『惡の華』Blu-ray 第一巻

監督 : 長濱博史 
出演 : 植田慎一郎  伊瀬茉莉也  日笠陽子  松崎克俊  浜添伸也 
制作 : 島村秀一  押見修造  伊丹あき  ZEXCS 
  • キングレコード (2013年8月21日発売)
3.95
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  • レビュー :6
  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988003819545

感想・レビュー・書評

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  • 備忘録に。

    終った……アニメ13話。虚脱。

    原作の(そこそこコミカルにして)切実なところを、うまくうまく切り取って、アニメ化。(ロトスコープ)
    基本的には原作通りだが、
    実写キャストも、声キャストも、演出も、作画起こしも、音楽も、すべてが相乗効果となって原作を「倍加」している。
    アニメにしてロトスコープにしてという幾重にもくるまれたなかで、「演技」の凄まじさがびんびん伝わってきた。

    13話はあんな終わりかた(?)だったが、二期、あるいは、DVD化、あるいは、ネット配信を期待して。

  • 思春期特有の精神的彷徨と自我の行方を「絶望」というテーマにそって描かれたもの。週刊少年マガジンにて原作漫画が連載された作品をアニメ化した。テレビアニメは史上初の全編ロトスコープを用いているため、原作とは違う実写タッチの絵である。

    クラスの美少女・佐伯奈々子に密かに思いを寄せる少年・春日高男。
    ある日の放課後に出来心で彼女の体操着を盗んだが、その様子はクラスの嫌われ者の少女・仲村佐和に目撃されてしまっていた。
    そのことから、契約関係を結ばされ、仲村からの無茶な要求に翻弄されていく。
    しかし、意外なきっかけで佐伯と春日は付き合うようになるが、恋心と背徳感の間で罪の意識と矛盾に苛まれる。やがて、佐伯自身も内に秘めた意思を表し始める。


    最初は独特な実写作品のような絵とエンディングに不気味さを感じ、正直『なんなんだ、これは!』と戸惑いを隠せなかった。しかし!話数を増すごとに引き込まれていくアニメだと思う。
    正直エンディング曲だけじゃなくて、オープニング曲も異彩を放ってたというか聴けば聴くほどクセになる。内容も同様に見れば見るほどその世界観にハマっていきそうなクセのある作品だと思う。
    何より、アニメ史上初の全編ロトスコープ!!
    原作と絵は違うし、本当にリアルな実写作品のような特殊な絵柄に不気味さがありつつも味があって良かったのだろう。とにかく印象深い作品で一度見たら記憶に植え付けられるようなそんな作品。
    ぜひ原作の高校編も同じように見てみたい。

  • こんな凄いアニメ・・・よく放送できたなぁ~って思います。
    これ、まじトラウマアニメになりますよ(笑)
    「惡の華」といえば、ボードレールの詩集です。私も経験ありますよ。よくわかっていないのに、「退廃的」とか「耽美的」なものに憧れた時期が。
    それにしても、このアニメは不条理青春アニメといいますか、主人公の女の子・仲村さんが凄まじすぎるんです。
    「惡の華」の詩集が好きな男子・春日くんには好きなクラスメイト・佐伯さんがいて、放課後、誰もいない教室で偶然見てしまった佐伯さんの体操着を盗んでしまいます。
    そう!惡の華が咲いた瞬間でした。
    それを仲村さんに目撃され、仲村さんの酷い仕打ちが始まるという・・・。
    1話を観た時、ただ茫然となってしまいましたよ、私(笑)
    気持ち悪いんだけど・・・観たい!と、不思議な感情に捕われました。
    しばらくの間、「クソムシ」っていう言葉も流行りましたよね。
    この作品は初めてのロトスコープ(モデルの動きをカメラで撮影し、それをトレースしてアニメーションにする手法)で製作され、画像もなんか不思議な感じがしました。
    絵も独特で、佐伯さん以外はおブスでしたね(笑)。
    あと、エンディングテーマの「花 -a last flower-」という曲にも、なんかハマっちゃいましたねぇ。これまた奇妙な感じなんですけど。
    この作品では中学編まででした。漫画では高校編まであるそうなぁ。
    秘かに、続きが観たいなぁ~と思います。
    きっと・・・仲村さんみたいな人がいつか、「人を殺してみたかった。」とか言って殺人をするんじゃないかなぁ~なんて漠然と思っちゃいましたね~。<br>
    うぅ・・☆付けが難しい(笑)。毎週ドキドキしながら楽しみにもしていたしなぁ~。きっと好きだったんだと思うので、☆4つしちゃいます!あはは

