アンチクライスト [DVD]

監督 : ラース・フォン・トリアー 
出演 : ウィレム・デフォー、シャルロット・ゲンズブール 
  • キングレコード (2011年9月6日発売)
3.19
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本棚登録 : 313
レビュー : 71
  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988003807566

感想・レビュー・書評

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  • 『ANTI FEMINIS♀』  

    評価:2.5 

    '11年日本公開。拙レビュー『サンタ・サングレ 聖なる血』と対・消滅させたい(屠りたい)作品、繋がりで。
    私にとってラース・フォン・トリアーは最近、目障りで看過出来なくなって来た(ナチ)。

    拙レビュー『メランコリア』で『惑星ソラリス』を──
    「本作」を アンドレイ・タルコフスキー に捧げ『鏡』『ノスタルジア』『サクリファイス』を屠った作品。 orz.

    不幸にも「事故」で亡くなった「子供」を「彼」は「殺された」「自分」と──
    ニーチェ の「アンチクリスト(1888)」や バーナード・マッギン「アンチキリスト('94)」を C・G・ユング は キリスト 教には キリスト と アンチ・キリスト という二重(面)性があるとし、それを「自我の影」人間の心の「闇」を象徴する必然性──「彼」の「親(故人)子喧嘩→両親(エディプス・コンプ レックス)→夫婦へ“魔女狩り”→ ラスト・シーン(捩れたマザコン)」を ナチス 並に悪用しても「自己超克(救済)」昇華出来なかった(しなかった?)自慰作品(誤った三部構成・三位一体、「子」の救済の欠落)──他でやってと A・タルコフスキー も迷惑。存命する「巨匠」か、亡き両親へ捧げ、叱って(褒めて)もらいなさい。

    「♀」マーク でも見て取れる、捩れた“マザコン”を ナチス や 女性向け ハードコア・ポルノ 制作で隠す反フェミニスト、「彼」自身が『ANTI CHRIS♀』だから本望? ニーチェ とは違う。 φ(ー。ー)y―~~

    以下 レヴュー の体を為してないと思います罵詈雑言誹謗中傷流言飛語「A・タルコフスキー 狂いの独言」なので読み飛ばして下さい。m(_\_)m 撤収 シテクダサイ!

    ・・・

    ε=ε=ε=(;-_-)/ タカガ エイガ デスカ?

  • ※ネタバレ含

    一言感想を云うなれば、感想は相当女嫌いなんだなあ、と。まあ、パッケージのタイトル文字「ANTI CHRIST」 の"T"が、女を表す"♀"に為っていることからもある程度予測はできるんだけれども。あ、確か十字架にもこんな形があったっけか。

    さて、賛否両論のこの作品。激しい性交の最中に子供が転落し、妻が次第に狂って?いく展開。宗教色が強いが、宗教の要素よりも妻の奇行に眼を奪われる。悲嘆よりも肉欲を優先してしまう己の矛盾が許せない妻。冒頭、G線上のアリアがモノクロ映像と共にスローで流れていくのは美しい。ただ、闇夜にパッとスパイダーマンのグリーンゴブリン役の俳優さん(夫)が出てきて吹きそうになった。何故か。

    構成は幾つかの章に別れていて、次第に妻の奇行が激しくなり、共に宗教色も強くなっていく。どうやら、妻は女=悪魔的な思想を持っている。亡くなったわが子への慈悲よりも肉欲を優先する辺り。実際に、その手の論文を山小屋で書いていたそうな。終盤まではひたすら性交。後半から物語が動き出す。ヘアが修正されている(所謂、モザイク)ので、性交や女優の身体目当てに観ようと思っているご注意を。

    後半の、自身の矛盾に耐えきれなくなった妻のサイコぶりが素晴らしい。夫の性器を殴打し、殆んど血液の精液を搾取したかと思いきや、夫の脚にドリルで穴を開けて砥石を固定。そして暫く鬼ごっこした後に、またしても夫を求める妻。これだけでも相当あれですが、一番問題と思われるシーン。妻自ら、女の感覚器である陰核を鋏で切り落とします。モザイク掛かってても解る行為ですよそれ。女、女の肉体を憎悪したのでしょうか、それとも己の肉欲に憎悪したのでしょうか。解釈は様々考えられますなあ。

    取り敢えず、女優さんお疲れ様です。演技力の凄さが相俟って、ストーリーよりも奇行の方が印象に残る映画になっております。

  • まさにタイトルのとおり、「神なき時代の人間」というのが本作のテーマ。聖書に基づく隠喩をふんだんに散りばめながら、「神」あるいは「信仰」というものがまったく欠落している夫婦(あるいは家族)のあり方を描いていてまさに圧巻である。しかしながら、神がいなければヒューマニスティックな関係が生まれるかといえば、そうではない。ウィレム・デフォー演じる夫は、みずからが神を気取って妻を救おうとする。だが、彼は人間であって神ではないので、結局は妻から大いに裏切られることになるのである。それにしても、いつものことではあるがラース・フォン・トリアー監督は役者をとことん酷使する人である。ウィレム・デフォー、シャルロット・ゲンズブールの二人は本当に死ぬんじゃないかというくらいの熱演。これで映倫のぼかしがなければよかったのだが。


    追記:3 beggarsというのはgrief、pain、despairの象徴なのかしら?

