セイジ -陸の魚- DVD

監督 : 伊勢谷友介 
出演 : 西島秀俊  森山未來  裕木奈江  新井浩文  渋川清彦  滝藤賢一  二階堂智  津川雅彦 
  • ポニーキャニオン (2012年8月14日発売)
3.13
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本棚登録 : 413
感想 : 80
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  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988013168367

感想・レビュー・書評

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  • ※映画版に関する解説です。原作(小説)とは異なります。
    (そっちはちょっとニュアンスが違うのだ)

    そもそも、本作は、「20年後の僕」が「オトナになる直前の僕(1990年夏)」のことをメインに、心にずっとひっかかっていることなどを含めて語るという構造。

    「オトナになるということは?」「生きていくという意味は?」という漠然としたモヤモヤした思いを持って旅をしていた僕が、とんでもない出来事に出会った。
    20年が過ぎて、レクサスに乗って忙しそうにしている「僕」は、(おそらく)「それなりに社会的に成功している」のだが、本当に正しい人生を送ってきたのか、正しい人間なのか、と思っている。

    <その1>
    もともと「ちょっと変わった人」であるセイジさんの考え方や生き方に、何となく興味を持ってしまって多少影響を受けていたわけだが、あの壮絶な行動に対して「あまりに圧倒的であり、判断ができない」まま帰京してしまった。しかも、その後の20年間も、(敢えて)接点を持とうとしなかった。それは、あの行動の是非に関して回避して(逃げて)いたからである。
    「何故、ああいう行動に至ったのか」という疑問は妹のエピソードである程度はわかった気がしたものの、「あの行動は正しかったのか」という疑問は消えることがなかった。
    おそらく、あの場にいた人間は、僕を含めて「なんてことをするんだ、セイジは!」という印象だったはず。
    逃げるように帰京した僕は、結果を知りたいけど知るのが怖いという気持ちのまま、20年間を過ごしてしまった。
    「リツ子が回復したかどうか、その後、どうなっているんだろうか」ということが気になっていたが、仮に、回復しなかったとしたら、そのことを知ることが怖かった。セイジが命を懸けてやった行動が何の効果ももたらすことができていなかったら、それは僕にとって、ものすごいショックになると思ったから。「ムダに終わった」「結果としてあの行動は正しくなかった(適切ではなかった)」ということになってしまうから。
    また、心のどこかで「あれでリツ子の心が回復するとは思えない(むしろ逆効果)」という気持ちをひそかに感じていた。さらに言えば、リツ子の心が悪化してしまうことだって想定していたわけで、そうなっていたとしたら、本当に目もあてられないというか、ツライ気持ちになると思ったから。
    決して忘れることができない出来事だったんだけど、知ろうとする「ふんぎり」がつかなかった。

    <その2>
    僕は、あのようなリツ子を前にして、何も(効果的なことが)できなかった。ただ、会いに行っていただけである。それは、言ってみれば、自己満足であり偽善である。セイジのあの行動を見て、そのことを僕は痛感した。だから逃げるように帰京したのだ。そして、その後も、僕の心に大きな問いかけを残した。
    「大事な人が苦しんだり悲しんでいる時に、自分は何ができるのだろうか(どこまで腹をくくることができるのか)」という、言ってみれば『覚悟』のようなテーマである。そもそも、「人を救う」ということは、実は大変なことである。まして、その人が深刻な状態になっていたら、身を削る(命を懸ける)ようなことをしなければいけないかもしれない。
    いざと言う時(大事な人が苦しんだり悲しんだりしている時)に、どのようなことができるのだろうかという気持ちを抱えたまま、僕は生きてきた。そのような場面にたまたま遭遇しなかったのだが、答えは出ていない。
    セイジのような行動だけが正解ではないかもしれない。しかも、セイジは「その行動が効果的である」という確信がないのにもかかわらず、命を懸けて(賭けて)やったのだ。
    結果としてリツ子は回復したんだけど、それは結果論。回復したから正解、というわけではない。
    もちろん、回復したことを知った僕はホッとしたんだけど、ポイントは「僕はそこまでできるのか」ということ。
     