  • おもしろすぎて2日で一気に全話見てしまいました。実写をわざわざアニメーションに落とし込む、ロトスコープという珍しい技法でつくられたアニメなのですが、思春期の少年少女たちの、エグい内面を描くのにはもってこいの技法で、作品を見ながら、自分の青春時代を思い返し、胸をえぐられるような気もちになった視聴者も多いのでは。敢えて実写ではなくロトスコープで描き切ることで、実写のキャストの持つであろう、その役者の「我」が削ぎ落とされ、かといってアニメほど抽象化、記号化、見る者の都合のいいように変換されてしまうことからも遠い、ヤラセ感もなければ美化したふうもない、リアルよりリアリティのある作品に仕上がっていたと思います。無駄のないリアリティがあった、と思います。
    音楽に関しても、コテコテの4種類のOPに、不穏すぎるEDが非常に落ち着かなくてよい(笑)映像表現とも相まって、始終落ち着かない空気を味わいました。ロトスコープ部分だけでなく、風景の描写なんかも非常によかった。さびれていて、大したことがなくて、閉鎖的で、置き去りにされた感じが、すごくよく出ていました。

    主人公の春日は、自分と周囲とはどこか違う、自分を特別視する自己愛の形を持った少年で、いつもボードレールの『悪の華』を持ち歩き、中学生には難しいであろう文学を読み散らかす日々を送って、心の中では周囲を見下し、クラスのアイドル佐伯に憧れる日々を送っています。
    一方、主人公をそれこそ悪の道に引きずり込む仲村は、嘘偽りだらけの薄っぺらいコミュニケーションを取り結び、なんちゃって学園生活を謳歌する、周囲のクラスメイトに馴染めない浮いた少女。彼女は社交辞令や思ってもいない言葉、きれいごと、そんなものにまみれた学園生活に嫌気がさし、周囲とのかかわりも自分から断ち、教師にも反抗的な態度をとっていますが、あるとき佐伯の体操服を拾ってしまい、周囲にそれがバレることを恐れた春日がそのまま体操服を盗んでしまう現場を目撃したことから、春日はきっと、そんな薄っぺらいコミュニケーションを結び、上っ面の付き合いを望む男なんかではない、自分と同じくクラスでも浮いているところはあるし、きっと自分と同じ、嘘偽りのない欲望のままに生きる人間であろうと思い込み、春日がそういう人間として振る舞うよう、身勝手な要求を突き付けはじめます。
    仲村のこの言動は、中学2年という、まだ幼く自己中心的なものの見方しかできない少女であるが故の、身勝手な投影に過ぎません。自分自身が世の中を見る視点、世の中に対して取りたいアクション、そういったものを、春日に身勝手に投影して、その通りに動かなければ徹底的に春日を追い詰める、そういう、自分と他人の境界の曖昧な人の採るやり口です。そして自我のまだ弱い春日は、仲村のそんな言動に流され、共感する部分もあるとはいえ、はるかに穏やかで、ささやかな自己愛の形をしていたはずが、途方もなく挑発的、背徳的、攻撃的な行動の実行犯になっていきます。
    中学2年という幼さを考えると、べつに仲村の言動も春日の言動もおかしくはないのですが、仲村の思う、嘘偽りのないあるがままの姿というのは、一切の抑圧を放棄した欲望のことで、ふつうこんな欲望をむき出しに生きている、一切の嘘偽りを放棄した、一切のペルソナを持たない人間は生きてはいけません。仲村のあり方はその意味で、馬鹿正直だし、不可能な生き方をしようとしている。そしてそんな不可能な生き方をしているから、周囲も敵だらけに見える。春日はもう少し大人なので、そうやって、人間が覆い隠している欲望をこそ真実だと思い込んでいる仲村に歩み寄りを見せますが、正直に言うと、そうやって春日がつきあってやろうがやるまいが、仲村が大人になるのを待つしか対処法はないように思うのですよね。
