くびかざり モーパッサン短編集 [Kindle]

  • グーテンベルク21
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  • Kindle Unlimitedで読了

    読みだしたら止まらない本というのがある。モーパッサンの作品というのも、そうだと思う。この表題作『くびかざり』も、私にとっては、中学生の頃からの宿題のような本だった。当時、文庫本の目録を読むのが、すごく好きだった。中学1年で『女の一生』新潮文庫版を夢中で読んで、その後目録の中から、この作品を見つけ、あらすじを知って、実際にこんなことがあったら、自分はどうするだろう。どんなに深い失意に陥るだろうと、想いを馳せた。

    若く美しい小役人の妻が、自らの質素な生活に飽き足らず、悶々と日々を送っている。ある日、夫が貴顕紳士の集まる夜会へ、妻を伴った。そう、気晴らしになればと。ない金をかき集め、妻に服を誂えて。しかし、今度はそれに合う首飾りがない。友人からダイヤの首飾りを借りた妻は、夢のような一夜を過ごす。しかし、その夢も、首飾りをなくしたと気づくまでのもの。夫婦はすべての幸福を捨てて、首飾りの弁償に生涯を捧げた。無事に返し終わった頃、妻はもう夢を生きる女ではなくなった。押し寄せる現実。だが、その首飾りは、実は…。

    あらすじを書けば、ほんの短い掌編である。でも、なんと目の離せぬ小説であろう。妻の虚栄心が悪いのだ、と、あらすじしか知らぬ子供の頃は思っていた。けれど、大人になってみれば、周りの幸福と、自分の失ったものばかりが目に入る。こんなに頑張っても、閉塞感があり、ちっとも自分は輝いていない。そんな焦りに襲われる時がある。たまに出かける時くらい、素敵でいたい。この妻の気持ちも、わかるのだ。誰しも、周囲の視線からは逃れられても、自分の視線からは逃れられない。自分の視線と他の人の視線がぶつかった時。それが問題だ。たいていは気を取り直し、手の中の幸福を数えて笑顔を作って、またやり直す。

    でも、それが何かで綻んだら?ほんの小さな分岐点で、誰にも起こりうるような事件をきっかけに、人生の風景が変わってしまう。

    モーパッサンの短編は、『くびかざり』以外も、私達のよくしっている悲哀を描いている。小説というのが、誰にも起こりそうな理解できる事件を、外側から客観的に再構成して、共感させるものなのだと定義したら、彼ほどの名手は、そうといないであろう。

    私は、21世紀の人間で、ノルマンディーの人間ではなく、遠い日本で暮らしている。ダイヤを失くす心配はしても、そもそも他人様に借りるようなあてもなし。失くしてもせいぜいが自分のもので、思い出と、自分にしては高価な宝石で、買い直せなくてがっくりするだけ。高利貸しに走ることはない。ベッドで甘い紅茶を飲みながら、眠れず夢中で読んでいた傍観者だ。しかし、それでも。この夫婦の失ったものの大きさ、結末の衝撃を、私は人間である限り共有するだろう。そして、思うのだ。明日から私はどうやって生きよう。人生ってなんと度し難くて、苦しいうちにすぎるものか。

    家屋敷を上手く転がしあったつもりの、老女と小金持ちの男の顛末。死んだと思っていた夫が戻ってきて、再婚した妻と、その家族が呆然といたわりあう一幕。兄と妹と知らず、春をひさいだ女を買ってしまった男の悲しさ、苦しさ。それでも互いに生きて再会できた事への安堵。恋人の身勝手で大怪我を負い、誰にも愛されず男をかばって沈黙した老女の最期。どれも、めったにないことのようで、私達の周りにもありそうな出来事だ。

    名作にスペクタクルは、必ずしも必要ではないのかもしれない。あるのは小説という虚構の中なりの真実味と私達がずっと持ち続けている、この心というものの動き。それだけでページはめくられていくのかもしれない。過酷な現実を淡々と描くモーパッサン。どうして目を逸らせないのだろう。

    その筆致はゆるぎなくリアルで、淡々としている。でも、どこかその、苦しい人々を、温かい眼差しで見ている。突き放してはいないのだ。救いはそこになくとも、自分にも起こりうることとして見つめている。そして、私たちは知るのだ。

    明日も、明後日も。自分の時計が止まるまで、懸命に生きるしかないことを。それは、遠い過去のフランスでも、土曜の昼下がりの日本でも、少しも変わっていない。人生を少し振り返りたくなったら、私はまたモーパッサンを読む。ほろ苦いとわかっているくせに、きっと読まずにはいられないだろう。

    中学生の私が、『くびかざり』を読みたい本に選んで、それからどれだけ経ったか。ようやく願いは叶った。まったく長い。ダイヤの返済の期間のようだ。人生をこんなに来て、やっと巡り会えた。それはまだ、間に合ったと、私は言っていいのだろうか。

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