羅生門 デジタル完全版 [DVD]

監督 : 黒澤明 
出演 : 三船敏郎  京マチ子  志村喬  森雅之  千秋実 
  • 角川映画 (2010年7月22日発売)
3.81
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Amazon.co.jp ・映画 / ISBN・EAN: 4988111286895

感想・レビュー・書評

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  • 是枝監督がカンヌのパルムドールを獲ってから、Twitterの一部で左右の人たちが若干荒れてたので色々と考えてた。丁度そのタイミングで放映されたので、久しぶりに『羅生門』を観た。戦後、日本映画が海外で初めて高い評価を受けた作品。
    今回初めてデジタル修復版を観たんですが、映像も良いけど前回すごく聴きとり辛かった音声がかなり良くなってたと思う。

    ただ、個人的に『羅生門』はそこまで面白い作品だとは思ってない。黒澤作品だと他にもっと面白いのあるよなぁ……と。そこでけっこう引っかかる。
    Wikipediaを見ると、黒澤さん本人は
    「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほとんど市井の絵にすぎなかったよね。我々は、自分にしろ自分のものにしろ、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけど、「あれは まぐれ当たりだ」なんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。どうして、日本人は自分たちのことや作ったものに自信を持つことをやめてしまったんだろう。なぜ、自分たちの映画を擁護しようとしないのかな? 何を心配してるのかなって、思うんだよ。」
    と、言ってる。「そう立派な作品だとは思ってない」と。この発言で重要なのはその点ではないけど、是枝監督がパルムドールを獲ったことにダイレクトに繋がってるから救われる言葉。68年も前なのにね。

    他、自分が引っかかったところはWikipediaにだいたい書いてることが多い。太陽を撮るシーンだとか、あと三船の顔にレフ板の反射をすごく強く当ててるなぁと思ってたら、レフ板ではなく鏡だったりとか。

    この映画はそんなに面白くないのに、なぜ海外で評価されたのか?色んな要因があると思う。日本的なものが珍しくて新鮮だったからだとか、イタリアがネオレアリズモ期だったりとか。
    別件で聖書のことを調べてるときに、なんとなくアダムとイヴと蛇が、『羅生門』の男と女とミフネに重なって見えてきた。聖書は「私はやってない」、『羅生門』は「私がやりました」だから逆なんだけど。

    原案の原案は日本のものなのでどうなのかわからない。普遍的な話でもある。だが原作の芥川龍之介はキリスト教に影響を受けた作家として有名ですよね。もしかしたらそういう部分が、カトリックの人たちにとっては受け入れ易かったのかもしれない。

    普遍的な部分は、男と女の話であるから。男性、女性、性についてのことは、僕自身もずっと考え続けてることでもあります。
    聖書を調べてた理由となった映画は『ブルーズブラザーズ』だったんだけど、その点でも男性と女性についてのことでありました。

    そんなわけで、芥川を読みたいなーって気分になっている。

  • 妖気漂う『蜘蛛巣城』や『雨月物語』に惹かれて、行き着いた作品が黒澤明監督の『羅生門』。

    山中で武士金沢武弘(森雅之)が変死していた事件に関して、捕らえられた盗人多襄丸(三船敏郎)は、山中で出会った武弘とその妻真砂(京マチ子)を騙し真砂を強姦、決闘となった武弘を悠々切り捨てたと証言する。

    ところがその後、検非違使庁に出廷した真砂の証言はまったくこれと異なっていた。彼女は、多襄丸が立ち去った後、犯された自分を蔑む武弘の視線に耐え切れず、短刀で自害しようとしたが気を失った、気がついたときには武弘に短刀が突き刺さり絶命していたと述べ、池に身を投げようとしたが死に切れなかったと嘆き悲しむ。

    さらに、霊媒師の口を借りて武弘自身が語る真相は、このどちらとも異なっていた。真砂は、妻になれと迫る多襄丸の誘いに艶然と応じ、その前に夫を殺してくれと頼んだ。多襄丸は真砂のあまりに冷酷な言葉に興ざめし、これを殺すか否かを武弘に問うが、真砂は隙を突いて逃げ出してしまう。一人取り残された武弘は、あまりの絶望のため自ら命を絶ったという。