    春日のつきあうことになるクラスのアイドル佐伯は優等生でいる自分に違和感と少しの疲労を覚える穏やかな少女。ただ、仲村に負けず劣らず、物事の本質をしっかりと見据えているたちで、仲村が本質を欲望とみなして、過度に欲望にこだわるのとは対照的に、欲望もあってよい、けれど欲望を抑え込もうとする部分だって真実で、人の本質である、という立場に立っています。それが、「私の本質を見てくれた春日君なら、私の体操着を盗んだって、私の体操着を着ていたって、私を好きだということだからうれしい」という言葉で春日を許そうとするくだりに現れています。仲村が欲望とセットで自他の破滅を想定しているのに対し、佐伯は欲望と調和的なあり方とをセットにしている。自他の殻を破壊して欲望が現れるというイメージを持つ仲村に対し、欲望と規律との調和的なあり方、相互を行き来するようなあり方を佐伯は想定しているのですね。そして最終的にどちらも選べない春日は、それでも、仲村のほうを選んでしまう。その理由が、ひとりでも大丈夫な佐伯に対して、仲村は大丈夫じゃないから。
    佐伯は本当の自分を見てくれた春日を好きと言いますが、それはひとえに、仲村というクラスのお荷物を、自分が不利になるのも構わずにかばった瞬間を見ていたことに起因しています。仲村の本質を見ていたという点で、仲村を仲間として受け入れたいと好意的に見ていた、仲村に対する偏見のなかった自分の視点と、重なる部分があったと思ったからです。そういう意味では、仲村も佐伯も、自分と重なる部分があったから、春日を好きになっている。そしてそんな春日が好きというなら、きっと春日は自分の中身をしっかり見てくれているのに違いない。佐伯はそう信じて、度重なる仲村エスコートの春日の残念な行動を許し、理解し、受け入れようとします。ところが終盤になるにつれ、春日は佐伯の本質を見ておらず、イメージの中の佐伯を汚すことに抵抗を覚え、イメージの中の佐伯だけを大事にしたいから、現実の佐伯には逃げ腰になっていることに気づかされ、失望します。佐伯だって、ひとりで大丈夫かと言われれば、大丈夫じゃないかもしれない。佐伯が一人で大丈夫だと思い込んでいる春日は間違っていて、本当は、仲村よりもまずいかもしれない。でも春日はそんな佐伯には自分がいなくても大丈夫と思い込み、仲村を選びます。仲村が春日に目を付けたところから連鎖的に、春日と佐伯の人生が壊されていくわけです。

    感想としては、仲村のような思考回路に覚えがあるだけに、共感もできるけれど、周囲には、仲村と同じように思っていたとしても、それをおくびにも出さず、周囲を利用して生きているしたたかな連中だって多かっただろうし、誰もかれもが委縮して同調圧力に屈しているわけでも、何も考えず上っ面のことしか見ていないわけでも、なんでもないんだよ、と思います。意外と多彩な反応がそこにはあるのだけれど、表からは見えないから、つい、欲望重視のものの考え方になっちゃうんだよね、周囲が薄っぺらいきれいごとばかり並べているように思うんだよね、という。しかし仲村の行動はやっぱり常軌を逸していますよね。自分でやれよ、という話なのですよ。教室を荒らしたければ、春日を通してやるのではなくて、そうやって卑怯な手段で孤独を埋めようとするのではなくて、孤独なまま、自分ひとりでやれよ、と。そういう意味で、春日を使うばかりの仲村はやっぱり卑怯で、自分の手を汚す覚悟もないのなら、いままでどおり、クラス内でひとり引きこもっていろよ、と思ってしまう。だのに春日も甘やかす。仲村の孤独はああやって埋めてもらっていたのではますます悪化するし、仲村が大人になるのも遅れてしまう気がするのですけど、どうでしょう。自分で暴れる勇気もなければ、他人の恋愛をいじって、他人を通して自分の見たいものを見ようとする、陰に隠れた卑怯者、そんなふうに思います。

