戦争責任者の問題 [Kindle]

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  • 2012年10月4日発売
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  • 戦争を煽った映画関係者を業界から追放せよという活動があった。その活動に自分の名前を使って良しとした著者。

    戦争責任は誰にあるのか。
    日本は何に熱狂し、突き進んだのか。
    覚めてしまえば、ただの夢となっていた。
    後に多くの人が『だまされていた』と言い出したのだ。

    戦争という重いテーマであるがために、誰もが言葉を曖昧にしてしまうところを、遠慮なく書かれている。
    到底、この問題は解決することは難しく、妥協も含めた方法で前進するしかないことも伝えている。

    『だまされていた』は全ての責任を逃れることとは別であり、騙されてしまう脆弱さを今一度、認識すべきである。

    最後に、著者自身も名前の使用について、『だまされていた』に近いオチを付けている。

  • 伊丹万作(1900-1946)。映画監督・脚本家・俳優・エッセイスト・挿絵画家と多才な人物である。俳優にして映画監督の故・伊丹十三、大江健三郎夫人の大江ゆかりの父でもある。
    原節子主演の『新しき土』を、アーノルト・ファンクと共同監督したことでも知られる(但し、2人は意見の相違から決裂し、ファンク版と伊丹版の2つが制作される事態となった。伊丹は本作を失敗作としていた)。
    知性派の監督と言われていたが、1938年、肺結核に倒れ、以後、8年の闘病生活を送る。病に伏してからは映画を撮ることは叶わなかった。

    本稿は戦後1年、1946年8月に雑誌『映画春秋』創刊号に掲載されたものである。
    当時、戦争責任の議論がかまびすしかった。映画界でも自由映画人連盟という団体が責任者を追及し、これを追放しようとする動きに出る。伊丹はこの団体に名を連ねており、追放運動の主唱者の1人とされていた。実際、この運動についてどう思うのかを問われることがあったため、それに答える形の文書である。

    追放運動自体に関しては、伊丹としては、連盟が文化活動の団体と聞いて、名前を使ってもよいと許可したが、こうした政治的運動について承認した覚えはない、したがって除名してもらいたい、というのが結論になる。
    だが、本稿の主題は前段の「戦争責任」についての伊丹の考えを述べた部分にある。

    そも、戦争責任とはなんであるか。
    戦争が終わり、誰もが「だまされていた」という。「だまされた、だまされた」というが、「だました」というものはいない。しかし、結局のところ、国民は相互に「だまし」合い、戦争に絡めとられていったのではないか。
    仮に「だました」者がごく少数であったとしても、だまされたこと自体が罪ではないのか。
    だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。


    一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

    つまり、自らが「だまされた」ことを真に反省せずに、誰が「だました」者かを突き止め、その者を糾弾して終わりにするのでは、また同じ過ちを犯すだろう、ということだ。

    いささか理屈が走り過ぎているようにも思うのだが、根底にある痛烈な(自身にも向けられた)批判は、真摯に考える価値のあるものと思う。

    伊丹は本稿発表の翌月に逝去。

  • 「騙されやすい日本人」「騙され続ける日本人」胸にストンと落ちる本です。

  • 五分ほどで読了。題が示す通り、映画人として戦時を体験した著者の戦後責任に対する考察が述べられる。論述上の要点となるのは「(戦争発生の過程において)騙された者および騙した者」の立場的解釈であり、誰が戦争責任を負うべきかといった具体的問題には触れられない。誰もが自身に責任はなく「騙された」と感じるが、実際戦中に国民を直接的に圧迫していたのは軍や官ではなく隣人やごく平凡な人々であった。すなわち二元論的善悪の被害者と加害者が存在するのでなく、国民は相互に騙し合っていたというのが著者の主張である。また、著者は「騙されるということ自体がすでに一つの悪」とも述べている。批判を止めて思考停止に陥り、信念を放棄することーー国民が反省すべきは、プロパガンダに安易に騙された文化的無気力さ、多くの人々が騙す側の一端を担ったという事実に対する無自覚さ、戦後処理において他者に全責任を転嫁する無責任さである。無論、こうした教訓が活かされるのは戦後責任の問題に限らない。もし誰かに「騙された」と感じた経験があるのなら、一度は目を通しておきたい。

  • 戦争責任者は誰にあるかを自己の経験から振り返る。安易にだまされた、というのは責任から解放されるための方便であるという批判をしつつ、自分が戦争に加担した考え方であったことを潔く認めてもいる。現在の日本にも通じる警鐘を鳴らしてくれる文章と思う。

  • 自戒もこめて・・・

  • 伊丹万作は伊丹十三の父親である。

    映画監督として有名らしい。

    短い本である。

    でも、長ければイイというものでもない。

    短い中にも重要なことが書かれている。

    戦後、多くの日本人たちは、戦争をしたのは自分たちが騙されていたと言い訳をした。

    いまでもそう思っている人もいるかも知れない。

    万作は、「騙されているほうも悪い」という。

    騙された側にも、戦争を遂行した責任があると。

    なぜなら戦争は騙される側とセットになって初めて成り立つものだと。

    こういう主張は耳に痛い。

    騙されるのは自分で突き詰めて考えることをしないからだという。

    そういう国民は、これから何度でも騙されるという。

    そして、それは「奴隷根性」があるからだという。

    奴隷根性とは、チト厳しすぎるのではないか?