    芥川龍之介の原作「藪の中」で語られるのはここまで。事件を発見した杣売(志村喬)と、武弘・真砂の二人連れを目撃した旅法師(千秋実)、及び多襄丸を捕らえた放免の尋問が行われた後、上記3名の証言が続き、食い違った証言内容をそのまま放り出した形で話は終わってしまいます(→原作参照)。

    原作の幕切れは取り付く島もないほどあっけなく、作者の意図や事件の真相は読者の解釈にゆだねられており、それゆえに様々な解釈論が飛び交ってるわけです。それが、原作の素晴らしさでもあります。しかし、黒澤監督は『羅生門』を製作するにあたり、原作よりはるかに明確な”作者の意図”を盛り込んでいるようです。

    「人間の心の底に潜むエゴイズムは醜悪無残である。しかもなお、人間は、人間の善意を信じないでは生きていくことはできない。その心の戦いを、この映画は描かんとするものである。」(都築政昭著「黒澤明一作一生全三十作品」より)

    そして、黒澤監督の意図に従い、映画『羅生門』には原作「藪の中」に登場しない、杣売(志村喬)による第四の証言が追加されることになりました。この証言内容の位置取りが絶妙。

    杣売は、事件と係わり合いになることを恐れて一度は「何も見ていない」と証言したものの、実は事件の一部始終を目撃していた。しかし、その後の成り行きに人の心が信じられなくなり、雨宿りをする羅生門の下で、居合わせた旅法師(千秋実)と下人(上田吉二郎)に目撃した内容を語り出した。曰く・・・、

    事に及んだ後で、多襄丸は真砂に土下座して謝っていた。心惹かれたからこその暴挙であり、ぜひ自分の妻になって欲しいと懇願している。真砂は女の口からは何も言えないと拒否するが、暗に主人武弘を殺して自分を奪い去るよう多襄丸を仕向ける 。しかし、縄を解かれた武弘は、他の男に犯された女などに命を賭けるつもりはないから、欲しくばくれてやると言い放つ。

    このままでは二人の男に恥を見せた真砂の立場はなくなってしまう。真砂は口汚く男たちをなじりだす。やがて、彼女に煽られた男たちは憑りつかれたように闘い始める。しかし、双方ともに勇猛さの微塵もなく、腰も抜けんばかりの怯えた闘いようであった。多襄丸はやっとの思いで無様に命乞いする武弘に止めを刺す。しかし、決着を見届け、自らも錯乱気味となった真砂は、多襄丸の手も振り払い森の中へ逃げていってしまった。

    原作では三つどもえとなって決着のしようもない三人の証言。杣売の証言が加わったことにより、それとの対比で、三人が隠そうとしたものが炙り出されます。

    奇しくも羅生門の下人が「人間は自分にとって都合の良い嘘を真実だと信じ込みたがる」と言ったとおり。

    事実を曲げた証言により、多襄丸は己の臆病さを隠して勇猛さを、真砂はずるがしこさを隠して貞淑さを、武弘は酷薄さを隠して潔さを最大限誇張しようとしていたことがわかります。

    しかし黒沢監督の制作意図を実現するにはもう一工夫必要。それは、果たして杣売の証言は真実なのか、という疑問が残るからですね。彼の話を信じて、それを中心に全体を眺めると上記のような位置づけになりますが、彼も自分に都合のいいような嘘をついているのかもしれません。

    「醜悪無残なエゴイズムで、自分に都合の良い嘘を真実だと信じ込む人間の性」を前提としているのですから、いかにして杣売の証言が真実であると証明するのか、これは結構難しい。

    そもそも、羅生門で雨宿りする三人の関係は、絶対善の旅法師、絶対悪の下人、善悪の間を揺れ動く杣売という関係になっています。旅法師にとっては、心の支えを失ってしまうほどに狼狽する武弘殺害事件の経緯も、下人にとっては、どこにでも転がっている面白くもない話。その二人の中間に位置するのが杣売で、善も働けば悪も働く一番人間らしい存在。その杣売が最後に善の心に傾くか悪の心に傾くかで彼の話の真偽も決まるという様相となります。

    そこに挿入される、同じく芥川原作の「羅生門」のエピソード(かなり趣を変えてありますが)が効いてますねぇ。羅生門に捨てられていた赤ん坊の衣服を、無慈悲にも剥ぎとろうとする下人。その悪党ぶりを激しく非難する杣売。しかし、実は武弘殺害の現場から真砂の短剣を盗んでいたことを下人に見抜かれて言葉もなく立ち尽くします。

