城の崎にて・小僧の神様 (角川文庫) [Kindle]

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  • KADOKAWA
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感想・レビュー・書評

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  • 15話の短編のうち半分くらいしか理解出来なかった。これは何度か読むか解説本でも買うか。

  • 無駄な描写が一切ない、短くて平易な文章。
    なのに読むたび深く考えてしまう。
    ・・この会話、この結末にどういう意図があったのだろう?
    一つの話に何度も『寂しかった』が出てくるのはなぜなんだろう?
    すべて違う意味で『寂しかった』のだろうか?
    言葉が少ないゆえに、どういういきさつなのか詳しく知るすべもなく、深く深く文章の中に沈む感覚。
    短く平易な文章は書けても、こういう小説を書くことは絶対できないな。

  • かつて途中で放棄した名著の再読。
    ◆母の死と新しい母
    悪阻が重症化して亡くなった実母に対する寂寞感が、継母を迎え、その母に気持ちが移りゆくさまを描く。著者の環境に基づくものだから、登場する息子はお坊ちゃまであり、書生などにぞんざいな口をきく点などは著者的に違和感がないのだろう。これは続くその他の短編にも通底することなので、呑みこんでおく点だ。嫁いだあと、次々と子(弟妹)を産むが、長男との関係にはつねに軽い遠慮がある。その遠慮に気品を感じ、継母への憧憬という視点が貫かれる。
    ◆清兵衛と瓢箪
    清兵衛は子供だが、瓢箪の目利きが利く。しかし、そのこましゃくれた趣味が新任教師の逆鱗に触れ、触発された父親が息子のコレクションをたたき壊してしまう。後日、教師が取り上げた瓢箪に目をつけた用務員がこれを売却しよとしたらとんでもない高値がつけられた。瓢箪を取り上げられた清兵衛は絵画に没入するようになるが、父親はそれも気に入らない…という話だ。実生活において実業家の父親との反目が続いたことがこの短編にも反映されていると言えそうだ。
    ◆正統派
    母娘が事故に遭い、娘が死亡する。これを目撃した人夫の感情の変化を追ったものだが、社会のなあなあに憤慨しつつも、自分自身が違和感に苛まされつつ、その感情が解け出てしまう無情を描写する。しかし感情移入に至るほどではないと感じた。
    ◆小僧の神様
    一度で良いから評判の寿司を食べたくて、それよりは幾分安そうな店に入るも、握りひとつを買うこともままならず、主に諭され、屈辱のまま店を出る小僧の仙吉。たまたま店内でその一部始終を見ていたAなる男は不憫に思ったが、そのときはそれで終わった。後日、たまたま訪れた秤屋で仙吉を見つけたAは彼をさらに旨い寿司屋へ導く。女将に十分な金を渡し、好きなだけ食べさせてやってくれと言って、本人はそこで姿を消す。仙吉は、なぜ自分が寿司を食べたかったことを知っているのか? なぜ自分が食べたかった店を知っているのか驚くも、心ゆくまで寿司を堪能した。単なる偶然が、丁稚奉公の小僧(仙吉)にとっては奇跡となった体験を通じ、相手を神と思い込む流れを描く。この短編の最後に著者の別の構想が添付されている。物語に構想など雰囲気もへったくれもないだろう。これでは小説ではなく、トライアルではないか。
    ◆城之崎にて
    死を考察したエッセイで、山手線にはねられたという、今日から見るならなんともばかばかしい事故にあった筆者は、医者の勧めもあって療養のために但馬の城崎温泉で湯治をする。その地で出合ったネズミをいじめ殺す人々、なんらかの理由で死んだミツバチ、いたずらに石を投げ当たって死んだイモリ。さまざまな死を目撃しつつ、自分が電車事故で死に直面した際の感情にすり合わせようとする。結局さまざまな思いが去来するばかりで、死は近いとも遠いとも言えぬ、生半可なものとして自分の頭に住み着いたままだった、というようなエピソードだ。小説ではないが論文でもない。ものの語り口を論理的にしようとしてもエッセイなのだからそうはならない。隔靴掻痒の感がないでもない、作品に思えた。
    ◆好人物の夫婦
    夫婦の機微を描いた小編。亭主関白が日常だった時代の日本。そう言えば主とは殿様と同義であり、妻は夫に仕えるものであった。夫が帰宅すると妻は服を着替えさせてやり、一番風呂にいれ、場合によって酒を用意し、食事を出しと、家来が行うようなあれこれを行うものだった。今日の日本を、いや世界を見ると覚醒の念を抱くが、まだそれでも男性優位の社会がほとんどを占める。そんなあれこれを思い描きながらこの作品を読むと、夫婦の機微は、その具体的な中身に関して今日と何ら変わらないのかもしれない。
    ◆雨蛙
