般若心経講義 [Kindle]

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  • 2012年10月1日発売
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感想・レビュー・書評

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    色即是空、空即是色。
    空を知る事が般若心経を理解すること。
    全てのことは因縁で繋がっている。
    今日の積み重ねが一年、一生となる。1日を貴いものにするかは自分の心次第。

    • tomokonyさん
      読み始めたところです。
      般若の智慧とは、知らざるもの、眠れるもの、迷える人間の智慧ではなくて、知れるもの、目覚めたるもの、悟れる人の智慧。...
      読み始めたところです。
      般若の智慧とは、知らざるもの、眠れるもの、迷える人間の智慧ではなくて、知れるもの、目覚めたるもの、悟れる人の智慧。
      今まさに読むべき本と思いました。2021年8月2日。
      2021/08/03
  • これまで般若心境と言えば「色即是空、空即是色」で、仏教の宗派の一つくらいの認識であった。本書は「般若」とは何か、心境とは何かなど、般若心境のお経ひとつひとつを解説してくれる。後半は幾分難しく感じられたが、著者の誠実・丁寧な解説もあって最後まで読み終えることができ、更には今後も時折読み返したいとさえ思った。

  • 信心には興味ないが、宗教に興味があり、いといろ読みたいと思っています。

    文章はやさしいのですが、内容はかなり難しかった。

  • 青空文庫となっており、Kindleで無料で読めるのが素晴らしい。戦後すぐの本であることを感じさせない面白さ。さらに、ラジオの内容をまとめたものなので、想像以上に読みやすい。でも、理解できないところも多かったので、また読み返したい。般若心経を覚えようと思いたち、意味から入るタイプの自分には丁度良かった。

  • 青空文庫で無料なので読んでみたけど、難しくて自分にはまだ早い。。。

  • 般若心経は、昔から慣れ親しんでいるが、その内容をより理解したいと思い、購読。般若心経でもっとも必要なのが、「空」の概念であり、物事への固執を捨てることが、極楽へいく方法と解釈しているが、本当にこれであっているか疑問が残り、難解な書籍であった。再度、復習も兼ねて読み直したい。

  • なんとなく行き詰まりを感じるときにおさらいのつもりで一気読み。
    東西の哲学の例示および、俳句や和歌などの日本人の感覚に訴える言い換えの妙がよかった。仏教の予備知識がなくてもニュアンスが解るように書かれていると思う。学術的解釈の要素もありながらも、宗教として、実践としての仏教を伝えようというスタンスが知識欲で読んでいた自分の心を、今日を豊かに生きる次元へ連れていってくれたと思う。Kindle無料、素晴らしい。

  • 般若心経講義

    色即是空空即是色
    因果ではなく。
    因縁、厳しい修行、俗世から離れることだけが悟りの道ではない。

    われわれ凡夫の智慧をば仏の智慧と区別して、単に識といっております。 愚痴と智慧 その識とはつまり迷いの智慧のことです。愚痴という智慧が、この識です。愚痴の痴は疒に知という字ですから、つまり智慧が病気にかかっているわけです。したがって、それはもちろんほんとうの智慧ではありませぬ。いったいものの道理を、真に辨えないから、いろんな悶え、悩み、すなわち煩悩が出てくるのですが、愚痴は、つまりものの道理をハッキリ知らないから起こるのです。で、人間が仏陀になることを、識を転じて智を得る

    普遍妥当性と思惟必然性とをもったものが真理です。

    つまらぬというのは、ものがつまらぬとか、話がつまらぬというのではなくて、つまり、おのれの智慧袋が小さいからなのです。一たび般若という、大きい智慧によって観照するならば、つまらぬどころか、いずれもみな貴い真理の表われです。

    ロングフェローの「建築師」という詩の中にこんな言葉があります。 世の中に、無用のものや、卑しいものは、一つもない。 すべてのものは、適所におかれたならば、最上のものとなり、 ほとんど無用のごとく見えるものでも、 他のものに力を与えるとともに、その支えともなる。 私たちの建築に供給するために、時の中には、材料がいっぱいになっている。 私たちのもつ今日や明日は、 私たちの建築の有力な材料である。 と。たしかに味わうべき言葉だと思います。