    杣売は、下人に衣服を剥ぎ取られて肌着だけとなった赤ん坊を自分の子どもとして育てようと決心します。旅法師に感謝されつつ雨上がりの羅生門から立ち去る杣売の姿。

    このわずかなシーンにより、杣売の証言の信憑性をゆるぎないものにし、その結果として三人(多襄丸、真砂、武弘)の証言の醜悪さを暴きだす。同時に、ラストシーンの杣売の姿を通して、人間の善意を観客の心に刻みつける。まあ、見事ですよね。オリジナル原作ならともかく、完成された名作短編にこれだけ解釈を加えることができるとは、恐れ入るばかりです。また、映画ってこれヴィヴィッドに物語を伝えることができるのだと改めて感心することしきり。

    この作品、そればかりではなく、もちろん独創的な映像も満載(冒頭の羅生門のセットは圧巻、人物と影の使い方は秀逸)、加えて主役級の役者たちの演技も素晴らしい。特に京マチ子は、それこそ魔物でもついているんじゃないかと思えるほどの名演技でした。そのあたりのことは、他に解説してくださっている素晴らしいブログがたくさんあります。

    世界の黒澤恐るべし。★★★★★

    <スタッフ&キャスト>
    監督:黒澤明 / 製作:箕浦甚吾
    企画:本木荘二郎 / 原作:芥川龍之介「藪の中」
    脚本:黒澤明、橋本忍 / 撮影:宮川一夫
    美術松山崇 / 音楽:早坂文雄
    装置:松本春造
    出演:三船敏郎/京マチ子/志村喬
        森雅之/千秋実/本間文子
        上田吉二郎/加東大介

  • 人の心は不可解なもの
    真実ではなく思考すること

    負の感情が入り乱れ世の人が悪に見える
    人とは人間とはどれだけ汚れても
    逞しく生きるものだ
    優しさや哀れみをなくしても
    なお生きていかねばならぬ

    がそれをなくした人間は人間ではなくなるのかも知れない
    悪だ鬼だ!

    だかこそ最後のカットが心を打つのだと思う
    修羅の場になってこそ人が人としての本質が出るのだと

    誰もがそうであってほしい
    人をやっぱり信じたいです

  •  自分の体裁を繕うための嘘
     誰だって自分が一番大事で平気で他人を陥れ見捨てる

     ズンズズズズンというボレロ調の音楽に追われるように
     錯綜する人間の浅はかさエゴイズムが暴かれていく…… 

     ラストに一部始終を目撃していた志村喬と
     立ち会うことになってしまった千秋実の
     二人が人を信じる心を思い出すシーンで、人間はまだ捨てたもんじゃないのだと、かなり救われた気持ちになった


     ギラギラに野性味あふれる女好きの悪人、実はヘタレな三船敏郎
     しとやかで妖艶な魅力のある武士の妻、実は気性の激しい女な京マチ子
     黙っていればイケメンな武士、だけど実はカッコ悪い森雅之

     自分を良く見せるための嘘の人物像と
     その真逆の本当の人物像
     この二面性を演じ分けがすごいなと思う

  • 【コメント】
    人間というものを描いている。

    *** 物語の展開が面白い。
    羅生門の雨宿りでたまたま居合わせた三人。
    ちょっとした暇つぶしのつもりの立ち話は、
    人間の性(さが)に分け入っていく。

    *** 古さを感じさせない
    1950年の映画の割には古さを感じさせない。
    デジタル版ということもあるのかもしれないが、
    白黒なのに、光や雨の描写が瑞々しくて印象的だった。

    *** オリジナルのオリジナル
    映画のオリジナルは、芥川龍之介の「藪の中」で
    はあるが、そのまたおおもとは平安時代に編纂された
    今昔物語なのだそうな。(参 wikipedia)

    【内容】
    羅生門に雨宿りで顔を合わせた三人が、
    雨が上がるまでの暇つぶしにと、最近おきた
    殺人事件について話題にする。

    その殺人事件では、不可思議なことに
    容疑者達がみな自分が加害者だ!と言い張るのだ。
    (尋問するために巫女に憑依させた)被害者までも
    自分で自殺したのだ!と言い張る始末…

