忘れえぬ人々 [Kindle]

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  • 2012年9月27日発売
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感想・レビュー・書評

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  • ■ はじめに
    かつて読んだ柄谷行人の『日本近代文学の起源』で「風景を発見」した小説として大フィーチャーされていた国木田独歩『忘れえぬ人々』。柄谷の本でわかった気になって何となく読まずに済ませていたが、このたびひょんなことから手にすることになった。こんなに短い小説だと知っていれば当時柄谷の本と併せて読んでいたのに、と思いながら読了した。

    小説としては、最後になって最初に描写されていた亀屋の主人が小説の中でのはじめて出てくる忘れ得ぬ人だったのね、という仕掛けが入った優れた小品という佇まい。一方で、それ以上に『日本近代文学の起源』を再読して、柄谷の批評に引っ張られて読んだことで、この小説の日本文学史上の価値というものを改めて見ることができた。

    ■ 風景の発見 ~ 柄谷光人『日本近代文学の起源』とともに
    柄谷行人のことを知らない方のために簡単に説明すると、かつて日本現代思想界が華やかなりし時代のスーパースターであり、古今東西の賢人の言葉を縦横無尽に自分の説に引き込んで断言する芸風は、他の追随を許さない力強さがあった。そして、またそれがたまらない魅力でもある。79歳の今も現役で、今年に入ってからも過去のNAM活動を違う形でリバイバルしようとするのか『ニュー・アソシエーショニスト宣言』を出版するなど精力的に活動している。

    その柄谷が『忘れえぬ人々』を取り上たのは、『日本近代文学の起源』の冒頭に置かれた「風景の発見」の章において。大学生の頃に読んだものなので、読み返したのは何年振りになるかわからないくらい昔だが、『忘れえぬ人々』というタイトルを見てこの本のことをすぐに思い出したのは、自分にとってこの批評が忘れえぬものであったことは間違いない。小説において「風景」はそこにあるものを観察して描写したものではなく、近代小説の制度において「発見」されたという転倒があったというのが柄谷の見立てである。そして、風景が発見されるためには明治期の言文一致の完成とそれに伴った「内面」というものが発見(発明と言ってもよいのかもしれない)されなければならなかったという。どういうことか。

    まず、この『忘れえぬ人々』は明治31年の作品である。明治初期に言文一致の運動が起こり、小説における言文一致が試みられた二葉亭四迷の『浮雲』は明治20年となるので、そこから10年あまりが経った時期に書かれている。柄谷が指摘するように、言文一致は「言を文に一致させることでもなければ、文に言を一致させることでもなく、新たな言=文の創出」である。それは文学の世界においては、新しい日本近代小説の誕生を意味するものであり、そこには多くの産みの苦しみがあった。柄谷は次のように書いている。

    「独歩が二葉亭のような苦痛を感じなかったということは、彼にとって「言文一致」が近代的な制度であることが忘却されていたということである。そこでは、すでに「内面」そのものの制度性・歴史性が忘れさられている」

    柄谷行人は、日本近代文学は独歩においてはじめて書くことの自在さを獲得したと言う。そして、その自在さは、それまでには持ち得なかった形の「内面」や「自己表現」というものの自明性の確立と連関していると主張する。柄谷が、「独歩にとって、内面とは言(声)であり、表現とはその声を外化することであった」と書くとき、柄谷の視線はデリダが批判した西洋の音声中心主義に向いており、その視座から日本近代文学を見ようとしていることは明らかである。この小品をそういった観点での歴史性の中で見るとさらに違った味わいをかみしめることができたのである。

    そして、現在の我々が『忘れえぬ人々』を読んで、まったく違和感がなくその世界を受け入れることができることにもっと驚くべきなのかもしれない。

    ■ 忘れ得ぬ人々 ~ ネタばれあり
    『忘れえぬ人々』は、文学を目指す大津が、旅先などで見かけた風景とともに記憶に残る「忘れ得ぬ人々」を小説にしようとしていることを、旅宿で一緒になった無名の画家秋山に語ることで進行する。そして、小説の最後は次のように締めくくられる。
    ---
    その後ニ年経った
    大津は故あって東北のある地方に住まっていた。溝口の旅宿で初めてあった秋山との交際はまったく絶えた。ちょうど、大津が溝口に留まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向かって瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じ『忘れ得ぬ人々』が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは『亀屋の主人』であった。
    『秋山』ではなかった。
    ---

    ここで、果たして最後に置かれた「『秋山』ではなかった」の一文は必要なのか、ということが気になる点である。秋山よりも亀屋の主人の方が、忘れ得ぬ人としての資格があることは明らかなので、そのため「その最後に書き加えてあったのは『亀屋の主人』であった」と書いて終わっても、秋山がその選に漏れたことは読者にも誤解なく伝えることは可能である。秋山は明らかに「本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人」ではないからだ。大津にとって、名前が付いた人物は「忘れ得ぬ人」ではない。秋山のような人間は「絶えず人生の問題に苦しんでいながらまた自己将来の大望に圧せられて自分で苦しんでいる不幸せな男」にとって、「われと他と何の相違があるか」と問われるような人にはなりえないのだ。

    誤解を恐れずに言うと、「『秋山』ではなかった」の一文は余計で無駄なもので、さらに読者を信じきれずに置いてしまった文とさえ思える。この一文はなくてもよかったし、何となれば「そこには『秋山』の名前はなかった。その最後に書き加えてあったのは『亀屋の主人』であった」と逆順にして亀屋の主人で締める方がよいのではとも思った。『亀屋の主人』が最後に来ることで、読者はそういえば亀屋の主人って最初にでてきたけどどういうこと言ってたっけとはじめに戻り、そして後にその列に加えられる亀屋の主人を意識しながら忘れ得ぬ人々の話を再読するという循環的読書が期待できるところはこの小説のとても洒落た形式になっているからだ。つまり、「『秋山』ではなかった」に強勢が置かれるべきではないのではないか。

    ...というようなことを思いながら、改めて先の引用箇所を読んでいると、亀屋の主人が最後ということは、この二年の間には新しく「忘れ得ぬ人」に出会わなかったということでは? ― それは何かを意味しているのだろうか? ― という疑問・読み方が浮かび上がってきた。そう考えると「故あって東北のある地方に住まっていた」という言葉が違う意味を持つように思え、「自己将来の大望に圧せられていた」かつての大津は何かを諦めてしまったのだろうかとも想像することもできた。そして、失意のもと東京から東北に行ったのではないかと。もちろん、独歩がその意図を持っていたのかどうかはわからない。ただ、そのときに、ふと何気なく置かれていた「その後二年経った」の一文が自分にとって違う相貌を見せたのだ。こういうことが幸せな読書体験ということなのかもしれない。

    短い小説だが、想定以上に立体的に楽しめた作品となった。

  • へ~

  • どんな話かと思いきや、ちょっとした出来の良い小噺でした。
    タイトルと言い、出だしと言い、長さと言い、ちょっと体調芳しくない現況で、結構楽しませてもらいました、日経夕刊に多謝。

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