    般若の智慧によるならば、世の中のもの、皆すべてつまらぬものはないのです。いやすべては互いに裏となり表となり、陰となり、陽となって生かし、生かされつつある貴い存在なのです。まことに、「つまらぬというは小さき智慧袋」です。私どもは、少なくとも私どもがお互いに誰でもが持っている霊性、すなわちこの般若の智慧を磨くことによって、一切のものの生命を、より尊く、よりりっぱに活かしてゆかねばうそだと思います。

    西洋の学問の目的は知るということが主眼ですが、東洋の学問の理想は行なうことが重点です。

    六度の行を実践されたことにほかならぬのです。六度とは六波羅蜜のことで、布施(ほどこし)と持戒(いましめ)と忍辱(しのび)と精進(はげみ)と禅定(おちつき)と般若(ちえ)でありますが、まえの五つは正しい実践であり、般若は正しい認識であります。

    聞慧と思慧と修慧との三慧がそれです。すなわち第一に聞慧というのは、耳から聞いた智慧です。きき嚙りの智慧です。智慧には違いありませんが、ほんとうの智慧とはいえません。次に思慧とは、思い考えた智慧です。耳に聞いた智慧を、もう一度、心で思い直し、考え直した智慧です。思索して得た智慧です。すでにいったごとく、カントは、教えている学生にむかって、つねに哲学することの必要を叫びました。「諸君は哲学を学ぶより、哲学することを学べ。私は諸君に哲学を教えんとするのではない。哲学することを教えるのだ」 といったと、伝えておりますが、そのいわゆる哲学することによって得た智慧が、この思慧に当たると思います。だから思慧は哲学の領分です。次に修慧とは、実践によって把握せられた智慧です。自ら行ずることによって得た智慧です。したがってそれは宗教の領分です。語るよりも歩むというのがそれです。その昔、覚鑁上人(興教大師)は、「もし自分のいうことが、うそいつわりだと、思うならば、自ら修して知れ」 といっていますが、その修するというのが、この修慧です。だから三慧のうちで、この修慧がいちばんほんとうの智慧です。

    五蘊 色 受想行識 感情、知覚、意志、意識

    詩人ゲーテです。一プラス一、それは「公開せる秘密」だといっているのです。私どもは、ただそれを神秘的直観、宗教的直観によってのみ、知ることができるといっているのですが、公開せる秘密とは、まことにうまいことをいったものです。宗教的直観によるのだという語は、ほんとうに味のある、意味ふかい言葉だと存じます。いったい、私どもお互い人間のもつ、言葉や思想というものは、完全のようで実は不完全なものです。思うこと、いいたいこと、それはなかなか思うように話すことができないものです。最も悲しい世界、最も嬉しい境地というものは、とうていありのままに、筆や口に、表現できるものではありません。イヤ、筆にはまだ、どうとも書けましょうが、言葉では、とても思いのままを、率直に、他人につたえることはできないのです。

    文殊と維摩の問答 ところで、これについて想い起こすことは、あの『維摩経』にある維摩居士と文殊菩薩との問答です。あるとき、維摩が文殊に対して、不二の法門、すなわち真理とはどんなものか、と質問したのです。その時、文殊菩薩は、こう答えています。「不二の法門は、私どもの言葉では、説くことも、語ることもできないものです。真理は一切のわれわれの言葉を超越しています」 そこで今度は、反対に文殊菩薩が、維摩居士に同じく、不二の法門とはなんぞや? と反問しました。すると、維摩はただ黙って、何も答えなかったというのです。「時に維摩、黙然として、言無し」 と、『維摩経』に書いておりますが、黙然無言の一句こそ、実に文殊への最も明快な答えだったのです。さすがは智慧の文殊です。「善いかな、善い哉、乃至、文字語言あることなし。これ真に不二の法門に入る」 とて、かえって維摩の「黙」を歎称しているのです。古来、「維摩の一黙、声雷のごとし」といっておりますが、この黙の一字こそ、非常に考えさせられる言葉だとおもいます。

