有り体に言うと完全なる期待外れ。あれだけ騒がれていた割に非常にお粗末。途中から宇宙エントロピーとか並行世界の因果線とか宇宙の法則とか因果律とか有史以前から人間に干渉とか言い出して完全なるB級オカルトSFに。
内容もよくあるセカイ系。たった一人の自己犠牲で全時空の魔法少女の悲しみがチャラになるという何のカタルシスもないご都合主義。
結局はイヌカレー美術とキャラデと魔法少女ものに死を持ち込んだ3点のみが良かっただけ。特に脚本はひどい。イヌカレー美術は素晴らしかった。以下考察。
まどマギの一番ダメなところは「奇跡が起きて願いが叶う」ことと「現実逃避」が同義であることに誰一人気付いていないことだ。登場人物をはじめとして制作者さえ気付いていないようにみえる。「奇跡が起きて願いが叶う」ことと「希望」が同義に扱われている。これが全ての元凶である。
まどマギがどういう物語かというと、世界がアンモラル(残酷、悲惨、不条理、グロテスク、全ては終焉する運命)であるということに立ち向かわない物語である。世界のアンモラルさからいかに逃避するかが物語の焦点である。
そもそも物語の基点からして、インキュベーターが現実逃避を始めたことに端を発している。
インキュベーターは宇宙が終焉するという現実を受け入れられなかった。だから終わらない宇宙を作ることにした。これは大事な人の死を受け入れられずに死者蘇生とか不老不死を試みるのと全く変わらない行為だ。宇宙にドーピングして、熱力学第二法則を克服するよう宇宙を作り替えてしまった。全ての間違いの始まりである。
不老不死の人間が大量発生したら世界は食糧難になって人類は滅亡するだろう。それと同じように恣意的にエントロピーを減少させれば結果としてエネルギーの利用量は増え続ける。そうすればエントロピーは二次性徴女子の感情エネルギーでまかなえる範疇を遥かに超越して無限に莫大に増加していくのは理の当然である。そもそも地球というのちっぽけな惑星ひとつにある感情エネルギーで全宇宙のエントロピーを操作するなんてあんまりにも無茶がすぎる。
しかしこの辺は適当に濁されている。キュゥべえが宇宙の法則をひん曲げたせいで訪れた因果も全く描写されない。この時点でSFとしては非常に浅薄な感じがするが、本筋とは逸れるので置く。
次に魔法少女たちの願いである。願いごとは現実から逃避するために行われるものだ。彼女らの願いを見れば明白だ。
自分の死、好きな人の怪我、家族の失敗、まどかの喪失。それらの残酷悲惨な現実から逃避するために、彼女らは現実に立ち向かわず願いごとを使う。死や別れや、思い通りにいかない現実。それを自分の中で受け止めて、消化あるいは昇華していくことができない。奇跡によって現実を捻じ曲げることで解決しようとしてしまう。
しかし現実から逃げてもその先にあるのは現実である。命ある限り、人間は現実すなわち世界のアンモラルさから逃げることなどできない。魔法少女たちは現実から逃避した代償として更に悲惨な現実に直面する。人外の体、戦いの運命、魔女化の恐怖。現実の悲惨さを解決する方法はただひとつだ。自分の選択した結果である現在に立ち向かい、成長し、乗り越えていくしかない。どんなに辛く苦しく救いがなかろうと、自分の選択には自分でケツを持つ。それが現実に立ち向かうということだ。
けれど最後のまどかの願いによって、魔法少女たちは自らの運命に相対するという最後の尊厳まで奪われる。
「今日まで戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最期まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて壊してみせる。変えてみせる」とまどかは言う。つまり願いごとという現実逃避も、魔女化の絶望からの現実逃避も気持ちよく肯定してあげようというのがまどかの願いであり、まどかの信じる希望である。