    大人はこんな子供時代のことを忘れておとなになっているのではなくて、そんなに欲望ばかりを本質と捉えて生きていくのは、むしろ人間の自然な生き方から遠いというのをわかってしまうから、いくつもの顔を持っているのですけど、仲村はまだ幼いからそれがわからない。ときどき、大人でも仲村のような人を見ますが、自分以外の視点というのを総じて持てない。仲村にもいつか、バランスのとれたものの見方ができる人間になってほしい。

    仲村にきつめのコメントを書きましたが、私は仲村、わりと好きです。佐伯は素直に尊敬しますし、春日はシバきたくなります(笑)
    非情に面白い作品だと思うのですが、原作はふつうにふつうの漫画的な絵柄なので、仲村のキャラクターのエグさが中和されている気もしてしまい、仲村という少女の描写に関しては、アニメのほうがよかった気もしなくもありません。
    ただ、原作は未読ですので、また機会が会ったら是非手を出してみたいところ。

    ▼以下、視聴中につけていたメモ。メモであるがゆえに、まったくまとまっておらず、この上に書いた感想が出来上がるまでの下書きのようなものです。

    1話:
    まずあの実写をアニメにする必要があったのか小一時間考えてみたのですけど、実写だったら間の持たせ方が長すぎて、退屈した気がしないでもない。ぎこちない実写風アニメだったからこそ、あの淡々と描写される風景、ゆっくりと流れる時間、音のない空白、というものに価値を感じられたのでは、と思うと、実写での間の取り方と、アニメでの間の取り方というのはすこし違うのかもしれませんね。原作はふつうに漫画らしい漫画の絵なので、ふつうにアニメ化されたのでは、仲村のもつ雰囲気というのも、もしかすると、中二病こじらせ系の二次元的萌えキャラ感があったかもしれない、と思うと、この実写風アニメはかなりの功績があるように思えるのですけど、実写と実写風アニメの間で私の判断は揺れ動いています。実写だとチープ感があったかもしれない、とは思うのですが、カメラワーク自体は、ちょっとチープな実写とアニメ的描写との間を揺れ動くかんじのカメラワークだったと思いますし、むしろ生で役者に演技をやらせた際の、その役者本人のキャラクター解釈や性格が読み取れてしまい興が削がれる、という欠点を、アニメにしてしまうと役者自身のもつそういう無駄を削ぎ落とすことができる=よりそのキャラクターがどういった人物なのか、その本質と、そのキャラクターを現実に落とし込んだらどうなるのか、そのリアリティとを無駄なく描写できた、という点では、実写風アニメという方法の功績は大きいと思います。なんていうんでしょう、無駄のないリアリティ、としか言いようがない。
    話の内容に関して言いますと、私はボードレールを大学時代にブン投げた口ですので(詩はいまいち具体性がなくて苦手なのです)、詩と現実の風景とを結び付けて描写できる作者さんの感性に敬服しています。中学生の読む詩としてボードレールを出していること自体、なんというか、早熟な感性をお持ちですよね。大人になったってさっぱり良さがわからない人間もいるというのに(笑)