    「因縁生起」ということで、つまり、因縁とは、「因」と「縁」と「果」の関係をいった言葉で、因縁のことをまた「縁起」とも申します。すなわち、「因」とは原因のこと、結果に対する直接の力です。「縁」とは因を扶けて、結果を生ぜしめる間接の力です。


    「色即チ是レ空と見れば、大智を成じ、空即チ是レ色と見れば、大悲を成ず」

    空観より空行へ、因縁観より因縁行へ、そこに哲学として仏教宗教としての仏教の立場があるのです。

    「根」と「境」と「識」との三つの和合によって生ずるものでありまして、「識」とは認識の主体で、心のことであり、「根」はその識の所依、よりどころ、「境」はつまり所縁、すなわち心によって認識せられる対象であるわけです。しかも私どもの認識を離れて、一切万物は存在しませぬから、『心経』の本文に、「眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなく、眼界もなく、乃至意識界もなし」 といっているのは、結局「一切は皆空なり」ということを、くわしく分析して説明したものです。

    「六根」と「六境」と「六識」

    「万物流転」と「相互依存」

    自分独りの自分ではない。私独りの私ではない。すべてのものによって養われている私、一切のものによって生かされている自分を、ほんとうに心から知った時、私どもは、そこにしみじみと、今さらながら、恩すなわちおかげさまということを感ずるのであります。ありがたい、もったいない、すまない、という感謝報恩の心は、湧然として、ほとばしり出るのです。

    私どもは、般若の「空」がもっているほんとうのもち味をかみしめつつ、いたずらにくよくよせずして、ゆったりと落ちついた気分で、お互いの人生を、社会を、広く、深く、味わってゆきたいものです。

    「なにゆえに宗教が必要なのだ」という質問は、つまりなにゆえに、「われらは生きねばならぬか」という質問と同一です。宗教の必要を認めない人は、人間として生きる権利を抛棄した人です。人間としての、尊き矜持は「生きる」ということを、考えるところにあるのです。しかも、一度でも「いかに生くべきか」ということを、真剣に考えたとき、それはもはやすでに「宗教の世界」にタッチしているのです。宗教に入っているのです。いや、宗教を離れては、どうしても「生きる」ということのほんとうの意味を、把むことはできないのです。

    仏教では、私どもの生活は、この現在の一世だけではなく、過去と、現在と、未来との三世に亙って、持続するというのです。「三世輪」というのはそれです。ところがその生活の過程は、結局、惑と、業と、苦の関係だというのです。いわゆる「惑業苦の三道」というのはそれです。いうまでもなく惑とは、「迷惑」と熟するその惑で、無明、すなわち無知です。智慧が病にかかっている愚痴です。ものの道理をハッキリ知らないから、惑が起こるのです。無知の迷いが生ずるのです。

    やっぱり生は嬉しく、死は悲しいのです。それでよいのです。ほんとうにそれでよいのです。問題は囚われないことです。執着しないことです。あきらめることです。因縁と観ずることです。
    泣くも自分、笑うも自分です。悩むも、悦ぶも心一つです。この心をほかにして、この自分をのけものにして、どこにさとりの世界を求めてゆくのでしょうか。求めた自分は、求められた自分なのです。求めた心は、求められた心なのです。

    一心に迷うて、あくまで小さい自我に固執するならば、現実の世界は、畢竟苦の牢獄です。しかし、一たび、心眼を開いて、因縁の真理に徹し、無我の天地に参ずるならば、厭うべき煩悩もなければ、捨てるべき無明もありませぬ。「渋柿の渋がそのまま甘味かな」です。渋柿の渋こそ、そのまま甘味のもとです。渋柿を離れて、どこに甘柿がありましょうか。