    <その3>
    人間の価値はどこにあるのだろうか、お金持ちになることが偉いのだろうか、ということだけではなく、何のために人は生きていくのだろうか、といった疑問をもったまま、僕は社会人として20年間を過ごしてきた。仕事は言ってみれば「生命維持装置」である。もちろん、「生き方」ということについては、「人それぞれ」だと思う。セイジのような人、その生き方が偉いとか正しいというわけではない。ただ、ある一人の「人」や「生き方」が僕の心に楔を打ち込み、僕に何らかの影響(衝撃)を与え続けたのだ。
    (セイジはリツ子から感謝されることを求めるわけではなく、あの場所から離れて暮らしている。確かにリツ子のためにやったことではあるんだけど、でも、本当は自分の「生きる意味のため」にやったこと。)
    冒頭に書いたように、20年前に出会った「ある人」と「ある出来事」が、僕にとってすごく大事なことだったのだ。せわしなく電車が行き交う都会で、周りの人たちのペースに合わせてホームを歩いていた僕は、立ち止まってしまった。リツ子らしき人からの郵便で急に心がざわついたのだ。人生の中間点とも言える40才過ぎの僕にとって、(ある意味での)確認作業であり、また、これからも考え続けることになる「再訪」の話なのだ。

  • セイジの
    言葉数少ないがゆえに、

    その口から発する言葉は「重い」と思いました。

  • 【ネタばれ注意】
    一言で言えば"悲しさに溢れた映画"です。深い悲しみが霧のようにストーリーを覆っています。舞台は国道475沿いにあるドライブイン。主人公の"僕"は就活後の自転車旅行中、自動車との軽い衝突事故を起こし自転車が破損、旅を続けることができなくなり、仕方なくドライブインでお手伝いを始めます。そのなかで、社会に上手く適合できない人々との不思議な日々が始まります。

    「悲しみが霧のように」と言いましたが、登場人物のひとりひとりが特段奇妙なバックグラウンドを持っている訳ではなく、それらは(一部を除き)社会的にありふれたものばかりです。離婚し子どもと会いたくても会えない女性、過去の夢を捨てきれず今も走る男、それを羨ましがりながらも一歩踏み出せない男、社会に適合しようとして虚しい日々を送る男、冷え切った夫婦、やりたいことの無い若者。でもそれらのバックグランドがたとえ社会的にありふれたものでも、その人にとってそれは逃れようのない悲しみの源泉であり、各登場人物に暗い影を落としています。そのような人々が夜になると一つのドライブインに集まり、お酒を飲み盛り上がる。それは、なんとなく辛い毎日を生きるために必要な「傷を忘れる時間」のように見えました。

    このようなコミュニティのなかで、ドライブインの雇われ店長セイジは他の登場人物とはまた異色の、闇を持っていました。セイジには大切な妹がおり、彼の両親が彼らを殺そうしていることを知り、妹を守るために彼は両親を殺害し、少年院に入りました。しかし、セイジが少年院に入っている間に妹は死んでしまいました。両親が死んだ絶望を味わい、妹は死んだ。彼は社会という海から陸に放り出され、息苦しくも生きる魚でした。鑑賞中、セイジの立場に立とうとすると、胸が強く締め付けられるような痛みを感じました。

    ドライブインの近くに住む小学生の女の子、りつこ。セイジはこの子と、時折時間を共にしました。妹の姿を重ね合わせながら。しかし、そのりつ子を悲劇が襲います。また同じ過ちを犯さないために、セイジは必死に行動に出ます。それは陸に打ち上げられた魚が最後の力を振り絞って身をねじるように。

    セイジの最後の行動は、りつこへの強いベクトルを感じました。それまでセイジは自分の殻にこもり、妹を二度失う苦しみを味わうことから逃げていました。でも、りつこを前にしたとき、彼は殻を破り、りつこの心に迫ります。

    映画は終始悲しみと緊張感に包まれ、目を話せる瞬間があまりありませんでした。また、たまに登場する自然の壮大さを映しているシーンでは目を奪われました。

    相手の悲しみに迫る覚悟を行動で示す勇気。他人事ではなく、自分事として考えているよと、示すための最大の意思表示。他にもやり方はあったのかもしれないですが、セイジにとってはある種の刑罰という名の救済の意味合いも、あったのかもしれない。そういう意味では、ベクトルはりつこではなく、セイジ自身に向かっていたのかもしれないです。ただ、そこは観る人によって違うと思うので、他に観た方がいらしたら話してみたいです :)

    人の持つ深い悲しみを見事に表現した、おすすめの作品です。

  • だいすきだ…かなしいけどすべて現実だからだいすきだ、夢なんていらない

  • 主人公がこの経験をしたからどうなったのか
    何も見えてこない。
    雰囲気で見せる映画も、根本の流れが不明では全くおもしろくない。

    聴こえづらいセリフがたたみかけ、何度も睡魔が襲う。

    豪華な俳優陣がかわいそうにも見えた。

  • 命とは?優しさとは?誠実さとは?世界とは?自分、とは?