    若いきれいな妻を、自分の代理に文学者の講演会へ行かせたばかりに不倫をされてしまう。そのことは顕在的には表現されないが、事件を洗い出す古参の刑事のように、夫が紐解いていく。それは三行半を突きつけられるような罪なのだが、なぜか夫は妻を愛おしく思う。妻を迎えに行き、事情を知って沈黙をつづける2人だったが、夫は路傍で雨蛙の番(つがい)を見つける。彼はそこに自分たちを投影してみるが妻は何の関心も示さない。帰宅後、夫はため込んでいたすべての文学書と小説の手習いすべてを裏山で焼き捨てた。夫はそれを、悪事を隠すような行為と感じるというところで物語は終わる。この小編は、同じような展開の『暗夜行路』の別バージョンと言えなくもない。人と言うのは夫婦がゴールであるようでいて、たゆまぬ葛藤の上に成り立つことを伝えているという点では、心髄を突いていると言えるだろう。
    ◆焚火
    物語の導入とそれに期待する作者の意図がわからない。(恐らくはこちらの理解不足だ。)前半は田舎に小洒落た小屋を作る夫婦と、地元の大工、それにもう若い画家。4人は遊び飽きて夜の川に繰り出し舟に乗る。河原に怪しい小屋を発見して近づくが、人が住み着いていた。そのとき大工が昔体験した不思議な夢の話をする。彼は雪山で遭難しかけるが、彼の母親が夢でお告げを聞き、配下の者たちを迎えに行かせ、事なきを得る。彼の体験談はこれで終わり、夫婦は少し身震いしてそそくさと舟に戻り、帰路につく。さて、この話は何を伝えたかったのか…。
    ◆真鶴
    旅芸人の娘に一目惚れした子供が、欲しくて買った水兵帽を弟にくれてやるに至った精神の成長を、大人にかいま見た男女の世界を、旅芸人の娘から確かに感じ取り、自分が半歩大人の世界に入り込んだことを描く。悪くない構成だが、予定調和のせいで染み入るものを感じにくかった。
    ◆山科の記憶
    女を囲っていることを妻に悟られて詰られたものだから、お前だって若い医者に色目を使ったではないかと言った痴話喧嘩に、自分の立場の弱さを感じていた。結局妻の要求に従わざるを得ないというところで話は終わるが、今はもう昭和のダダイズムが通用する世界ではない。過去の作品として何かを導き出すには、令和のわれわれはあまりに価値感を変えてしまった。
    ◆痴情
    場所も設定も異なるが、ある意味で『山科の記憶』に連なる物語だろう。妻が夫の不倫に気づき、激情ゆえに身体を壊してしまう。自分の不義を、妻の強情さや強情を張るときの醜さに転訛しようとするが、内面の弱みに勝てず、狂う手前まで行ってしまった妻に対して白旗を揚げるという物語だ。『山科…』と同じく、価値感の違いが、共感をほど遠いものにしている。…とは言え、無頼派の作品を読みながら四季をくぐれば、いつしか共感を持つと言えなくもない。もちろん、単なる妄想ではある。
    ◆瑣事
    女を作った男が、間を空けず会いたいと思い、女郎宿を訪れる。女がそこにいなかったにも関わらず、そこの女将との会話で何かが腑に落ち、会いたいという気持ちが剥落する。自宅へ戻る途中、道の向こうから別の男と二人連れの女を見つけるものの、最早気持ちはなく、加えて、あるいはそれゆえ、思っていた以上に醜く見えたことに男は内心驚く。自分の心が解き放たれたことを知り、気づかぬままの女とすれ違う。これもまた男と女の物語だ。どの話も昭和のダンディズムという名の勝手な価値感が独り歩く。昭和の時代に本書を読んでも違和感はあっただろうが、今日的には最早遠い価値感となってしまったことに嘆息するばかりだ。
    ◆濠端の住まい
    都会の喧噪をひととき逃れ、自然のなかで暮らすことに一服の幸せを感じる作家の主人公は、やがて隣家の鶏一家に興味を持つ。その振る舞いは人間とほとんど変わることはなかった。あるとき親鶏が野良猫に殺されてしまう。怒った家主は猫を捕らえて殺してしまうのだが、それを当然と思っている自分と、可哀想だと思う自分の気持ちの落ち着き処を探す物語だ。何事に関しても責任というものと一線を画す男や特権階級の権利意識をここでも感じるが、それでも人間社会よりは淘汰された雰囲気が漂うことは確かだ。
    ◆転生
    気の利かない妻に小言を言いつづける夫。来世でオシドリになると約束したにもかかわらず、狐となってしまった妻に小言を言いつづける。妻狐はうるさい鴛鴦を一呑みにしてしまう。これは夫婦の教訓なのだろうか。婦人公論のような啓蒙作品のように見えなくもない。
    ◆プラトニック・ラヴ
    理想の間柄とほくそ笑んでいた私と廓の女。控えていた女の番号に連絡を入れ、名を告げるが、思い当たる者はいないという素っ気ない返事。質問を繰り返すうちに相手は苛立ちを強めるが、そのとき私は、電話口の彼女こそ当人であることに気づく。しかしそれで十分だった。あまりに空虚なプラトニック・ラヴの中身に苦笑して、私は受話器を置いた。これはたまたま自分の体験や読書歴にないからというだけの理由かもしれないが、なかなかに良かった。この手の小洒落た語り落ちは今の世にも十分通ずるだろう。
    ◇総評
    現代の日本人は諸外国と比べるならまだまだ曖昧な感情表現をするが、かつて昭和の時代にはさらに繊細な、あるいは曖昧な感情表現をしていた。(*作品自体はすべて大正期に書かれたものだ。)相手に忖度をし、会話以前の段階で人と人との繋がりが保たれていた。志賀直哉の小説は、そのような背景の下に読むべき作品だということを改めて知らされた。確かに今の世では打ち棄てられた生き様だが、ここから拾い出すあれこれがあっても良いと、改めて思った。