  • natureという概念は、おそろしく両義的である。(本作の評価もすなわち両義的にならざるをえない。十中八九観ない方がいい。)
    それは、一方では人知の及ばない現象さえも含意し、その一方で人が創造した概念でしかない。そういった意味では、godに近しい存在としても捉えることができるのではないか。

    トリアーは、「感情・宗教・楽しみ」を排し、躾ではなく自主性を重んじる進歩的無神論者の家庭で育てられた。1995年、母の死とその遺言に際して、自らが「芸術家の遺伝子のため」に、育ての父とは別の男性の遺伝子によって生まれた子どもだという事実を知らされる。
    そんな彼にとっての、自然の営みとは、永劫回帰をつづける生殖の摂理、人間の愛や性による結びつき、についての女性観ともいえるものが本作の根底にあるように思う。


    性的絶頂を迎えようという瞬間、一人歩きも覚束ないわが子がまさに窓辺から落下せんとする場面を目撃した妻(母親)は、そのままセックスを続けることを選んだ。

    妻は前年、自分にあまり関心を示さない夫と離れて、エデンの山小屋で(おそらくキリスト教社会における)女性性の虐殺・拷問史の論考をしたためていた。「森は悪魔の教会」だと彼女がいう通り、作中では聖/俗の境界を日常(モノクロ)/森(カラー)で区切っている。悪魔のよからぬ誘惑により、幼い子(自分の性欲を満たしてはくれない相手)に対する虐待をも仄めかしている。

    わが子を亡くし、罪悪心や肉欲の恐怖から妻は心身に異常をきたす。自分の欲望を森の奥へ隠そうと試みるかのように、物語は進展していく。
    死んだ胎児をぶら下げている鹿(grief :悲嘆)、自ら腹を割いている狐(pain :苦痛)、死なない不気味なカラス(despair :絶望)といった自然の恐怖が妻を迎えにくる。

    すなわち、トリアーの扱う女性は、反キリスト的な性モラルをもつ「悪」として描かれながら、えてしてそれが「自然」なのだと再帰しているのである。
    1998年トリアーが設立した映画会社ツェントローパでは、かつて女性観客向けハードコアポルノ製作も行っており、欧州における女性のポルノ需要を刷新したともいわれる。そうした面からも、トリアーの女性性の描写は、「背徳的」というより無神論からくる自然観に根差していることに気づかされる。背徳的と感じる観衆のまなざしこそが、肉欲にまみれた背徳的なものではないか、と。

    エンディング、すべてを始末した夫は悪魔の教会を離れ、下界に戻る道程で顔のない女たちの群れとすれ違う。これは一映画の一事象ではなく、あらゆる場所で女性に起こりうる自然の摂理なのだと暗示される。

    翻って、夫は理性的のようででありながらも、盲目的に妻の肉欲を拒まない。いけないことだ、と言いながらも、狂ったように求めてくる妻に応じるのだ。それは図らずもかつて男性向けポルノにおける女性が果たしてきた役割のように従順である。


    映像にできるものと映像にならないものの隙間を埋めるものが映画だとすれば、現実にはあって、社会的にはないとされてしまっている自然状態の女性性を描きだしたのが本作ではないかと思っている。到底エンタメとは言えないが、その芸術性においてタルコフスキーに捧げるにふさわしい作品だった。
    ヘンデルの流れるエピローグとプロローグに胸を打たれている間、我々はいくつかの思考実験を試され、分類され、刻印されていくのだ。

  •  夫婦で激しく愛し合っている最中に子どもが転落死し、ショックから立ち直れない妻。セラピストである夫は自分が妻を治すと決意し、妻が恐怖を抱く場所、森に夫婦で篭るのだが。。。
     ラース・フォントリア作品。