『あなたの祈りと言う名の現実逃避は間違ってない。現実逃避したせいで魔女化して殺人するという因果も受け入れなくていい。あなたが運命に立ち向かわなくても、私がケツを拭いてあげる。だからゆっくり死んでいってね…』そういうラストである。現実逃避ここに極まれりという感じがする。
自分の人生や運命は決して他人に背負ってもらえるものではない。そもそも人に背負ってほしくなんてないはずだ。人の横やりで解決してもらったら、それは自分の人生ではなくなってしまう。他人に解決してもらっても、結局自分は救われない。人に自分の罪を背負わせても残るのは負い目と苦しみだけだ。私が背負って解決すればOKというのは、あまりにも傲慢すぎる。それこそ人間というものを踏みにじっている。
大事なのは結果でなく答えだ。絶望から救われたという結果ではなく、自分が絶望に対してどういう答えを出したかという一点のみが大事なのだ。けれどまどかは少女たちが自分で運命に向き合う機会を強奪してしまう。まるで子供をスポイルする母親である。
「わたし全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女をこの手で」という台詞が象徴しているのだが、まどかは魔女を消し去りたいのである。決して「魔法少女が自分で絶望から立ち直る手助けをしてあげたい」ではない。
自分の因果、罪に対する罰は背負わせる。その上でその人が出す答えを見守る。これが本当の救済ではないかと思うのだが、少女たちに自分の答えを与えてしまうことがまどかの救済である。
更に救いようがないのことに、まどかは「魔法少女たちはインキュベーターの現実逃避のダシにされた家畜である」という問題の根本を一切解決してくれない。インキュベーターが宇宙の終焉やだーと現実逃避を始めたせいで、魔法少女らも連鎖的に現実逃避に巻き込まれ、家畜となり、自らの運命を切り開き、自らの手で希望を創造することできなくなった…というのがまどマギ世界の一番の問題点のはずなのだ。
けれどまどかは自分一人が奇跡を起こし、他人の罪を背負えば問題が解決したものと見なしてしまっている。女神まどかになっても、彼女の心は未熟な中学生のままで、結局「何の取り柄もない私だけど人の役に立ちたい」という願望を叶えるだけで満ち足りているだけに見える。
そして女神となったまどかが向き合っている現実は、本来の現実ではない。インキュベーターが曲げ、まどかが奇跡を起こして無理矢理に作り上げた「自分に都合の良い現実」である。結局まどかは女神などではなかったのではないか?「人の役に立つ自分」を成り立たせるために作り替えた虚構の世界を永遠に彷徨い続ける魔女になってしまったのではないか?そんな疑問が残る。
最後によく引き合いにだされるエヴァについて触れたい。エヴァは徹頭徹尾「オタクたちよ現実と戦え」と言い続けた作品だ。傷付きのたうち恥をかけ、砂を食い泥をすすれ。針で突き刺し合って血だらけになりながらコミュニケートしろ。父と争え、母を捨てろ。女は綾波じゃない、苦しみながらアスカと付き合え。世界はアンモラルだ。そんな世界を何度でも呪い、そんな世界から何度でも祝福を受けろ。原初の海でドロドロに溶け合わなくてもいい。人間は汚くて悲しくて気持ち悪くて救いようがない。その一点でつながっている。一人一人が別個だから自分の涙は自分で拭える、それが希望だ。まどマギとはあらゆる意味で対極。希望の意味さえ真逆の物語だったと言えるだろう。
<追記 2014.5.6>
最近漫画版ナウシカを再読した。以前よりナウシカが新人類をブチ殺す描写がどうしても納得いかなかったのだが、最近になってナウシカで表現されたテーマがまどマギのテーマを全否定するものだと気付いたため、ここで触れたい。
ナウシカの物語のラストを飾る問いかけは「なぜ滅びてはいけないのか?」ということだ。
