月に吠える [Kindle]

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  • 2012年9月27日発売
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感想・レビュー・書評

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  • 「日本近代詩の父」と言われる萩原朔太郎の詩集をいつか読まなくちゃと思ってました.
    句読点を多用した長文が定型だったのかな

    お気に入りの詩
    「掌状の種」
    (抜粋)手のうへの種はいとほしげにも呼吸づけり
    「危険な散歩」
    (抜粋)たとへどんなことがあつても、
    おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。
    おれはぜつたいぜつめいだ、
    おれは病気の風船のりみたいに、
    いつも憔悴した方角で、
    ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。
    「ばくてりやの世界」
    (抜粋)ばくてりやが生活するところには、
    病人の皮膚をすかすやうに、
    べにいろの光線がうすくさしこんで、
    そのぶぶんだけほんのりとしてみえ、
    じつに、じつに、かなしみたへがたく見える。
    ばくてりやがおよいでゐる。
    「およぐひと」
    (抜粋)およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。
    「青樹の梢をあふぎて」
    (抜粋)愛をもとめる心は、かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、
    それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。

    寂寥感が半端ないので人となりを調べてみました.
    医師の父の偉大さと過大な期待に応えられない病弱さや繊細さから短歌やマンダリンへ傾倒する様子が痛々しく感じました.もう少し詩歌を読んでいきたいと思います.

  • 朔太郎と言えば
    高校の時の国語の先生が、朔太郎、朔太郎と言ってました。いつか自分も朔太郎がわかるようになるだろうかと思いながら、手付かず。
    題名だけ知ってる
    教科書程度と言う感じでしょうか?
    それも忘れてるが。
    これをレビューするか、
    もし読んだ方ごめんなさい。いつかは!

  • 世田谷文学館の『月に吠えよ、萩原朔太郎展』を観に行ったので再読。
    「口語自由詩」のインパクトは近代詩の流れや大正初期の視点がないと正直わからないが、今読んでもリズミカルで躍動感があり古臭く感じないのだから、それだけでとてもすごいことだとわかる。
    のをあある とをあある やわあ(※犬の遠吠え)

  • 月に吠える
    というタイトルの詩は存在しないのだいうことが衝撃だった。

    思ったよりも陰鬱な作風。
    空気感が暗く重い。
    そして文語体に慣れない。やっぱり現代作家の方が読みやすいかもしれない。

    そんな中
    ばくてりやの世界
    はとても良かった。抜群。

  • 狂水病と朔太郎    -2006.05.11記

    萩原朔太郎といえば「月に吠える」、「青猫」あるいは晩年の「氷島」。
    北原白秋に師事した朔太郎が処女詩集「月に吠える」を世に問うたのは大正6-1917-年、彼はこの一作で全国的に名を知られるようになるほどの鮮烈なデビューを果たした。
    その序の冒頭近く「詩の本来の目的は、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。」と標榜した朔太郎は、序文半ばにおいて
    「私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。」と記している。

    「狂水病」とは狂犬病の異称だが、発症すると錯乱.幻覚.攻撃などとともに恐水発作の神経症状があることからこの名で呼ばれてもきたようだ。
    この狂犬病が大正の初め頃には年間3500件もの発症を記録したというから、朔太郎がこれに触れた当時は狂犬病の猛威に世情騒然ともなっていたわけだ。
    神経錯乱に陥り狂気悲惨の症状を示してほぼ確実に死に至るという狂犬病は、やすやすと種の壁を越えて哺乳類全般に感染するという点において、このところ話題の狂牛病よりも性質が悪いといえるのかもしれない。
    未曾有の狂犬病流行という事象を背景として朔太郎の序文末尾を読むと、奇妙なリアリティとともに結ばれる像も些か異なってくる。
    「月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。」

  • 月に吠えるというタイトルが気になって読んでみた。寂しさのなかに透明な何かがあって、心が虚しさを感じるのではなく魂を感じ取ることができる。
    好きな詩は
    およぐひと

    およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、
    およぐひとのたましひは水のうへの月をみる

  •  確かに昔何度も読んだ詩なのに、まったく違った感触で立ち上がってきたのは、わたしの言葉に対する姿勢の変化のせいかもしれない。幼い頃には、実に自身の感覚にそぐう詩の数かずだと思っていたけれども、今は少し距離がある。文字の向こうに見える景色と、そのこちら側に立つ朔太郎と、それを見ている自分という三層の「現実」のなかを、行ったり来たりする。そういう読み方をした。

     もっと長いものだったという記憶があったのだけど、通して読むと、存外短かった。初版があっという間に売り切れたあと、古書店で値がつりあがり、多くのお願いが届き、再版に踏み切ったといった経緯は、現在とそうは変わらないなと思う。往時も今も、言葉を求める人たちというのは存在し、そして、やっと手に入れたそれを目にし、それぞれに感銘を受けるのだ。

  • 詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。(萩原朔太郎『月に吠える』)
    上記の言葉たちは、当初、岩波の『言葉の賜物』で出会った。その後この言葉の詳細が気になり、出典元であるこの本を手にとった。実際に本を開いてみて驚いたのは、この言葉は北原白秋が萩原朔太郎に贈った言葉だったということだ。この本は、序文、詩、あとがき(跋文)という構成で成っているが、まさに序文において北原白秋が書いた言葉であった。あとがきでは、田中恭吉という画家が紹介されていた。それも気になってしまい、さっそく画像検索した。わたしはとても驚いた。この本は単なる詩集という枠を超えている。例えるならば前衛的なフレンチレストランの簡単なランチコースのようだ。

    「さびしい人格」、「雲雀料理」、「雲雀の巣」、田中恭吉の絵画。これらと出会った。

  • 朔太郎が書いた序文の詩文に関する記述からは、文芸とか創作とかに対する関心を高めさせられるし、内容からうかがえる繊細な神経のうごきや多感さは中学生くらいの生徒には共感できるところがあるだろう。描くものと描かないものの境界からにじみ出る「病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめ(序文より引用)」が文語調の文体によって表現されているさまには、感性をくすぐられることであろう。。私もこんな詩がかきたい

  • ・罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである
    「雲雀の巣」より
    ・五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする。
    「雲雀料理」より

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著者プロフィール

萩原朔太郎
1886(明治19)年11月1日群馬県前橋市生まれ。父は開業医。旧制前橋中学時代より短歌で活躍。旧制第五、第六高等学校いずれも中退。上京し慶応大学予科に入学するが半年で退学。マンドリン、ギターを愛好し音楽家を志ざす。挫折し前橋に帰郷した1913年、北原白秋主宰の詩歌誌『朱欒』で詩壇デビュー。同誌の新進詩人・室生犀星と生涯にわたる親交を結ぶ。山村暮鳥を加え人魚詩社を結成、機関誌『卓上噴水』を発行。1916年、犀星と詩誌『感情』を創刊。1917年第1詩集『月に吠える』を刊行し、詩壇における地位を確立する。1925年上京し、東京に定住。詩作のみならずアフォリズム、詩論、古典詩歌論、エッセイ、文明評論、小説など多方面で活躍し、詩人批評家の先駆者となった。1942年5月11日没。

「2022年 『詩人はすべて宿命である』 で使われていた紹介文から引用しています。」

萩原朔太郎の作品

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