     あまりに映像が綺麗、あまりに演技がリアル。エロ痛くてとても人にお勧めできる映画ではないが、途中から全く目が離せない。恐ろしく引き込まれる。

     しかし、非常に難解な作品である。以下、私の勝手な解釈。
     この映画は 夫↔神↔妻 と考えることができるのではないか。
     自分なら治せるという夫の傲慢さは神を否定するかのごとくだ。自然の摂理など神の力でなく自分の力で制することができると思っている。傲慢ゆえに神を否定する
     一方で、欲望に忠実で奔放な妻もまた夫とは違った意味で神を否定している存在だ。森(自然)は神(秩序)の反対の象徴で、悪魔的な意味合いを持っている。
     夫は妻を見当違いしているから手痛いしっぺ返しを喰らうことになる。いや、手痛いどころではない。この映画を見て思わず股間を押さえない男性はいないだろう。さらに砥石を足に刺してつけられるのだが、砥石=聖書なので、傲慢に神を否定したことへの皮肉がこめられている。
     三人の乞食は悲嘆、苦痛、絶望なのだと言う。私たちはそれらを抗いすぎず受け入れるべきなのかもしれない。神にもなれず、悪に染まりきることもできないだろうから。

     関係職種必見。ただし相当な心の準備が必要。

  • うわ、みちゃったよ、とうっかり道路で曳き殺された動物の死体をみてしまったような気分。でもあれこれ考えさせられる映画である。

    この映画、セラピストである夫が子どもを性交中に亡くして病んでしまった妻を治療するために、病の根源たる恐怖と向き合わそうとして、人間が普段理性の下に抑え込んでいる本性を表出させてしまい、それによってホラーな展開になっちゃった、ってことでしょうか。

    うーん、何か納得いかないので、ちょっと自分のメモ用にだらだら考えてみた。

    以下、経緯メモ(主観による歪有り)。
    妻は以前、女性の虐待(魔女裁判かな?)をテーマにした論文を書いており、人間の本質は男も女も残虐で邪悪なものであり、その本質が人間を支配していると感じていた。
    そして妻自身も人一倍性欲が強く、感受性も強い。色々不安定になっているうえに、我が子を無意識のうちに虐待してしまう。
    そんな自分に罪の意識や恐怖を感じたのか、論文も放棄して、執筆のために滞在していた森の小屋から去る。
    森から都市へ戻り、一見それらは潜在化したけれど、性交中に子どもが転落死することで、悲嘆・苦痛・絶望、そして恐怖が彼女を襲う。

    セラピストでもある夫は、悲嘆し怯える彼女が助かるには、自分(恐怖)をすべてさらけ出し、そこに身を置き、恐怖は危険なものではないと学ぶしかない、と怖い物のリストを作る。
    そして恐怖が存在する場所「エデンの森」に自分から足を踏み入れる。…わけだけど。

    この旦那、彼女が恐怖しているものの実体、つまりネイチャーを簡単に克服できるもの、支配できるものと、とても甘く見ている。理性的であるがゆえの傲慢さで。妻も指摘しているようにみくびっているんだよなぁ。
    例えば、「恐怖は自然な反応だ。危険が本物なら恐怖は命を救う。アドレナリンが戦闘状態を作るから」とかインテリっぽいこと言って妻の恐怖を単なるパニックだと軽んずるし、森が怖いという妻にセラピーのなかで森の中にいる自分をイメージさせたうえで、「緑に溶け込め」と自然と一体化し恐怖を受け入れるよう指示する。
    その「自然」のなんたるかも理解しようともせずに。
    極めつけが、
    「悪魔は妄想の産物。人は不安から自分の普段とるはずのない行動をとることはないし、催眠術だって自分の意思に反した行動を無理強いすることはできない。人はどんなときでも本質から逃れられない。」
    という台詞。
    その後、妻のとった行動を知ってしまうと、言ってはならぬことを言った感がある。

    そんなわけで、この旦那、ひどい目にあってるけど、ストーリーの流れとしては自業自得。
    なので、ココ、この映画のメッセージのひとつかなぁ、と思う。
    人間の「理性」や「科学」が文明社会の発展に大きく貢献してきたのは確かだけど、そればかりを重要視して人間の「本質」から目をそむけているとこんな手酷いしっぺ返しがあるよという。
    監督が何をアンチしているのか、キリスト教をよく知らないのでイマイチ判らないけど、現時点ではそんなふうに受けてめて見た。

    役割としてはこんな感じかな↓。

    夫:理性。現代文明。秩序。合理主義。男性原理。キリスト教(なんか性欲とか抑圧してそう)。
    妻:ネイチャー。動物。無秩序。恐怖。性欲(生)。死と再生。負のグレートマザー。キリスト教に虐待されてきた魔女的な何か。

