山月記 [Kindle]

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  • 2012年9月27日発売
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レビュー : 79
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感想・レビュー・書評

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  • 学生の時分ではただただ難解な文章だと思っていましたが、再読を重ねるごとに味わい深いものだと思わせられる作品です。
    この語調の良い文章は後にも先にもこの人ただ一人にしか書けないのではないでしょうか。短命だったのが実におしい。

    中身に関しては文章によって糖衣されているものの、アリとキリギリスのような寓話に近いと私は考えています。

    鈍物と気にも留めなかった同輩は長い研鑽を通じて高位に進み、尊大な羞恥心を捨て去らなかった李徴は詩家の名を残すこともなく虎と化す。
    博学才穎、儁才という衣に身を包み、人と交わろうともしなかったが故に彼は虎として、自らの悲哀を誰にも伝えることが出来なくなったのでしょう。
    李徴が自身の才に飲まれる最後の際、袁さんという理解者を登場させたのは偏に中島敦の優しさなのではないかと思います。
    孤独の中にあって、自責の念に苛まれ、最後にようやっと気づけたと人と交わることが出来たのですから。

  • 面白かった

  • 高校の時、教科書に載ってた。初読の時も思ったけど、改めて再読すると李徴の傲慢な部分が気に掛かる。李徴にとっては周りはすべて見下し対象なのだろうと思う。だから誰にも理解されないと壁を作っている。結果は、人間でいた時も孤独。虎になっても一人。
    山月記には元ネタがあって、そこで変化したのが虎だったから、山月記でも李徴が虎になった。
    虎は位の高い生き物なんだけど、この話では位の高さではなく愚かさの象徴であり、自分の強さに酔っている存在として書かれているような気がする。

    それから、袁と李徴が藪で再会した時、李徴が袁を襲いそうになって「あぶないところだった」って呟くのが激しく萌えた。
    ひらがなで言ってるのがイイ。獣になりかけているという演出なのかな。
    その直後に名乗るシーンでは「如何にも自分は隴西の李徴である」とお堅いので
    「あぶないとこだったー」という素の声みたいなのにギャップを感じた。

    あと、袁は李徴の友と言ってる割に、「漢詩だめやん」とかなり辛辣。
    漢詩の部分は私には良し悪しが判断できないけど、解説サイトなどを見ると大して上手くないらしい。
    久し振りに友にあって、自信作を聞かせていたつもりなのだろうと思う。何だかいろいろと身につまされた。

  • 教科書で読んだ記憶は曖昧で、虎がでてきたな、という程度。改めて読み、心に突き刺さりました。 他者に傷つけられることを恐れる臆病な自尊心と、恥をかかないよう横柄にふるまう羞恥心から、虎になってしまった男、李徴。 妻子の今後より、自分の詩を後世に伝えてほしいという願いを先に口にしてしまうところが、虎になっても変わらず笑えてしまう。ただ、笑えるのに切ない。 他人から否定されたくない、恥をかきたくない、そんな気持ちは誰にでもあるはず。自尊心がない人は、それはそれで心配だと思う。 ただ、成長には謙虚さが必要だ。

  • 以前読んだ時には、格調高い文章の素晴らしさに反して、
    人間が虎に変化するという突飛さに違和感を感じていた。
    でもこのように人間が虎に変化する物語を他にも読んだことがあり、何か意味合いのある出来事なのかと思っていた(調べてはいない)。

    読み返してみて思うのは、たとえ虎になってしまうわけでなくても、自分の意思に反して、どうにも止め難く自分が変わっていってしまうことがあるのだと思う。
    その過程で意識はある。このままではダメだと思う。なんとか食い止めなければと思う。どうしてよりによって自分がこんな目にあってしまうのかと思う。なのに止めることができない悔しさ、もどかしさ、絶望。

    なんとも悲しい物語だ。

  • twitterで話題になってたので青空文庫を読んでみた。

    うちの高校の教科書は角川で『こころ』は載ってたけど山月記はなかった。

    ワナビをこじらせて虎になってしまう主人公が切ない。

    「自分も2、3年練習すればそれなりになれただろう」などと言って自分は何か持ってるぞ的な発言をしているとき、本当に何者かになり得る人は実際に2、3年の経験を積んでいる。

    創作で大事なことは案外と昔から言われているのだなあとか思う。『田舎教師』も同人作家必読。

  • 自分のことが書かれているような気になる本。SNSで自分が気持ちよくなるための情報を恣意的に集めたり匿名で誰かを批判して(自意識では)マウンティングをかますことが容易になった今、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」問題はより普遍的な問題になっているように思った。

  • 今、読むと虎になった原因に耳が痛い。

  • 自分が何者でもないことに直面するおそれ、羞恥心から、人との交わりを拒み、教えを請わず、「井の中の蛙」になっていた李徴…今読み返すと、人それぞれが持っている「獣」と対決して、自分を前に進めていく努力をしないといけない、自分の弱点を分かっているだけでは成長しない(李徴は最後まで、分かっていながらまだ自分の中に閉じこもっている)ことを教えてくれる。

  • 道徳っぽい内容
    短くてスッキリまっすぐな文体なので読みやすい

  • 家庭用のエアロバイクをしながら読了^^(ipad for kindle) 山月記、先入観なくよんだ。こういう話だとは思わなかったので驚いた。(もっと文学している小難しい話を想像)これ傑作!自分みたいな幻想、怪奇の好きな人は必読です。自分の中の獣はなんだろうと思わずにいられない。岩の上、月に照らされた、虎の姿が目に浮かびます。哀愁ただようラストシーン。好き!