    2-3話:
    仲村も大概だけどクラスメイトも大概だなあ……
    仲村のあれは、性欲と周囲への違和感、自分への違和感がいっしょくたになった、かなりたちの悪い親しみの表現だろうけど、クラスメイトの仲村への視線と、仲村に属するものをなぶるようなあの態度も大概おぞましいよね……
    私はクラスの中でポジション的には仲村、でも態度はあそこまでキレてなかった、という立場だったと思うので、仲村のクラスメイトへの投げやりな態度には理解が及ぶのですが、「隅で本でも読んでろよ」とか「仲村と付き合っているあいつはヤバい」とか、ああいう態度には割と憎しみがわく(笑)でも大多数の人間はクラスメイトのああいう態度を、苦虫をかみつぶしたような顔で、ああやっちゃうやっちゃう、俺ああいう態度とっちゃう、と思いながら見るのでしょうね。逆に仲村は理解不能で気持ちの悪い存在として認識するのでしょう。
    ちなみにあの頃って、承認欲求が性欲とダイレクトに結びついていたりもするよね。

    4話:
    仲村さんが外道過ぎてついていけない(笑)
    仲村が春日に目を付けたのはなんでなんだろうなあ。弱みを握ったから、なのはわかりますが、彼女にとってはあまりにも好都合な人間が弱みを見せたのだろうと思うなあ。そしてたぶん、春日が体操服を盗んだ状況を誤解している。好きな子の体操服だから中身を暴いたところまでは仲村の想像通りでしょうが、そこからあとは、佐伯の体操服を盗んでいる現場を見られたくないというので焦りすぎて、とっさの判断を誤った。春日はこの誤ったところに力点を置いているわけですが、仲村の中では、結局佐伯の体操服を広げた時点でアウトだし、それを腹に入れて持ち帰ろうが、暴走した性欲としてごまかしは利かないんだよ、ということになっている。でもたぶん、厳密にはここ、いっしょくたにしちゃいけない気がする。
    あと仲村のような人間が存在するのか謎なのですよね。私は完全孤立型の、いじめっ子でもいじめられっ子でもないただのメンヘラとして過ごしてきたのでいまいち共感しづらいのですが、誰かの弱みを握って特定の行動をさせることに喜びを覚えるというのが、ちょっとわからない。たとえば、弱みを握った相手に、直接自分の利益になるようなことをさせる、というのはわかる。現金持って来いよ、とかそういうの。でも、相手が自分の確信通りの変態であることを証明せんがために強制的に、盗んだ体操服を着ろよ、というのは、確かに自分の利益になっているのだろうけれど、相手が確信通りの変態であること自体が利益である、という感覚がわからないので、結局よくわからない。春日に対する支配の欲求を満たすため、というならわかる。でもそうじゃなく、仲村は完全に春日を観察している。観察者として状況を楽しむ、というのがよくわからないんだよなあ。私はどちらかといえば渦中に居たいタイプですし、あの状況でたちの悪い遊びをするなら、佐伯との仲を引き裂くべく、私も誘われたからいっしょに行っていい? とかなんとか言って、直接デートをぶち壊すほうがはるかに楽しそうに感じる。盗んだ体操服を着させて、後ろめたさに挙動不審になる思春期の男を観察するのがそんなに楽しいとは思えないのだけど、あの高度な遊びを楽しめる層とはいったいどういう層なのでしょうか。観察している=上位である=支配、ということか。
    「私のモヤモヤの中で、みんなクソムシになればいい」という仲村の言葉からするに、いま仲村は全力で春日をクソムシに仕立て上げているところなのでしょう。とすれば、春日を支配することで、限定的ではあるが支配者の地位にいられる=世界を支配する陶酔感を味わっている、と解釈もできます。でもせいぜい男子生徒一人を懐柔したところで、支配した全能感なんて味わえるのでしょうか。完全に屈折した性欲だなあと思うのですけど、仲村ってあれ、性別が女じゃなく男であれば、むしろ理解しやすいキャラクターなんじゃなかろうか。盗んだ体操服を着させるという発想、女の発想ではない気がするのですけど。
    クラスでいじめが起こった時、あなたはどの立場にいますか、と同心円で表現させた場合、大多数の人間というのは傍観者の立場に自分を描く、といいます。おそらくこれ、作者さんは傍観者の立場にいた、渦中の人ではない人、だったのではないかなあ。傍観者の立場から想像しうる悪徳というのが仲村、なのでは。望むと望まざるとにかかわらず、大体渦中に居た層は、こんな描き方をしないように思う。傍観者の立場でいたからこその、観察者=上位者、という認識なのでは。渦中にある人間を巻き込まれず安全なところから見つめ批評する楽しさを知っている層による作品。そんな気がする。もしくは、こんなことされたらどうしよう!? という春日視点か。