    もう一度観たらまた違う感想が出てきそうだけど、しばらく観る気が起きそうもないです…。


    といいつつ。
    この映画、プロローグとエピローグが綺麗で暗示的で、象徴好きな自分には、ついあれこれ考えてしまう。
    何故、両親の情事を目撃した小さな子どもが、自ら進んで身を投げなければならないのか(そのように見えた。殉教者とかサクリファイス的な何か?)。
    エデンの森から命からがら出てきた夫が途中野イチゴっぽいベリーを口にする。(うがちすぎかもしれないけどなんとなく楽園追放の原因である智恵の実っぽいなぁ)
    三人の乞食たる鹿・狐・鴉が去っていく夫を見つめていて、夫とすれ違うようにして顔にモザイクが入った女性たちの群れが森に入っていく。
    そもそもこのエデンの森って何だろう??

    うーん、まあ、好きなように当てはめればいいのだろし、無理に当てはめる必要はないのだろうけど…。
    いつかまた暇な時にでも考えてみようと思う。

  • 俳優って大変な職業だ、というのが、正直な最初の感想。
    さて、作品。
    強迫観念にも似た押しつけられた道徳心がキリスト教世界に当然であるかのように、元々人間に備わったものであるかのように蔓延していることに対する疑問。考えることを突きつけてくる映画らしい映画。

  • げんきのでない映画と女を痛めつける映画を撮らせたら、ぶっちぎり。
    絶賛鬱病治療中のラース・フォン・トリアーおじちゃんによる
    肉欲・罪・悪魔についての物語。


    描かれるのは、ある一組の夫婦。
    情事の最中に事故で息子を亡くしてしまい
    精神を病んでしまった妻と、セラピストであるその夫が
    森の奥の山小屋で自己治療を試みていく過程が
    6つの章に分けて描かれていきます。

    ・映像がとんでもなく美しい
    ・とんだホラー
    とりあえずの感想は、この2つ。
    映像美に長けた監督だという認識は特になかったので
    絵画的な画面にびっくりしました。素直に美しい。死体まみれだけど。
    そしてラース・フォン・トリアーといえば、役者・観客を精神的に追い詰め抜く精神攻撃力が売りですが
    今回は視覚的な攻撃性も多分に織り込まれていて
    ホラーに片足踏み込んでいるような印象を受けました。
    観るのが辛い+怖い。

    あとはもうとにかく、シャルロット・ゲンズブールの曝け出しっぷりのエグさに尽きます。
    完全に常軌を逸しておられました。
    獣じみた生々しいセックスシーンを筆頭に
    森の中で土に塗れてオナニーし始めたり、女性器をハサミで切ったり、旦那の名前を狂ったように咆哮したり
    なんかもうたいへん。いろいろたいへん。
    日本版DVDはモザイク処理が施されているのだけれど、個人的にはありがたかったです。
    モザイクなしで観る勇気は当分持てそうにありません。

  • ★★★★☆
    見えない怪物に襲われる感覚
    【内容】
    ある夫婦が激しくセックスをしている最中、息子が転落死してしまう。妻はそれによるショックと自責の念から心を病んでしまい、セラピストである夫の提案で一緒に療養の為に森の山小屋へ移ることになる。

    【感想】
    2度と見たくない。

    うつ病の人に見せてはいけない映画の2大大作、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ドッグヴィル』と同じく、ラース・フォン・トリアーの監督作品。

    今作は視覚的に凹む。弱い時は見ないほうが良いです。

    「落ちる」と「登る」の表現がたくみだった。
    「落ちる」は「死」をイメージし、「登る」は「生」をイメージしているように感じた。

    子供の転落死・木から落ちるどんぐりはほとんど芽が出ない・巣から落ちる小鳥。。。「落ちる」という表現が多く用いられ、「自然=死」という感情がわきあがってくる。
    非常につらい結末(この辺はホラー)を迎えるが、最後に「登る」が来る。

    トリアーは「死」を描きたかったんではなく、「死と生」を描きたかったのではないのか。死は生きることにつながる。生は死に通じる。それが「自然」なのだと。

    主演のシャルロット・ゲンズブールの演技が常軌を逸しており、主演女優賞を多数獲得するのも納得。てか、いっちゃってる。

    電車のシーンではサブリミナル手法が使われています。まぢびびった。

  • オープニングの超スロー映像はびっくりするぐらい美しく
    「お~!」と感激の声を上げたが、
    その後の映像でも何度も「お~!!」と感激とはまったく違う意味での声をあげてしまった。
    色々な意味で衝撃が大きい作品。

    それにしても、この監督は本当に悪趣味だと思う。
    ダンサーインザダークの時もそうだけど、
    最後の最後に後味の悪さを残すのはやめて欲しい。
    と言いつつそれを期待している私も・・・(笑)

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