いちおうあらすじを解説すると、漫画版のラストでナウシカは「シュワの墓所」にたどり着く、
シュワの墓所とは戦乱と汚染で滅びゆく旧世界の人類が、未来の幸せを願ってかつての英知を結集させた場所であり、そこには愚かな過ちを繰り返さない、穏やかで賢い人間(新人類)の卵が眠っている。
しかしナウシカはシュワの墓所の存在意義を否定し、新人類(の卵)を皆殺した上で、シュワの墓所を焼き尽くす。
ハタチも過ぎたところの読者の多くは、この展開に納得がいかない。
ナウシカたち(旧人類)の腐海に脅え、病に冒され、戦乱に巻き込まれてきた今までの艱難辛苦を6巻もぶっ通しで読み続け、痛いほどよく知っているからこそ、読者は「なんで幸せに生きられる未来を捨ててしまうの?なぜ旧人類のように無益な争いをしない新人類が生まれようとするのにブチ殺すの?旧人類も新人類みたいに浄化された世界で穏やかに生きられるようにできる技術用意しといたよって言ってるじゃん!ナウシカ頭おかしいの?!」という憤りを禁じ得ない。
しかし繰り返しになるが、現実とは何か、生きるとは何か。それは世界がアンモラル(残酷、悲惨、不条理、グロテスク、全ては終焉する運命)であるという運命に立ち向かうということだ。
立ち向かうというのもあまりにバカバカしい。どんな勇者も天才も、いくら運命に立ち向かおうが、その終焉する運命を覆すことなど決してできはしない。我々にできるのはただその救いようのない運命の中で生きていくことだけだ。
運命を受け入れることがえらいのではない、苦しみに耐えることがえらいのではない。ただ生きて、ただ死ぬ。この単純で残酷な、けれどかけがえのない命のめぐりの中で、我々は苦しみであれ、喜びであれ、自分にしか、自分の命にしか得ることのできないものを常に得てている。
なぜ苦しんではいけないのか?なぜ絶望してはいけないのか?誰かを憎んだとしても、誰かを殺したとしても、そして更に苦しんだとしても、それはその人の命なのだ。その人にしか歩み得ない、感じ得ない苦しみなのだ。
ループなどしない、願いごとなど叶わない、都合良く運命を変えることなどできない。そんな現実の中で与えられた、たった一度きりの命。かけがえのない命。その中で得られること全て――幸福だけでない、喜びだけでない、痛みも苦しみも、またかけがえのないことなのだ。苦しい、痛い、悲しい、辛い、さみしい、怖い。みんな味わいたくない気持ちだ。けれどなぜそれを味わえるのかといえば、生きているからだ。だから例えどんな悲惨であれ、それを否定し、奪うことは、命を奪うことにも等しい冒涜だ。
生まれて落ち、生き、喜び、苦しみ、そして死ぬことまで、全てをひっくるめてはじめて「生命」なのだ。死や滅びから逃げおおせようとする者は本当に生きてなどいない…。それがナウシカの言う、「私たちの生命は私たちのものだ、生命は生命の力で生きている」「いのちは闇の中のまたたく光だ」ということなのではないだろうか。
結局、私はまどかにこう言ってほしかったのだ。「わたしは魔法少女になんかならない」「願いごとなんて叶えられない、誰かの役にも立たない、だけど、絶望がわたしから生まれるなら、希望もわたしが生み出してみせる」つまり「俺の運命は俺が決める」ってことだ。
死んじゃってよかったのだ、まどかは。人間として、「魔法」のつかない少女として。そうしたらほむらは「彼女に守られる私ではなく、彼女を守る私になりたい」(自分の手でまどかの運命をねじまげてでも、自分のためにまどかを生存させたい)という願いのおこがましさに気付くかもしれない。そしてループをやめて現実に踏みとどまり、まどかが死んだショックで魔女化しちゃうけど、願いが叶ってないという変則ゆえに魔女化しても正気を保ってワルプスギスの夜を撃破しちゃったりするかもしれない。
それならば、筆者ただ1人の中でだけかもしれないが、まどマギは好きな作品になっていたかもしれない。