    5話:
    春日が自分の信じた通りの変態であると確信したい=春日に自分の内心を投影している、としか思えなくなってきました。好きな子の体操服を着てキスをする変態行為、のような背徳的行為をしたいのは仲村であって、その仲村の身勝手な投影を、混乱状態の春日がなす術もなく自分のものだと思い込みかけてしまう、自我を仲村に奪われかけてしまう、そんなふうにしか見えなくなってきました。あるいは思春期男子はそういうものだという偏った思い込みを強化したいがために春日を利用しているようにしか見えなくなってきました。
    しかしこれ、まかり間違っても青春漫画などではないなあ。完全にこれ、頭のどうかしている女によって青春時代をめちゃくちゃにされる話であって、年齢が低めというだけでサイコサスペンスですよね。青春漫画の皮をかぶったサイコサスペンスです。仲村はどう見てもサイコパスです。だのにエンドカードで「思い出してますか…思春期の頃のこと…押見修造」とかほんとに、何なんですかね……誰もがこんなサイコ女にこんな仕打ちを受けているわけでもなければ、誰もがここまでサイコ女というわけでもないよ……気づかなかっただけで周囲にいた、とも思えないよ……確実にこういう女が周囲にいた人も一定数いるだろうが、それは不幸な思春期の思い出であって、さも当たり前の思春期のイベントのように書かれても困る層もけっこう厚いと思う……