    ぼくは、根本は難しいことは頭のいい人に考えてもらうという根性だと信じている。

    だから、この国には官僚主義がはびこるのだ。

    政治家でさえ、官僚に考えてもらうのだから。

    ・・・・・・

    それにしても、騙されるほうも悪いとなると、オレオレ詐欺の被害者も悪いという人も出てくるかも知れない。

    しかし、これは(思考能力の衰えた)老人に対する犯罪だ。

    思考能力が衰えていない我々は、騙されないように自分で考える力を備えなければならない。

    ひとたび騙されると、自分が自覚していないに係わらず、他人を騙す側に回ってしまうとは重要な指摘である。

    戦争犯罪を考えるとき、必読の書である。

  • ★★★★☆

    「騙された人」ばかりで「騙した人」がいない。

    伊丹万作が名前を貸した団体が映画界の戦争責任者を追求する団体だったことから書くことになった釈明文みたいなもの。

    付き合いの多い人にありがちな、なんとなく名前を貸したら思ってもみないくらい政治的な活動をする団体で困ったなぁという感じ。

    そこでただ転ばないのはさすが伊丹万作で、せっかくだからと考えてみたら、うん?おかしいぞ、となる。

    騙されたという人ばかりで騙した人に会ったためしがない。

    むしろ、日本人全体で騙し騙されの(広義の)確信犯ゲームをやっていたんじゃないか。

    以前、何かの本で、催眠術はかけている方も自己催眠状態にある、というのを読んだことがある。

    別に当時の日本が集団催眠状態にあったとか言いたいわけではなく、道徳とか倫理とかいうものも基本的には同じことなのではないだろうか。

    「道徳は共同体のご都合主義」とどこかの誰かが本に書いていたが、つまるところ「所変われば品変わる」で距離と時間を経ればコロコロ変わる頼りないものなのだ。

    それが全く不必要だなんて言うつもりはないが、その程度のものだと思って扱わないと、もやしが大木に、スローガンがドグマになってしまうことだけは忘れないようにしたい。

  • 不幸にも間違った方向に行ってしまった戦争の責任について、どこかの誰かの責任と思っている人が多いが、多くの人たちこそその責任の一端を担っている、という話。

    綾小路きみまろの毒舌漫談を誰かの話だと思って笑っているオバサンの話を思い出す。

    なお、伊丹万作は「マルサの女」などで有名な伊丹十三の父とのこと。

  • 騙されたといえば、一切の責任から解放されるものではない。

    騙されたといえば、無条件に正義派になれるわけではない。




    「不明を謝す」という言葉は、知能の不足を罪と認めること。これまで読んできた本で知っていることは、敗戦後、米軍支配時の日本国民は、手のひらを返すように、軍を非難し、戦争責任者を探し始めたということです。




    文化運動の団体に名を連ねていた著者が、その運動の実態が戦犯人探しだということが分かった時点で、書かれたエッセイです。



    実は、この「戦争責任者の問題」というエッセイは、電子書籍しかないようでしたので、伊丹万作エッセイ集 大江健三郎 編 を図書館で借りたところこのエッセイを含んでいました。このほか、戦前映画監督としてのエッセイを複数まとめられた本でした。大きな市の図書館でも、書庫から引っ張り出してくるような、すたびれた本でした。



    「不明を謝す」。知能の不足を罪と認める。何故罪になるかは、無知という知的現象が行動と結びつくと、意思や感情を圧縮したものとなるからと説明しています。戦争中は、国民同士がお互いをだましあうことで自分の安全を確保し生きてきたのだと思います。



    私は、大東亜戦争に陥った国内の主要因は2つあると考えています。憲法で定められた統帥権の不明確さにより、政府が軍を抑えれなかったことと、国民世論が戦争を煽り止められなかった風潮です(「昭和16年夏の敗戦」より)。後者の要因についての考え方を整理できるエッセイでした。



    昭和20年3月。硫黄島が落ちて本土無差別空襲が始まる頃に書かれたエッセイ、「戦争中止を望む」で著者は、無謀無計画な戦争は一旦終わらせるべきだと唱えた平和主義、戦争反対者でした。そんな世論の風潮に流されない方でさえ、国が敗れることは家族、親友、隣人を全て死に絶えることだと思っていた。当時は戦争に勝つ事しか考えていなかったと書かれています。だから自分は戦争責任がだれかという犯人をさがす気にはなれない。自分もそうだったからと。



    またエッセイの中で、封建社会も、基本的人権も、自力で打破できなかった国民というのが印象的でした。戦争の熱狂と偏見が和らいだ現代で私は生きているはずです。本当に社会に必要な製品、サービスを供給することに貢献し、正しい政治を実現するために、よりより民主政治を考え、自分の権利を守るための日本の憲法や法律を理解し、語り合うことができているのでしょうか。

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