    生きていく上でそれらの答えはきっと必要なのにいつもハッキリした答えが出ない。答えが出ないからそのうち人間はそういったことを考えること自体やめてしまう。

    けれどこの映画は問いかけてきた。
    命とは?優しさとは?誠実さとは?世界とは?自分、とは?

    逃げてばかりではいけない。答えは誰も与えてくれない。それじゃそれらの答えはどこに?だけどきっと生きていくうちに。

  • 試写会で観ましたが、衝撃的な作品でした。
    特にセイジが有る行動を起こすシーンがね・・・。原作を読んでから映画を観たので、怖くてドキドキしながら観てました。

    セイジが撮った行動は正しかったのかは分からないけれど、それも1つの生き方なんだと思います。
    自分の生き方について考え直すきっかけをくれた作品でした。

  • 六本木の映画祭の時からずっと観たかった映画。伊勢谷監督作品。
    西島さん、森山君の主演と豪華な作品で、その演技が素晴らしかった。

    時間の流れの写し取り方、音楽と映像の感じ、すごく上手かった。

    内容はとてもシンプルだけど、重くて根源的なテーマ。
    救いは、等価な代償からしか生まれない。
    それが人間だけでなくこの地球規模の救いと考えると
    伊勢谷さんが進めているリバースプロジェクトともリンクしてくる。

    心にずーんとくる映画だった。
    でも、良い映画だと思う。

  • 2012年 日本 108分
    監督:伊勢谷友介
    原作:辻内智貴『セイジ』
    出演:西島秀俊/森山未來/裕木奈江/新井浩文/渋川清彦/滝藤賢一/津川雅彦/二階堂智

    1990年、就職の決まった大学四年生の僕(森山未來)は、最後の夏休みに自転車で一人旅に出る。しかしある日、山道でブレーキが効かなくなりカズオ(新井浩文)の車と衝突してしまう。カズオは僕をドライブイン「HOUSE475」という店に連れていき、そこにいた翔子(裕木奈江)が手当をしてくれる。翔子はこの店のオーナーで、店はやとわれ店長のセイジ(西島秀俊)が切り盛りしている。僕は成り行きでその店に留まることになり…。

    前半は、自分探し系の青春ストーリー風の出だし。店に集ってくるカズオと地元の仲間たち、バンドを諦めて就職を決めたタツヤ(渋川清彦)や、翔子に想いを寄せているマコト(滝藤賢一)ら。カズオは実家の酒屋を継ぐつもりでいるが、覚悟ができていないのか、チンピラのように喧嘩などしている。僕は要領よく就職を決めたが特にやりたいことがあるわけでもない。翔子は夫と離婚して手切れ金代わりにこの店をもらったが、夫側に引き取られたと思しき子供に会えず飲んだくれたり。モラトリアムな人々の群像劇風。

    そしてタイトルになっているワケアリのセイジ。無口で無愛想で、何を考えているかよくわからないが、たまに言う言葉に含蓄があり、僕はセイジに興味を持つ。西島秀俊は大変かっこいいのだけど、正直、終盤の急展開以前に、もっとこのセイジという人間の内面や人間性を掘り下げておかないと、最後の行動がただの頭おかしいひとにしかならない。残念ながらこの映画では、セイジという人間の魅力を描き切れていなかったと思った。エピソードらしいエピソードは、動物愛護団体の偽善的な職員(奥貫薫・宮川一朗太)をやりこめる場面だけだ。彼の人間観を現すエピソードではあるが、終盤の行動との整合性はない。

    風景は美しく、昆虫の映像なども良かったけど、それ以外は映画として微妙。まず序盤、僕がセイジの店にやってくるまでのエピソードを、なぜ2回繰り返したのか。僕視点とセイジ&翔子視点?思わせぶりに分けて表現するほどのエピソードではなく、はっとする仕掛けがあるわけでもない。ただ単に、僕が来る前に翔子とセイジは寝てましたというだけ。単なる作り手の自己満足。