    「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、現在の因を見よ」

    「いかほどの苦しみにても、一日と思えば堪え易し。楽しみもまた一日と思えば、ふけることもあるまじ。親に孝行せぬも、長いと思う故なり。一日一日と思えば、理窟はあるまじ。一日一日とつもれば、百年も千年もつとめ易し。一生と思うからに大そうなり。一生とは長いことと思えども、後のことやら、知る人あるまじ。死を限りと思えば、一生にはたされ易し。一大事と申すは、今日、只今の心なり。それをおろそかにして、翌日あることなし。凡ての人に遠きことを思えば、謀ることあれど、『的面の今』を失うに心つかず」

    一大事とは、実に今日只今の心です。今日只今の心こそ、まさしく一大事です。ゆえに、今日をただ今日としてみる人は、真に今日を知らざる人です。今日の一日を「永遠なる今日」としてみる人こそ、真に今日を知れる人です。刹那に永遠を把む人です。

    冷たい白眼をもって、いたずらに人生を批判する人ではなくて、暖かい青眼をもって人生を享受する人です。空に徹した、あの観自在菩薩の世界には捨つべき煩悩もなく、とるべき菩提もありません。したがって厭うべき娑婆もなければ、往くべき浄土もありません。娑婆即寂光、娑婆こそそのまま浄土です。「無明なく、無明の尽くることなく、老死なく、老死の尽くること」もありません。生死涅槃は、畢竟昨日の夢です。煩悩はそのまま菩提です。生死は即ち涅槃です。しかも「永遠に立脚して、刹那に努力する人」こそ、はじめてかかる境地を、ほんとうに味わうことができるのであります。

    「人生は不満と退屈との間を動揺する時計の振子だ」ショウペンハウエル

    マルクスのいう現実の苦というのは、無産者だけの苦です。プロレタリヤだけの生活苦です。

    『譬喩経』のなかにある「黒白二鼠」の譬喩です。それは非常に面白い、いや深刻な譬喩で、ロシヤの文豪トルストイも、スッカリ感激したきわめて意味ふかい話です。それはこうです。

    「涅槃へ行くには二つの偏った道を避けねばならぬ。その一つは快楽に耽溺する道であり、他の一つは苦行に没頭する道である。この苦楽の二辺を離れた中道こそ、実に涅槃へ至る正しい道である」(転法輪経)


    因縁を行ずるとは、因縁を生かしてゆくことです。「さとりへの道は自覚と努力なり、これより外に妙法なし」

    「因縁を生かす」とは、私どもの一生を尊く生きることです。一日一日を、その日その日を「永遠の一日」として暮らしてゆくことです。ああしておけばよかった、こうしておけばよかったというような、後悔の連続する日暮らしであってはなりません。日々の別れであるその一日をりっぱに無駄のないように生かしてゆくことです。

    「分」に安んじて、その分をりっぱに生かすことによって、とうとう一介の草履とりだった藤吉郎は、天下の太閤秀吉とまでなったのです。あることをあるべきようにする。それ以外には立身出世の秘訣はないのです。五代目菊五郎が、「ぶらずに、らしゅうせよ」

    なんの役にもたたないものを「塵芥」といいます。だが、もし塵芥といわれる、その塵がなかったとしたらどうでしょうか。あの美しい朝ぼらけの大空のかがやき、金色燦然たるあの夕やけの空の景色、いったいそれはどうして起こるのでしょうか。

    しゅりはんどく  浄土真宗に通ずる気がする。
    周利槃特は、ついに自分の心の垢、こころの塵を除くことができました。煩悩の塵埃を、スッカリ掃除することができました。そして終には「神通説法第一の阿羅漢」

    叡智 無我
    「愚」がほしいのです、「鈍」が必要です。

    何も彼も、ことごとく「損得」の打算、すなわち「有所得」の心持で動かずに、時には打算を超えた「無所得」の心持になりたいものです。

    「衆生の疾いは、煩悩より生じ、菩薩の疾いは、大悲より発る」と『維摩経』に書いてありますが、そうした「大悲の疾い」をもっているのが、とりも直さず菩薩です。利己的な煩悩の疾いと、利他的な大悲の疾い、