    いったいどうしたことなのか?
    と皆、首をひねることに。

  • 人間にはそれぞれが死をもってしても守りたいプライドがあるってことか。
    事実は1つだが、各人のプライドを傷つける事実は秘匿される。

  • 録画してた名作を久しぶりに観た(1950年製作)。映像美、三船敏郎や志村喬の演技、何といってもあらすじが素晴らしい。
    「いったい、正しい人間なんているのかい?」
    交錯する証言の中で杣売り(志村)が言ったが、最後に羅生門に捨てられた赤子を引き取る杣売りの行動に、
    「お主のお陰で私は人を信じていけそうだ」
    と答えた旅法師(千秋実)に救われた。
    修士論文執筆時に指導教官から「羅生門効果」を考えるよう指導されたことも思い出した。

  • 三船敏郎の顔面説得力。光の使い方が相変わらず凄い。ただストーリーが「羅生門」でなく「藪の中」だったのは知らなかった。志村喬いい顔してるなあ。

  • 制作年:1950年
    監 督:黒澤明
    主 演:三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬
    時 間:88分
    音 声:日:ドルビーデジタルモノラル


    平安時代。
    ある森の中で侍とその妻が盗賊に出くわし、侍が命を落とした。
    やがてこの事件は検非違使のもとで裁かれることになるが、当事者である盗賊や侍の妻らの言い分は大きく食い違っていく。

  • 主観と客観。

  • 20250625
    分析は「なぜやったのか」

    三行要約:
    都にほど近い山中で、盗賊の多襄丸は、貴族の女性とその夫を見かけ、夫をぺてんにかけ、女を奪おうとした。後日、事件は検非違使によって吟味される事になった。が、多襄丸、女性、霊媒師の口寄せによって語った侍の言い分は、目撃者の見たものとはそれぞれ異なっていた。


    感想:
    以前映画館の京マチ子特集で拝見。
    京マチ子は悪女の役だけど、なんだかあどけなく感じた。



    2023/09/02
    映画館の京マチ子特集で見ました。
     
     主演は京マチ子、三船敏郎という豪華メンバーであったけど。だまされて樹に結び付けられる森雅之さんの眼が一番印象的でした。あと、巫女さんの演技が怖かった。

     京マチ子は眉毛をそってオーディションに現れたとか。このころの日本演劇界って、すごく「ガラスの仮面」の世界に近いのですね。

  • 日本映画チャネルで『羅生門 /1950』のデジタル完全版(角川映画と米映画芸術科学アカデミーが最先端技術で復元にあたった作品らしい)を観ました。

    -----story-------------
    「芥川龍之介」の短編『藪の中』をもとに映像化。
    都にほど近い山中で、貴族の女性と供回りの侍が山賊に襲われた。
    そして侍は死亡、事件は検非違使によって吟味される事になった。
    だが山賊と貴族の女性の言い分は真っ向から対立する。
    検非違使は霊媒師の口寄せによって侍の霊を呼び出し証言を得るが、その言葉もまた、二人の言い分とは異なっていた……。
    ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞した、「黒澤明」の出世作。
    -----------------------

    映画のタイトルは『羅生門』ですが、、、
    「芥川龍之介」の作品『藪の中』内容が中心で、それに『羅生門』のエッセンスが加えられているという感じです。

    また、「多襄丸(三船敏郎)」と「真砂(京マチ子)」と「金沢武弘(森雅之)」の霊の主張が微妙に食い違い、原作では真相が有耶無耶(藪の中)なのに対し、映画では「樵(志村喬)」が真相を目撃していたということが追加され、「黒澤明」なりの解釈が追加されています。

    原作を読んだときに、真相が有耶無耶なことに対し、少し物足りなさを感じましたが、映画では真相が明示されているので気持ち的にはスッキリする結末でしたね。


    「下人(上田吉二郎)」が「樵」に対して、

    「人間は都合の悪いことは忘れちまって、都合の良い嘘を本当のことだと信じちまう」

    と言う台詞が、とても印象に残ったし、人間の真理を表している言葉だなぁ… と感じました。


    三人の主張の食い違いに加え「樵」が短刀を盗んでいた事実、「下人」が赤子(捨て子)の服を奪ったことで、人間のエゴや自尊心、身勝手さが表現してあり、「旅法師(千秋実)」が人間不信に陥り世の中に絶望しそうになりますが、、、

    それだけに終わらず、「旅法師」から「樵」が赤子(捨て子)を引き取るシーンで希望を見出し、荒廃した世の中から立ち直ることをを暗示するエンディングは良かったと思います。


