地獄変 [Kindle]

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  • 2012年9月27日発売
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レビュー : 30
  • Amazon.co.jp ・電子書籍 (29ページ)

感想・レビュー・書評

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  • 芥川の古典もの。『宇治拾遺集』に原典が見られる(巻第三ノ六『絵仏師良秀家の焼くるを見て悦ぶ事』)が、ごく短い。物語の骨組は芥川の創作である。

    絵師、良秀は技こそ優れているが、性格が卑しく、吝嗇で高慢、そのうえ容貌も醜かったため、人からは忌み嫌われていた。猿にそっくりであることから、猿秀と陰口をたたかれる始末。絵に掛ける情熱は並々ならぬものがあり、罪人を描きたいからと人を縛めたり、怪しい獣を飼ったりして、弟子からも気味悪がれ、嫌われていた。
    一方、その一人娘は極めて性格がよく、かわいらしい少女であった。親思いで心優しく、素直で皆に愛された。
    物語のもう1人の主要人物は堀川の大殿様。位も高く、常人には計り知れない器量を持つ大人物であった。
    堀川の大殿は良秀の娘に目をかけ、屋敷に召し抱えている。娘を手元に置いておきたかった良秀はそれを不満に思っている。
    あるとき、大殿が良秀に「地獄変」(地獄の様子を描いたもの。地獄絵)の屏風を描くように申し付けたところから、悲劇の歯車が回り始める。

    奇怪で異様な話である。
    読み終わっても紅蓮の炎が脳裏を去らない。
    良秀の絵への執着をまずは見るべきなのだろうが、この悲劇が成立するのは、一人、良秀がいたためではない。大殿も娘の小女房も、深遠な闇を抱えていたように見えてくるのだ。
    芥川の別の有名作『藪の中』をどこか連想させる。登場人物たちの思いや視線は、互いに向かっているようですれ違い、永遠に交わることはない。虚空に置かれたねじれたベクトルのように。
    そして宙のどこかで彼らを見つめる芥川の視線もまた、孤独で冷たい。

    永遠の業火に焼かれるのは、誰だ。


    *『牛車で行こう!』の檳榔毛車で思い出しました。自分でもこれを思い出すのはどうかと思いますけど(^^;)。

  • 表現者としての業か人としての業か。何方がよりとして優るか。何処までも残忍に残酷になれるか。良秀と大殿様により遺された屏風絵「地獄変」その過程から炙り出される狂気の狭間に見える人から外れた人の形をした畜生。私の場合は大殿様の方がより狂った人と思える。まだ良秀の方が芸術家の矜持や作品に傾ける崇高さを感じさせるが、大殿様の私利私欲を満たす為に起こす行動の方が恐ろしさを臭わせる。いやはや人の浅ましさよ。怖い怖い。

  • 芸術のための芸術。

    炎熱地獄の屏風を完成させるのに愛娘が、犠牲になってしまった。
    至上の芸術家とは哀しい性なのか。

    良秀というあだ名が付けられた、お猿の存在が和ませてくれる。

  • 久々に芥川龍之介を読んだ。最後に読んだのはいつだろうと思ったら、多分第二回読書会『雛』以来なのではないだろうか?
    一言で言うならば「大殿様に”地獄変”の絵を描けと依頼された絵師・良秀が、その絵に熱を入れるあまり、実際の人物に地獄変に出てくる人物の様子を弟子などに演じさせ、最後には愛していた娘さえも絵の犠牲としてしまう」という趣旨の話。良秀は地獄変を描くために確かにみみずくに弟子を襲わせたり、蛇を部屋に潜ませたりしているのだが、最後の娘の犠牲だけは、良秀本人は「檳榔毛(びらうげ)の車が燃やしたい」と言っただけで、大殿様が中に良秀の娘を入れることを思いついた。良秀は、遂に地獄変の絵を完成させるが、その翌日に自ら縊れて命を絶ってしまう。