    「生死に住せず、涅槃に住せず」という意味がこの「究竟涅槃」です。「菩薩は智慧を以ての故に、生死に住せず、慈悲を以ての故に、涅槃に住せず」

    立ちならぶ仏の像いま見ればみな苦しみに耐えしみすがた


    所詮、私は私です。私の用事は、この私が自分でやらねばなりません。私以外に、誰がこの私の仕事をやってくれるものがありましょう? だから、私どもは、なにも他人の仕事を羨む必要はないのです。他人は他人です。私は私の本分を尽くすうちに、満足を見出してゆくべきです。

    「長寿の秘訣」すなわち長生の方法について、こんな事をいっています。「人は長生きせんと思えば、噓をいうべからず。噓は心をつかいて、少しの事にも心を労せり。人は心気だに労せざれば、命ながき事、疑うべからず」
    「無病第一の利、知足第一の富、善友第一の親、涅槃第一の楽」

    宗論はどちら負けても釈迦の恥


    「浜までは海女も簑きる時雨かな」です。私はこの一句を口ずさむごとに、そこにいい知れぬ深い宗教味を感じるのです。俳句の道からいえば、古今の名吟とまではゆかないでしょうが、宗教的立場から見れば、きわめて宗教味ゆたかな含蓄のある名吟です。やがては濡れる海女さえも、浜までは時雨を厭うて簑をきる、この海女の優にやさしい風情こそ、教えらるべき多くのものがあります。それはちょうど、ほんとうに人生をあきらめ悟った人たちが、うき世の中を見捨てずに、ながい目でもって、人生を熱愛してゆくその心持にも似ているのです。一切空だと悟ったところで、空はそのまま色に即した空であるかぎり、煩わしいから、厭になった、嫌いになった、つまらなくなったとて、うき世を見限ってよいものでしょうか。まことに「浜までは」です。けだし「浜までは」の覚悟のできない人こそ、まだほんとうに空を悟った人とはいえないのです。

    まことに、昨日の発句は、きょうの辞世、今日の発句こそ、明日の辞世である。生涯いいすてし句、ことごとくみな辞世であるといった芭蕉の心境こそ、私どもの学ぶべき多くのものがあります。こうなるともはや改めて「遺言状」を認めておく必要は少しもないわけです。 私どもは、とかく「明日あり」という、その心持にひかれて、つい「今日の一日」を空しく過ごすことがあります。いや、それが多いのです。「来年は来年はとて暮れにけり」とは、単なる俳人の感慨ではありません。少なくとも私どものもつ一日こそ、永遠に戻り来らざる一日です。永遠の一日です。永遠なる今日です。「一期一会」の信念に生くる人こそ、真に空に徹した人であります。

  • 欲望は歓楽の根源であるが、執着は苦の原因であると。前者が無ければ世の中は無味乾燥なものになるだろうし、我執に傾斜すれば世間は醜いものになるだろう。前者を正確に掴み損ねているのが多くの問題では。後腐れなくギラギラできれば、それは美しい姿ではないか。

  • 思うところあって、般若心経の事が知りたくなり読んでみた。
    戦後間も無い頃に初版が出版されているが、古さはほとんど感じない。
    般若心経を細かく分けて、一つずつ丁寧に解説されている点がわかりやすくて良かった。
    また、仏教だけでなく他宗教や俳句・川柳、小説など様々な例を織り交ぜているので、多少難解なところがあっても理解しやすい。

    生き方の指針として、自分がどうあるべきか、自分の心とどう向き合うべきかを見つめ直すきっかけになった。
    年を重ねてからもう一度読んでみたい。

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著者プロフィール

1894年~1948年。愛知県出身。
真言宗智山派僧侶であり、仏教学者でもある。
智山勧学院大学卒業後、内地留学生として大谷大学、奈良東大寺に学ぶ。大谷大学では西田幾多郎に師事しており、宗教学に加え哲学分野への造詣も深い。
1934年には、東京放送局より「般若心経講義」を放送し、人気を博す。一方で、友松円諦と共に「真理運動」の中心的存在となり、
月刊誌「真理」への執筆や講演など、精力的に啓蒙運動を展開した。
著書に「密教概論」「弘法」「空海と最澄」「父母恩重経講話」「仏教概論」などがある。

「2014年 『般若心経講義』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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