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感想・レビュー・書評
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4部からなっていて、それぞれのセクションの要約は以下です。
・大切なのは読書の習慣を作ることである
・読書の習慣を作るためには、読書のための閑暇を見いだすことである
・読書とは一種の技術である
・各人にとって自分に適した読書法を発明することが最も大切である
・そのためには、まず多く読まなければならない、多読は乱読から始まる
・自分に必要な一冊が何かは乱読してみなければわからないではないか。
・読書家とは、一般的教養のため読書する人である。
・専門書を読むのは当然だが、人間としての教養を備え、専門家の一面性の弊に陥らないように読書は勧められるのである
・有用な善い本を読まなければならない
・何が善い本かというと、古典といわれているような本である。
・古典はつねに安心して読むことができる
・またつねに原典を読むように心がけなければならない、解説書、参考書とかを読むことはもとより必要だが、本質的に原典を中心にしてこれを頼らねばならない
・善いものを読むことと共に、正しく読むことが大切である
・正しく読もうというには、まずその本を自分で所有するようにしなければならない
・正しく読むためには、緩やかに読まねばならない。決して急いではいけない。
・緩やかに読むということは、その真の意味においては、繰り返し手読むということである
・よく理解するためには、精読しなければならないのであって、精読は古来つねに読書の規則とされている
・繰り返して読むということは読書において、発見的であることを要求されている
・自分で思索しながら読むということは単に批判的に読むということにのみ止まらないで、発見的に読むということでなければならない。
青空文庫
底本 読書と人生 新潮文庫 新潮社
1974年10月30日発行
1986年09月30日20刷
初出 学生と読書 1938年12月
57頁詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
もっと若いとき、遅くとも大学に入る前に出会いたかった書籍。
そこのお若い方々! だまされたと思ってもよろしい、読んでみなされ。
ショーペンハウアーは逆説的に「本は読むな。自分で考える時間が奪われるだけで時間がもったいない」と書いてるけど、素直に受けてたら酷い目に遭うだらうね。 -
自分自身の読書法を、身につけることが必要とのこと。
私に読書法なるものがあるのかどうか…。
考え方が古めかしいなぁと読み始めの印象。
しかし、「緩やかに読む」という説明には納得いく。
昔の人は写本して、緩やかに読み、吟味した。
噛み砕いて発見して、自分のものにしたのだろう。
受動的でなく発見的に読む。
いつも、早く早く読んでしまおうとすることを、今一度やめてみるのもいいかもしれない。 -
三木清がいう
本を読む習慣をつける ということには、賛成する。
読書とは、技術であるという言葉にも賛成したい。
個人にあった読書の技術を身につけることが大切だ
という。そうだろうね。
しかし、三木清のいう『しなければならぬ』という言葉の
文脈が、あまり好きではない。もっと、気楽に本は読めばいい。
ピューリタンのような読書法だ。
それに、なぜか、楽しそうではない。
濫読、博読、多読、そして、一冊の本を繰り返し読む。
緩やかに読むことを進めている。写本のやり方まで、述べる。
古典に立ち向かうこと。
原書で読むこと。など、本格的読書のような気もする
思索ー批評ー批判的ー発見 という読書でなければ、
ならないという。
ふーむ。疲れるなぁ。 -
○自分の気質に適した読書法を自分で発明することに成功しない者は、永く、楽しく、また有益に読書することはできない。
○老人の教訓を忠実に守るに止まるような青年は、進歩的な、独創的なところの乏しい青年である。
○努力する限りひとはあやまつ。
○読書家とは多読家の別名である。
○読書家とは一般的教養のために読書する人のことである。単に自分の専門に関してのみ○読書する人は読書家とはいわれぬ。
○善い本は必ずしも読み易い本ではない。
○古典を読むことによってひとは書物の良否に対する鑑識眼を養うことができるのである。
○古典を読むことが大切である如く、ひとはまたつねに原典を読むように心掛けねばならぬ。
○原典を読むことが必要であるように、できるだけ原書を読むようにすることが好い。
○一般的教養に欠くことのできぬもの、専門書にしても基礎的なものはなるべく自分で所有するようにするが好い。
○正しく読むためには緩やかに読まねばならぬ。決して急いではならない。その本から学ぶためにも、その本を批評するためにも、その本を楽しむためにも、緩やかに読むことが大切である。
○自分の身につけようとする書物は緩やかに、どこまでも緩やかに、そして初めから終りまで読まなければならぬ。
○緩やかに読むということは本質的には繰り返して読むということである。 -
三木清の読書論。図書館よりも所有せよ派、良い本は繰り返し読め派であることが判明。文庫本でも欲しい。
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まずは濫読しても良いが、自分の専門となる体系的なもの決めること。
そして古典を読むこと。気に入ったものはゆっくりと読むこと。
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古典を読まない真の読書家はいないし、
古典についての教養を持たない真の読書家もいない。
古典は多面的だ。
個人的には、一面的な人間は面白くないと感じる。
古典だけしか読まない方が良いのかというとそうではない。
著者三木清の言葉で言えば、
アカデミズムに対してジャーナリズムがあるように、古典本と新刊本にはそれぞれに価値がある。新刊本を読むことは冒険である。
だが、新刊本だけを漁っていたらいいということでは全くもってない。
人は良いものを読むことで、
良いものと悪いものを見分ける目を養うことができるのであり、その逆ではない。
新刊本というのは古典と違い、まだ価値が定まっていないのだ。
だが、読書体験を古典から始める人は少数だろう。
やはり、ある程度新刊本を読んで冒険に出たのであれば、
古典にチャレンジし真の体力を身につけながら
その培った体力でまた新たな冒険に出かける。
さすれば、その体力に比例して今までの冒険を超越した大冒険になること間違いなしだ。 -
【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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【目次】
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先日読んだショーペンハウアーの「読書について」よりも、自分にとってしっくりとして腑に落ちる内容だった。
「老人の教訓を忠実に守るに止まるような青年は、進歩的な、独創的なところのない乏しい青年である。」
この一文にはハッとさせられた。
読書とは、本に書いてある内容を咀嚼して、自分で考えることが大事だということだろう。
未だに自分自身の読書法を発見出来ずにいる。
先ずは濫読から脱却しなければならないだろう。