    6-7話:
    だからそれ、仲村の勘違いだから! 春日も流されちゃダメだから!
    結局のところ、クラスのうわべだけの会話、なんとなく仲よさげに取り繕っている雰囲気、薄っぺらい友情ごっこ、そういう、欺瞞に満ちたクラスの空気、人間関係、そういうものはすべて嘘で、本当の人間というのはもっと汚くて最低で、憎み合っていて、身勝手なのだと、そういう思い込みを現実のものとして目の当たりにしたいがために春日を巻き込んでいるだけだから仲村は!
    欺瞞に満ちたクラスがなぜ存在しているかというと、「みんな仲良く」という大人が勝手に押し付けた戒律を子供たちが律儀に表面的にでも守ろうとしているからそんなクラスが生じてしまう。日本全国どこでもでしょうけど、本来的には大人と子供とはつながっている存在なので、大人も子供も身勝手で相手のことなんか考えちゃいないのは真実ですよ。ただ、そういうところを見抜いて言語化し始めたり行動化し始めたりするのが中学生なのですけど、その認識を確認するためだけに、とくにそれを確認したがってもいない春日を奴隷化して好き放題、自分の代わりにやらせるのは悪質以外の何物でもない。自分でやれよ、っていう話だろう、それは。自分でやる強さもない仲村が、人を顎で使って自分では直接手を汚さない、卑怯以外の何物でもない。
    男はすぐにセックスしたがるものだろう、女も所詮下半身で動いている、その予想を正しかったと確認したいがためだけに春日と佐伯をもてあそび、薄っぺらい人間の本質(笑)を眼前にしたいがためだけに春日を犯罪者に仕立て上げる。ほんっとにもう、子どもなのもいいところ。ほんとに中学生だな、という……
    ついでに、欲望のところだけをことさらに「本質」「本性」だと認識したがるのも中学生の悪い癖。ボードレールを読む前にフロイトでも読め。信憑性のなさでは詩人も精神分析家も同じだろう。規範意識だって立派に自我を形作っている。
    すでに私は大人になってしまっているらしく、仲村を見ていて、中学生だな……と思ってしまうのですけど、家庭環境も悪そうですね仲村。いまがまだ中学2年ということを考えると、これからまだまだ仲村の苦難は続きそうだな……
    欲望をひた隠しにしているのが人間で、けれどそれを表に出さない人間は取るに足らない、というのが仲村の認識ですが、果たして春日はここらへんに気づいているのかと言われれば、彼は彼でまじめすぎて、仲村がそういうふうに、自分の認識した世界観が全世界に適用できると思っているほどに、自分と他人の境界があいまいで、思い込みが激しくて、そして弱いというところがあるだなんて、思ってもいないのでしょうね。ただただ弱みを握られて、罪悪感から、仲村の言葉に従っている。どうして仲村にすがる必要があるのだろう。私は春日とは性格が違いすぎて、見ながらしょっちゅう、いやいまのはキレるところだろう、いやいまのは私だったら手が出てたかもしれない、と思いながら見ていたのですけど、あんなにしてまで仲村との関係にこだわる必要があるのか? 仲村にまとわりつかれ続ける人生と、仲村と縁が切れたことで、体操服を盗んだ件を仲村の口からクラス中にばらまかれる可能性が残る人生と、どちらがいいかと言われたら、私は断然後者なのですけど。
    なんというか、ちょっと人間の汚い本質を言語化・行動化して表すことができるようになると調子に乗る時期ですよね、中学生って。これを世の人は中二病と呼ぶのかもしれませんけども、実はすごく視野の狭い認識なのですよね、あれ。汚い本質をああやって激しくあげつらうのは、むしろつまらない人間のすることなんじゃないかなあと近ごろ思う。世の中に嘘つき嘘つきと吠えている暇があるなら、そういう連中をうまいこと利用する方法を考えているほうが、結局したたかに生き残れる。騒いでしまった時点で、仲村は不器用なのですよね。仲村が見下しているクラスの連中の中に、春日が見下している連中の中に、したたかにそれを察して実際に行動に移している連中もきっといると思うのですよね。目に入っていないだけで。わりと人間って多彩だったんだなというのには気づかない時期ですよね。大人になりかけの時期だから、やっぱりそういう未熟な視界の狭さはある。

    8-10話:
    「自分の中身は空っぽなんだ、ボードレールなんて読んでもわからないし、仲村さんの期待するようなものなんてもってない」とここにきて高らかに宣言した春日ですが、少なくとも仲村に期待されていると思っていたようなものは仲村の内面の投影であって、そんなことに責任を感じる必要はない。でも佐伯への、「佐伯さんは僕のミューズだ、生身の佐伯さんと付き合うことは怖いんだ」は重大責任だ(笑)仲村に迫られたら体が勝手に動く件も、ただ恐怖によって条件反射しているだけだと思うので、徐々に抜いていけばいいものだと思う。でも佐伯のこれまでの幾重にも積み重なったあの真摯な訴えの数々をたった一文で踏みにじった件については、ちょっとよく考えろ、と思う。私は中学生の時すでに、私には何もない、という絶望感からスタートしていたので、あんなふうに、みんなと違うと思っていたい、だから難しい本を読んでキャラ付けして、外の世界を見に行こう、だなんて思えなかった。本も音楽も何もかもが親の検閲下にあって、娯楽のほとんどが禁止されていたようなものだったから、みんなになじむために必死で、みんなの好きなものを調べて、貸してもらって、必死で周囲と話を合わせようとしてうまくいかなくて、というのが当時の私だったので、あんなふうに、好きにたくさんの本を読んで、自分の望む自分になるために、あんな膨らんだ自己愛を伴うことなんてなかった。佐伯ほど大人びてもいなかったし、仲村ほどキレてもいなかった。でも春日ほど膨らんだ自己愛を持っていたわけでも、自分をクリエイトする方向に必死なわけでもなかった。周囲に気に入られる方向に一生懸命だった。結局なじめませんでしたけど。だから春日の、みんなと違う自分で居たい、というのがわからない。みんなの中にいられた人が思うことなんだろうなと思う。輪の中に入りたくても入れなくていつも浮いていた人間は、みんなの中になじもうと必死になるから、そんなふうに、自分は周囲と違うだなんて誇らしく思える気持ちがわからない。