  • 李徴ヨリノケイショウヲキク

    曰く、
    「今思えば、全く、己は、己の有もっていた僅わずかばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為なさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄ろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょうな危惧きぐと、刻苦を厭いとう怠惰とが己の凡すべてだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。」

  • 夜眠つけず、布団の中、kindleで読む。

  • 再読。高校生以来2度目。自分で気づいていなかったが希望に満ちていたあの頃から数十年が経過した今、従来の姿を失おうとしているまさに李徴と同じ境遇にある自分に気がつきました。悔いることばかりです。

  • 殆どの方が学生時代に読んだ事がある本ですね。再読すると、、李徴みたいな方って実世界にも多分いると思うんですよね…。良し悪しは別として。考えさせられる内容だなと思いました。

  • ブンゴウメール11月後半の配信作品。

    題名は知っていたけど読んだことのなかった作品。
    文章が読みやすかったです。

    こういう話だったのね!

  • ・己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることはしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
    ・己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、噴悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果となった
    ・人生は何事をも為さぬには余りにも長いが、何事かを為すには余りにも短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ

  • 世の中虎まみれ。

  • 【由来】


    【期待したもの】


    【要約】


    【ノート】

  • 最初に読んだのは高校生の時だが、何度読んでもやはり名作。自分への戒めにしたい本。
    李徴が「失敗の科学」を読んでいれば虎になることはなかったかもしれない。
    「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」。

  • 【読了メモ】読了日180703、ブクログ上でタグのつけ忘れ

  • 読んだのは高校生以来。短編ながら、やはり名作。

  • 中島敦の山月記。
    原口一博氏がツイッターで言及。
    https://twitter.com/kharaguchi/status/1043238572717834243

  • 久々に再読。
    以前は設定やらふたりの友情やらに目がいってたけど、改めて読むの李徴の語る若かりし頃の心情がおまおれすぎて胸が痛くなった。
    きっと読む人それぞれが多かれ少なかれそんな心持ちになるんだろうな…。

  • 『林修の「今読みたい」日本文学講座』所収

  • 文章が芸術的に綺麗。

  •  高校時代の友達と飲んでいたとき、国語の先生が昔、生徒に配ったプリントを持ってきた人がいました。そのプリントには「夏休みにこれを読め」とさまざまな本のタイトルが並んでいた、その中にこの山月記がありました。高校時代に読んだことがあるんだなと思ったのですが、内容を良く覚えていなかったので再読しました。改めて読んでみて良かったです。
     思い悩み、行き詰った李徴はある夜突然、虎に変じてしまう。李徴の意識はどんどんと獣のものとなっていく。そんな中で親友の袁傪に会い、襲いかかろうとしたところ、人の意識を取り戻し、踏みとどまった。
     私はこの踏みとどまった行為がまだ李徴の中に人がおり、獣ではないと感じました。李徴はこのまま人でなくなると言っていた、それが楽だと、でも、そう言っている李徴のこらえきれない悲しみが伝わってきました。

     <以下引用>
     人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが各人の性情だという。

     先生がプリント内に引用していた一文です。性情とは人に生まれつきある性質のこと。人はこれを操り、生きている。時に思い通りにならないこともある。それでも必死に制御しながら生きていきたいですね。

  • 言い訳ばかりして何もしなかったのに
    自尊心はどんどん肥大していく。
    自分は何が出来るんだろうって考えるときに
    思い当たる節のある感情だった。

    この男は仮に元に戻れたとしても、
    やっぱり同じような生き方をするような気がする。

  • 山月記の続きを書く課題の話題をツイで見かけて気になってしまった。
    袁傪がこの物語の後に取る行動は…
    ・李徴を虎から戻す
    ・李徴を人食い虎から人と共生できる虎にする
    ・虎を保護する
    ・第二の李徴を生まないように対策を立てる
    とかだと平凡なのかもなぁ。

  • 何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依よれば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非あらざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。

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著者プロフィール

中島敦

一九〇九年(明治四二)、東京・四谷に生まれる。三〇年、東京大学国文学科入学。三三年に卒業し、横浜高等女学校に国語科教師として就職。職の傍ら執筆活動に取り組み、「中央公論」の公募に応じた『虎狩』(一九三四)で作家としての地位を確立。四一年七月、パラオ南洋庁国語編修書記として赴任。持病の喘息と闘いつつ『山月記』『文字禍』『光と風と夢』等の傑作を書き上げる。四二年(昭和十七)、職を辞して作家生活に入ろうとしたが、喘息が重篤となり、同年十二月に夭折。

「2019年 『南洋通信 増補新版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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