    そもそも冒頭で、20年後の僕(二階堂智)の回想として物語がスタートしているのに、僕の知らないエピソードを変な形で組み込む時点で構成が破綻している。僕はまるで超能力者のように、セイジが初めてこの店に来たときの情景を幻視したり(サイコメトラーかよ)セイジの撮影したフィルムの中に入り込んだりする。原作があるので、どこまで映画オリジナル表現なのかはわからないが、こういう余分な実験的表現は本当に必要だったのだろうか?とにかく斬新な手法を試してみたいというだけの学生映画のようだ。

    店の常連客であるゲン爺(津川雅彦)と幼い孫のりつ子(庵原涼香)も、きちんと紹介されないうちに、なぜかセイジがりつ子と楽しそうに遊んでいる映像が差しこまれたりして、最初はセイジの子供なのかと思ったほど。そしてオーナー翔子と、店主セイジが、一体どこに住んでるのかよくわからなかったり。セイジ自身については、翔子が彼のことをまるで生きるのを諦めた世捨て人であるかのように説明する(ここで「陸の魚」という言葉が使われるが、なんだか意味が合ってない気がした)のと、セイジが突然自分語りを僕にするだけ。

    そしてなぜか唐突に、無差別連続殺人犯が近所に出没しているという話が差しこまれ、さらに唐突に、ゲン爺とりつ子の家族が襲われ両親は惨殺され、りつ子は命を取り留めるも左腕を失い、魂の抜けた人形のようになってしまう。こんな大事件が起こっているのに、りつ子は入院もせず自宅にいるし、2~3日しかたっていないかのようにずっと夏。連続殺人犯の動機もその後も一切わからず、都合よく現れ都合よく消える。これも原作があるからわからないけど、じゃあ序盤で意味深にセイジが血まみれ(車に轢かれた動物を処理してたぽいけど)で現れたりするのも無駄なミスリードにすぎない。

    映画のキモは、この心神喪失状態の幼いりつ子を、正気に戻すためにセイジがどうするか、という場面になるのだけど、ここまでで、セイジの人間性がちゃんと描かれていないので、先にも書いたようにただの頭のおかしい人にしかなっていない。ネタバレだけど、セイジはりつ子の目の前で、自分の左腕を斧で斬り落とす。ぶっちゃけ、こんなことされたら余計にトラウマ倍増するだけだと思うんだけど。これが無償の自己犠牲と讃えるべき行為とは、私にはどうしても思えなかった。

    セイジは両親から虐待を受けており、幼い妹を守るために両親を殺して少年院に入っていた過去がある。しかしそうまでして守った妹は、彼が入所している間に亡くなってしまった。彼がりつ子に妹の面影を重ねあわせ、今度こそ助けたいという悲壮な覚悟を持った、ということまでは理解できるが、それがあの行動では…。過激ならなんでもよいというわけではないでしょう。結局この映画にはそこにいたるまでの説得力がないのが問題。

    20年後、僕はそれきり疎遠になっていたHOUSE475を再び訪れ、大人になったりつ子と再会する。セイジらがその後どうなったかはわからないが、りつ子は救われた、というオチ。もやもや。キャストはなかなか豪華だし演技も良かったけれど、監督:伊勢谷友介のセンスは正直ちょっと微妙だと思った。バンド仲間役で出演しているRAT(http://rat-web.jp/)のメンバーと、劇中歌(「My Friend」https://www.youtube.com/watch?v=AucIzEbs06Y)はなかなか良かった。

  • 美しい風景と素敵な映画俳優たち、どこか意味を持たせた沈黙、こういった雰囲気の映画が好みなら楽しめる。
    同じシーンを別角度から再度流したり、回想のシーンで突如モノトーンの画面になったりといった工夫も楽しめた。
    初めて見たときは意味が繋がらなかったり、声が小さすぎて聞き取れなかったりしたが、見直してようやく分かるシーンもあった。緻密に計算されて作られた分かりやすく出来の良い映画もいいけど、こういったどこかスキのある映画もいいなあとふと思った。分かりやすい娯楽としてではなく、分かりにくい芸術にも少しずつ挑戦していきたいと思わせてくれた作品。

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