年漫画としては敗死させるしかなく、しかし、徹底した否定に拠った編集部の方針は、寧ろ偽善的な保身に通じてはいまいか。
まさに彼が指摘した、公の場の欺瞞的な建前論に。
何故、少年漫画では悪(とカテゴライズされたもの)が滅びなくてはならないのか。
『正義』(敢えてカッコ付き)に反すると決め付けられたものは須らく葬られるべきならば、悪しきものを判断するのは、できるのは誰なのか、その根拠は、正当性を保証するものは何なのか。
原作終盤、作為的に主人公が孤立させられ貶められ糾弾される構図には、発信側に仕組まれた目隠し的誘導が垣間見え、薄ら寒くもなってくる。
彼の無残な終焉に嘆き、救いを望んだ読者が少なからずいたこと。
そして、肯定派か否定派かという論議が生じることそれ自体が、彼が線上の存在であることを傍証している。
彼の採った手段は、独善的で幼稚かもしれない。
しかし、自律心の拠りどころが曖昧な現代社会において、凶悪犯罪に対する即効的な抑止力にはなりえる。
(但し、冤罪を排した捜査の実施、被疑者の実情の正確な伝達、基準の妥当性等、難しい前提条件が要るが。)
“現実は複雑で、そんなことで世界が良くなるわけじゃない”との声もあれど、だからとて手をこまねき事態の悪化を傍観するよりは、仮令Bestな改善ではなくとも、せめてBetterを、More betterを目指したその志向を、安易に否定するようなことができない。
仮に、自分が事件被害者の境遇に置かれ、無反省の仇に裁きが下ったら、溜飲下がらずにいられるだろうかと想像すれば、尚更に。
作中で二元される、神を自任する私刑と、司法を盾に取る抹殺。
人が正義の概念を口にする時、それは常に、自らの側であるとの意識、もしくは支持する側にあるという区切りが含まれる。
それは、世界を認識する『我』と、如何に弁別できるのだろう。
“神は悪しきもののなかにもいる、善きものと同じに” Oscar Wilde「Salome」