    11-12話:
    いや、仲村を傷つけた以前に、春日自身がズタズタに傷つけられていると思うのだけども。仲村自身は母親のいない父親と祖母だけの過程で育っていて、父親は昼間っからビールを飲んでいるようではあるけれども、祖母がふつうに優しげに振る舞っていることから、そこまで激しく過程で荒れるタイプではないと思うのですよね。5歳で離婚ということは、記憶はあるだろうから、何かセックスがらみ、恋愛がらみで両親がモメていたところでも見ていたのだろうか。

    13話:
    山の向こうには何もない気がしている仲村の予感は正しい。山の中だろうが外だろうが、田舎だろうが都会だろうが同じことで、偽りのない自分、欲望のみで生きていられる人間なんてそういない。
    それをわかってもいるから、春日は、この山の中で向こう側を見つけようと言っている。
    嘘偽りのない自分というのがそのまま、欲望むき出しの自分、に直結して、そして自分のフィルターを通してしか周囲を見ることができず、周囲が自分の思った通りに動くものと思い込んでいる、そうではないものを許せない、そういう仲村の幼さが全開になった13話でした。
    あと、中村は観察者と上で書いていましたが、観察者というより、孤独だから、春日が自分と同じ存在だと確かめたいのですよね。

  • アニメ観終わった後じゃ原作が読めないくらい良かった

  • 『惡の華』、おもしれえなぁ・・・。
    最近の漫画やアニメはあまり詳しくないけど、
    後輩に薦められて観始めた。

    原作の方は未読。
    これもリンクレイター監督作と同じくロトスコープで、
    原作ファンには不評、賛否両論。
    原作の絵も見たので、その気持ちはすごくよくわかる。

    けど、もしあの絵をそのまま最近のアニメの絵にトランスレートしたとして
    「変態性」をあれほど的確に表現できただろうか。
    たぶん、普通に「気持ちの良い作品」に仕上がってしまったのではないか。
    アニメファンの枠の中だけに収まってしまったのではないか。
    その枠からはみ出せる作品になっただろうか。
    ASA-CHANGの曲とあわせて、最近はそう思うようになってきた。

    ASA-CHANGの「花」、懐かしかった。
    原曲を聴いたのはもう10年以上も前。
    どうも違うような違和感があったのだけど、
    バージョン違いで作品にあわせてUpToDateされているのかな。
    あの時期のあの曲を持ってくるとは・・・と感心して、
    実はそのセレクトにも意味があるはず。
    ASA-CHANGそして、の子、後藤まりこ・・・

    劇中で引用される文学。
    『悪の華』は置いとくとして、
    萩原朔太郎、金子光晴、ブルトン、ロートレアモン。
    名前は全員知っていたけど、「おっとせい」の内容ぐらいしか知らない。
    しかもロートレアモンは昨日『パーマネント・バケーション』で知ったばかり。
    だけど、彼らが引用される理由は「なんとなくわかる」。
    そこには絶対に意味があると思うのです。


    最後に、他の作品から引用してレビューを終わります。

    「おまえはなにだ!?」
    「はーっ、糞にございます」
    「糞とはなにだ!?」
    「はーっ、この世でいちばんきたなきものにございます」
    「おまえは正義か!?」
    「いいえ」
    「悪か!?」
    「いいえ」
    「なみだは出るか!?」
    「いいえ」
    「おまえに心はあるか!?」
    「ございません」

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