  • 夏目漱石の門下生で、
    「暗夜行路」「小僧の神様」「城の崎にて」
    などで有名な志賀直哉。

    "小説の神様"と称されるきっかけとなった
    「小僧の神様」を読んでみたくなり、
    本作を手に取りました。

    本作では志賀直哉第二期となる
    大正6年から15年までの18作品を楽しむことができます。

    私にとって初の志賀直哉作品。
    彼の文章は心に思ったそのままといった感じで、
    漱石が
    「文章を書こうと思わずに、思うままに書いているからああいう風に書けるんだろう」
    と語ったそうですが、まさにその表現通りの文章で
    綴られています。
    内容も彼の体験を生かした話が多く、
    彼の人柄や思考を色濃く感じることができます。

    読みたかった「小僧の神様」のラストには
    かなり驚きましたが、
    ユーモラスで大胆なその締めくくりは流石でした。

  • 城崎温泉での火事のニュースを見た後に妙に気になって電子書籍にて購入。元祖ブログような気がする短編もいくつか。

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著者プロフィール

志賀直哉

一八八三(明治一六)- 一九七一(昭和四六)年。学習院高等科卒業、東京帝国大学国文科中退。白樺派を代表する作家。「小説の神様」と称され多くの作家に影響を与えた。四九(昭和二四)年、文化勲章受章。主な作品に『暗夜行路』『城の崎にて』『和解』ほか。

「2021年 『日曜日/蜻蛉 生きものと子どもの小品集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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