    この話は語り手である「私」から良秀や大殿様や良秀の娘の様子を描いている。また、「~と言われている」という『藪の中』にも用いられているあいまいな書き方・事実かどうかをあえてぼかしているような書き方や、まるで芸術至上主義に徹しているように良秀を描いておきながら、最後の最後に自殺させてしまう点が、何とも非常に芥川らしい。例えばだが、最後の部分で良秀が自殺しなかったとしたら、この話の私の印象は全く別物になっていた。だが、良秀が死んだことによって、この話は物語を物語として完結させようとしている感じが見られる。どことなく”いかに芸術至上主義に身をゆだねたように見える人間でも、娘を思う情はあるのだ”という風に読めてしまうのである。
    明治文学ばかり読んでると、確かにこれを斬新と思うような気がするし、実際私はそう思った。と同時に全体的に商品らしい商品・整えられた文学、という感じもあって、もう少し泥臭くてもいいんじゃないかと思わなくもない。

    加えて言えばこの話が出来たのは大正七年の頃。前時代となりつつあった自然主義から芥川が何か思うところがあったのかなと思う話であった。

  • これも芥川龍之介の代表作です。殿様が絵師・良秀に地獄変の屏風を描くように命じますが、その過程と結末がそれはそれは恐ろしいです。「芸術の完成のためにはいかなる犠牲も厭わない」姿勢が評価されているようで、それはわかるのですが、全く生きる指針にならない作品です。どうしてこのような作品が取り上げられ残ってきたのか、そっちの方に人間の怖さを感じます。

  • 残酷で後味悪かった。

  • 怖い。ひたすら怖かった。途中で結末は予想できたものの、そこに行き着くまでの流れ、表現、言葉選びがもうなんとも言えないくらいの恐怖。芸術家としての完璧なる作品を描きたい思いと1人の親としての子への愛。天秤にかけられること、それほどまでその絵を描きたかったのだろうか。それが芸術家なのだろうか。

  • 三宅香帆さんのcakes の記事で、「月と6ペンス」読んだ後におススメとあったので手に取る。人望ある堀河の大殿様と、絵以外には価値を認めないような偏屈で傲岸な絵師良秀。大殿様は良秀に地獄変の絵を描かせようとするが、見たものしか描けない、しかし一度見たものは鮮やかに描いてみせるゆえ、市井の身分の低いものの顔を書き込んだり、災害があるとかけていって仔細に観察し、また動物に弟子たちを襲わせて観察したりと。ある時焼ける車が見たいという良秀に、堀河の大殿様が取った手段は、と。なんとなく誰を乗せるかは予測ついたけど、良秀はそれを見て、構わず恍惚だけ見せるかと思いきや、苦しみや悲しみがまず出てきたところが意外だった。

  • 良秀が如何に人であったか。器量のある者、それを取り巻く者、讃える者が如何なるものか。良秀が作品を創るにあたっての振る舞いは、決して天才ではなく真摯で努力家で。人は、理解のできないもの、不気味なものに、恐れを感じるもの。目に見える良秀の風貌出立や振舞いのそれらや噂話、それに似つかわしくないその力量に恐れを抱いている。それを受け留めることのできない人の浅さ。業火の中、焼死にゆく愛娘を如何ともできないその生き地獄。戻ることのできない愛娘の命の絶えゆく道を覚えゆけばゆく程、生き地獄は良秀の血肉となり、愛娘の死を悟ったとき、そうして愛娘を生かすことを覚えたのだろうか。良秀は受け止めた。そして生かした。良秀は受け止めた。そして、自ら死んだ。人の心を持つ良秀だった。愛娘とともに地獄変の中で生きることを選んだかのように感じる。醜く不気味で得体の知れないものを人は恐れ奇人変人扱いをするが、それは不覚なる者であることも多い。わかりやすいもの、人が安楽的に依るところのものを人は讃え易いが、その実は如何に。大腹中の御器量のあるお方というのはそのようなものなのだろうな。この物語を語る者はそれを自覚していながらもまだそのように振る舞う。或いは、それを読む人もまたそうかもしれない。平安も大正も今も、それは変わらないのだろうな。

  • 狂おしいほどに何かに向かって突き進むことの怖さと美しさが端的に表現された作品

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