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感想・レビュー・書評
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Kは何故死んだのか。自死だったのか…あるいは…。
全編を通して怪しい月の光に照らされた海が浮かんでくる。
主人公が夜の海岸で出会ったKはこう言う。
「月夜になれば、憑かれるんですよ。この世のものでないというような、そんなものを見たときの感じ」
月と、月に照らされて波間に落ちる影に魅入られたKの静かな狂気が、梶井基次郎の美しい文体と相まって溜息が出てきます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
副題「或はKの溺死」
こんどはシューベルトの『海辺にて』『ドッペルゲンゲル』を聞きながら読む -
Kの昇天
ー或はKの溺死
美しい文章というのは、ぞっとするような怖さを秘めてる文章なのかもしれないなあと思った。この作品も然り、Kが満月の夜に海辺で揺らめいている姿も怪しげで怖かった。
月に照らされた影を見つめていると、自分の人格が徐々に影の中へ吸い込まれていく…
そしてKは月へと昇天していき、もうひとりの彼は影を追って海へと墜落していく、という構図も綺麗だなと思った。
でも、こういう綺麗な文章を読むとなんともいえない気持ち悪さを感じてしまうの、なんでだろう?
月食の日に、偶然にも月が関係するお話を読めたのはなんだか不思議で、わくわくした。 -
Kは「自分の影見てると段々それが人格を持ち始めるように思えてくるんやおもろいやろ」とか言い始めるそこそこやべー奴なのだが、月夜に照らされた砂浜で病弱そうな青年が影に魅了されている姿を想像すると、不思議と息を飲むような奇妙な美しさすら感じてしまう。そしてKが昇天していく様はさながら人間を超越した何かが元いた場所に戻っていくような、神聖な光景を見ているかのような気持ちになる。
ところでKは本当に自殺だったのだろうか。
自分のドッペルゲンガーと遭遇した者は死ぬという言い伝えがある。
これは私の憶測なのだが、もう1人の登場人物である「私」こそが影であり、Kのドッペルゲンガーだったため、Kはこの世から消えざるを得なかったのでは無いのだろうかと考えている。
その根拠のようなものとして、「私」がKと初めて会った時にシューベルトの「ドッペルゲングル」を口笛で吹いていたこと、「私」の体調が徐々に回復する一方Kの体調は悪化していったことの2点がある。
だとしたら冒頭の「私」と末尾の「私」は全くの別人なのだろうか?「私」は本当に「私」であったのだろうか?そもそも「私」はこの世界に存在していたのだろうか?
様々な疑問点が出てくるが考えるのがまあまあ面倒臭くなってきたのでやめた。 -
精神世界への誘い、といった印象。病に侵されていた梶井基次郎だからこその表現が多く見受けられる。病気と精神の疲弊がKを蝕んでいく様子が作中では第三者目線で描かれている。昇天、ということばを用いて死を演出している点が面白く、儚く美しい。
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なぜKは自殺したのか?理由を想像する主人公の回想録っぽいお話しです。
名作って私には合わないのだろうか・・・?
著者プロフィール
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