あらすじ:広岡仁右衛門とその妻が赤ん坊を連れて農場に小作人として働きに来るも、仁右衛門の暴力ぶりと支払いの滞り、そしてその生活ぶりから農場を追われて出ていくまでの話。仁右衛門は体が大きく横暴で、自分の気にくわないことがあれば、女だろうと子供だろうと殴り、周囲を怯えさせている。彼は妻を殴ることにも抵抗がない。入った金は飲酒や賭博に使う。だが一応、農場の労働力として働きはしていた。
夏の暑い日、仁右衛門夫妻の連れていた赤ん坊が赤痢に罹ってしまう。その際、笠井という地主が赤ん坊が治るようにと祈りを捧げていたが、赤ん坊は結局亡くなってしまった。仁右衛門は、自分の赤ん坊を救ってくれなかった笠井を恨んで、「自分の子供を殺したのは笠井だ」と触れ回った。
そんな時、農場で競馬が執り行われる。この競馬で優勝すれば多額の金がもらえるとのことで、仁右衛門も自らの馬で出場することにした。競技の最中、笠井の娘が乱入してきてそれを避けたことで、仁右衛門の馬は負傷して走れなくなってしまう。仁右衛門はこの馬を売って金にしようとしたが、走れなくなった馬は「金を食う機械だ」と言われ、誰も引き取ってはくれなかった。
一方で、農場では笠井の娘が何者かによって辱しめを受けたという話が持ち上がり、犯人の捜索が行われた。皆は口々に、笠井に自分の子供を殺されたと触れ回っていたことを理由に、仁右衛門がやった、と言い始めた。仁右衛門はそれまでにも佐藤という小作人の妻と不倫関係にあったことから、仁右衛門ならやりかねない、という噂に上るまでになっていたのだった。
笠井の娘の姦婬事件の話題が広まり、いよいよ仁右衛門は農場を去ることに決めた。農場を去る前、仁右衛門は負傷した馬を自らの手で殺める。そして妻を引き連れて、農場を後にするのだった。
有島武郎の代表作にして出世作。ということでどんな作品なのかと読んでみたらこのあらすじにみる通り、すごく狂暴で泥臭い話だった。これが本当に『一房の葡萄』を書いた有島武郎の作品なのかと思うくらいギャップがあった。と同時に、発表当時の大正6年、こうした深刻な話が売れていたことを思えば出世作となったというのも頷ける。生易しい話よりもこういう「人生は深刻なんだよ...」みたいな流れに作者も乗った形だろうか。
どちらかというとこの作品は人生の艱難を描いているという点でも自然主義っぽさはあるが、モデルは有島農場で働いていた人物らしい。雇う立場と雇われる立場にあった作者と本作のモデルだが、いずれにも生きる苦しみがあるのだということには変わりないようで、有島本人が生きる苦しみについて述べている文もあるとか。(「自己を描出したに外ならない『カインの末裔』に詳しいらしい)
タイトルの『カインの末裔』の「カイン」は、キリスト教旧約聖書創世記に出てくる「カインとアベル」の兄・カイン。貢ぎ物を求めた神に対して、弟・アベルは、自分の大事にしていた羊を提供した一方で、カインは神への供物を"何を選んだら自分が困らないか"を基準に選んだため、神はアベルの品を選んだ。これに腹を立てたカインはアベルを殺してしまい、神に一生不毛の大地をさ迷い続けるよう、呪いを掛けられる、という話が元ネタだ。
言われてみれば確かにこのカインの末裔なら、広岡仁右衛門のように横暴で、不作の大地を新天地求めて歩き続ける、そんな姿がタイトルからして暗示されてるようにも思う。しかも最後が現農場を後にするところで終わるのだから「上手いなあ」と思うのである。(本当にそういう意図で書かれたのかはわからぬが、少なくともタイトルの連想と仁右衛門との行動をみれば誰でもそう想像するのではないだろうか...)
それにしても広岡仁右衛門は絵に描いたような救いようのない人物像だが、それでも我が子を愛する心はあり、事故で負傷した馬を殺める部分などで可哀想だと思っているところなど、要所要所で人間味を感じさせてくる。そこがまた、最後に事実ではないかもしれない噂によって農場を追われる仁右衛門の姿に哀愁を増幅する一因にもなっており、完全な悪い奴を作るのではなくそういう部分を残してるのがさすがの文学作品といったところか。