    久しぶりに「芥川龍之介」の原作も読んでみたくなりました。


    -------------------------------
    監督: 黒澤明
    製作: 箕浦甚吾
    企画: 本木荘二郎
    原作: 芥川龍之介
        『藪の中』
    脚本: 黒澤明
    橋本忍
    撮影: 宮川一夫
    美術: 松山崇
    音楽: 早坂文雄
    装置: 松本春造
    出演:
     三船敏郎 多襄丸
     京マチ子 真砂
     志村喬 杣売(樵)
     森雅之 金沢武弘
     千秋実 旅法師
     本間文子 巫女
     上田吉二郎 下人
     加東大介 放免

  • Netflix/日本/1950年/黒澤明監督/三船敏郎出演

    タイトルだけ有名で、部分的に映像で見る程度でしたので、全体を見てこんなお話だったのか!と思う。

    人は自分を取り繕うために嘘をつくというテーマは興味深いですね。たった三人の仲なのにこんなにダイナミックに話が展開するとは、かなり心理を掘り下げてつくられたシナリオだと思う。

    さて、この映画どういうオチをつけるのだろうと思ったら、赤ん坊を抱っこして一応希望を見出すような終わり方でした。こうしないと収まりがつかないでしょう。

    人の悪い市川崑なら、志村喬だけば善人と思わせておいて、最後隠していた短刀を手にしてニヤリなんてシーンにしたかもしれない

  • ずーっと気になっていたのだけど、なんとなく手が出なくて、やっと見た。
    面白い。人間は面白い。

  • 映画ならではの見せ方。とても面白かった。

  • 鑑賞後に芥川の原作を読み直してみたが、映画オリジナルとなる「下人の証言」と「捨てられた赤子」のエピソードが加わることにより、「2001年宇宙の旅」に対する「2010年」のようなネタバラシを露呈させている。「観客の想像にまかせる」のも一つの手法だが、「監督の解釈」を打ち出すのも嫌いではない。タイトルを「羅生門」としたのも英断。「藪の中」のままだったら金獅子賞を獲得し、黒澤の代表作として後世に残ることはなかっただろう。同時にカメラや演技も絶賛されている本作だが、さすがに今の映画に慣れた目から見るとカメラワークも大したことはないし、演技も仰々しく不自然。低評価のレビューが混ざるのも仕方ないだろう。致命的だったのは、京マチ子に魅力がまったくなかったこと。☆4

  • ストーリー展開はシンプルでわかりやすいけど、内容は深くて大人向け。今どきの映画とは違う見応えがある。
    昭和25年に製作されたって、戦後5年後だよ! で、ヴェネツィア映画祭で金獅子賞だって!
    映画のクオリティって時代は関係ないんだな。むしろ今の時代の方が、興行収入目当てでクオリティが二の次になっているのかな。

  • 最後のシーンのためのつくったのかな
    人間に希望を抱きたいという願望

  • There are two points I noticed about the movie where Kurosawa is not faithful to the original version. As to the points, my idea is that he intentionally made these differences in order to give his massage that people are born with virtue.
    Compared to “Rashomon”, the most significant characteristic of the movie is that it has a happy ending, whereas the book indicates in the last scene where the servant “stripped the old woman of her robe” that human beings are by nature evil.
    Compared to “Yabu no naka”, however, it is a very definitive difference that the woodcutter witnesses the scene of murder and make a comment that you cannot believe no one at all. In contrast, the next moment he himself turns out to be someone trustworthy by saying that he will take care of the abandoned baby, which makes the audience feel comfortable and relieved.
    It is true that the movie is based on the two stories of Akutagawa, but he and Kurosawa had taken almost opposite positions regarding whether to emphasize virtue or vice of human beings. As I see it, Kurosawa tried to look closely at people to depict people lovable, whereas Akutagawa depicted them as untrustworthy beings from the detached viewpoint somehow hopelessly.

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著者プロフィール

(くろさわ あきら 1910−1998年)
日本を代表する映画監督。1943年『姿三四郎』で監督デビュー。生涯30本におよぶ名作を監督した。『七人の侍』(1954年ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞)など海外の映画祭での受賞が多く、映画監督として初めて文化勲章、国民栄誉賞を受賞し、1990年には米アカデミー名誉賞が贈られた。

「2012年 『黒澤明脚本集『七人の侍』』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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