大阪を歩く [Kindle]

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  • 2012年10月1日発売
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  • 大阪生まれの筆者、昭和一桁の時代に東京大阪を必ず飛行機で往復していたらしい。価格は当時の値段で片道30円、今の価値でいうと、7万5000円くらい。でも当時の感覚では、かなり贅沢な乗り物だったようだ。

    「飛行機は、二時間半でくる。十一時に宿へ着くと、すぐ湯に入って、私は原稿を書けるし本を読める。恋人にも会えるし、そうした時間の利用に、超特急よりも夜行列車よりも経済的である」

    搭乗実績も日本でトップだったらしく、この様な合理的な考え方は当時はかなり斬新だったようである。そんな筆者は当時の大阪をどのようにとらえていたんだろうか?

    梅田駅前は三流都市の下品さ、とこきおろす。大阪の文化は、過去と歴史に胡坐をかいて研究と進歩をしない。いや、もはや文化とすらいえない、と言い切る。

    料理も商人も女も、外のものを取り入れて工夫することがない。“大阪”という土地に矜持をし過ぎており、プライドが高すぎる。その割に、実は中身も薄いという。

    昭和一桁といえば、大大阪時代。大阪が東京をも凌駕する都市に成長を遂げた時期だ。でもそんな筆者にかかれば、大大阪もコテンパンに扱き下ろされたもんだ。

    「つまり、ハイカラなものは、大阪より東京に多いということで、極つまらないことであるが、これをつまらそうと思うと、私は大阪生まれの文化的職業家の一人として、一つ言いたいことがある。それは大阪科学研究所の設立である」

    筆者は、大阪が本当に東京を凌駕するには、常に新しいものを取り入れ、創意工夫をすることが肝要と考えている。そこを理解していない大阪と大阪人に対して、忸怩たる思いをもっていたのだろう。

    筆者が死去したのは1935年。まだまだ大大阪の時代だ。しかし、太平洋戦争、戦後にかけて大阪の地位はどんどん低下していく。筆者はどこまで予想していたのだろうか?戦後の大阪を見たなら、何て言っただろうか?

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著者プロフィール

1891年生まれ。1934年没。小説家、また脚本家、映画監督。早稲田大学英文科中退。 1923年『文藝春秋』の創刊に参加して文壇ゴシップ欄を担当。毒舌で話題を呼び,『由比根元大殺記』 (1929) ,『南国太平記』 (30~31) の成功で流行作家となった。32年には「ファシズム宣言」をし,国策的傾向の強い『日本の戦慄』で文壇に波紋を投じた。現在、エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称「直木賞」)は、彼に由来する。

「2017年 『南国太平記 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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