人間の建設(新潮文庫) [Kindle]

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  • 文筆の分野での巨人と数学の分野での巨人の対談。本書の特徴は、紹介文に簡潔にまとめられている。

    「有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性・・・主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談と言えるだろう。」

    ここにあげられた主題は、もう少し砕いて言えば、こういう議論の種である。とても単なる雑談ではなかった。
    「好きでやる学問と試験目的でやる学問の違い」
    「個性とは自我の主張によるのか否か」
    「自然を生かすのか新しく作るのか」
    「数学には個性があるのか」
    「ベルグソンとアインシュタインの衝突」
    「ドストエフスキーとトルストイ」
    「遺伝か環境か」

    対談は、すでに対談会場行く車中の対話から始まっていたようである。

    本編の中では、数学者・岡潔の次の言葉が印象的だった。「確信がないことを書くことは数学者にはできない」「確信しない間は複雑で書けない」

    岡氏は、「西洋人は小我(=自己中心)に囚われている。日本は国のために命を捨てられる国民であり、小我に囚われない民族である」といったようなちょっと独断的にも思える考えを持っていて、それをハッキリと述べる。一見偏見にも感じるが、おそらく確信なのだろう。あの当時の人だからかもしれない。

    アインシュタインとベルグソンとが衝突した話の時には、アインシュタインも「井の中の蛙」だろうというような大胆な批評を述べたりしていた。

    ゴッホとモネーの話の時には、モネーは純粋だが、純粋はある意味「自我の殻に閉じこもっている」のであってゴッホに比べて退屈だといった。これも確信なのだろう。

    ドストエフスキーとトルストイの談義の時には、トルストイは「形式論理の範疇にある」といって、次のページの展開が予想できないようなドストエフスキーに対し、非常に軽視する見方をしていた。好きではないと言っていた。これも確信だっただろう。

    これらに対し、小林秀雄は、さすがに多くを読み、深く思索を重ねてきているだけあって、主張が異なるところでは、知性で包み込むように意見を述べる。アインシュタインについても、トルストイについてもその偉大さを客観的に語ることにより、やがて岡氏も対談後には両者に尊敬の念をもっていた。

    小林氏は、文筆業において、人を知るということを重視しているようだ。伝記は必ず読むという。小林氏が語る人物像には深い裏付けがあるので説得力がある。

    こういうと岡氏は、読書が浅いように感じるが、そうではない。岡氏の読書も広く深い。ただ岡氏の読書が興味の範囲であって、職業に直結するものでないということの差があるのだろうなと感じた。

    岡氏は、数学で行き詰まりを感じたときに、読書をするのだと言っていた。興味深い発言だ。そこで話していた「数学は必ず発見の前に一度行き詰る。行き詰るから発見する」という言葉もまた興味深い言葉だ。

    岡氏が特に強調するワードがある。
    「直感」「情緒」「情熱」

    特に「情緒」は、岡氏の創造性の源となる概念であり、「無明」を取り除いた自然な心の状態を示すものなのかなと自分は解釈した。「本当の心が理性を道具として使えば、正しい使いかた」だというようなことも述べている。

    著書に「情緒の教育」「情緒と創造」「情緒と日本人」などがあり、これらを読めばもう少し、岡氏の「情緒」というものを深められそうな気がする。

    一方小林氏も、芭蕉の「不易流行」という言葉を通じて、「不易」という言葉を振り返り、もういっぺん「子供に帰れ」「自然に帰れ」「自分自身の中にある原始的時代に帰れ」と述べている。これは岡氏の「情緒」に近いものかもしれない。

    岡氏は、「国家のために命を犠牲にする」ことを正当化しているのではなくて、自己への執着を開放する心(=自己中心からの解放)」を伝えたかったのかもしれないなと思う。

  • 知や意思はいかに説明しても、情は納得しない。直観(感情の満足・不満足)なしに情熱は持てない。裏打ちのないのを抽象的という。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない。

    欧米人の指導層には小我をもって自己と考える欠点がある。日本人の長所の一つは神風のごとく死ねること。あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎとめることはできない。無明がはたらいているから、真の無差別智、つまり純粋直観がはたらかない。欧米人の特徴は目は見えないが、からだを使うことができる。目を閉じて、からだはむやみに動きまわっている。いつ谷底に落ちるかわからない。日本がすべきことはからだを動かさず、じっと坐りこんで、目を開いて何もしないこと。

    ※奈良の博物館。正倉院、破れたきれの展示を丹念に長い間見た後に、外へ出てみると、どの松を見てもいい枝ぶりをしている。自然は何を見ても美しい。
    ※自然科学の世界(例:相対性理論の時間・空間)は自然言語では説明できない。言葉にならない。数学言語が必要になる。
    ※数学は印象でやるもので記憶はかえって邪魔になる。

    オカ・キヨシ
    1965

    **************

    自分も若い日に死のうと思ったことがあるが、自分は死ねないということを学んだ。僕の生命は僕の所有ではないからである。小林秀雄

  • 文芸批評家の小林秀雄と数学者の岡潔の対談。ある人が随分誉めていた本なので読んでみた。
     「有り体でいえば雑談である」と言ってるが、確かに雑談だ。1965年の初対面の対談で、互いの懐をさぐっているのがいいなぁ。やはり、小林秀雄は、中原中也が言うように、「この男は意識的なのです。そして意識はどのみち人を悲しませるものです。できるだけ多くのに会わぬ方がよろしい」『小林秀雄論』と言われる人物である。
     二人は、知力や芸術の低下を指摘することから始まる。
    小林秀雄は、「今日は大文字焼きがある日だそうですね」。岡潔は、「私はああいう人為的なものには、あまり興味がありません。小林さん、山はやっぱり焼かない方がいいですよ」小林秀雄「ごもっともです」と言う会話から始まる。大文字焼きって、山を焼いているわけではないけどなぁ。
    それから、小林秀雄は「いまは学問が好きになるような教育をしていませんね。だから、学問が好きと言う意味が全然わかっていない」岡潔は、「学問を好むという意味が、今小中高等学校の先生方にわからないのですね。現状は分かりきったことがわからない」。岡潔は、「人は極端に何かをやれば、必ず好きになると言う性質を持っています。好きでやるのじゃない」。小林秀雄は、「むずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。むずかしいことが面白いという教育をしていない。難しければむずかしいほど面白いということ」。と話は進んでいく。
    岡は「学問だけでなく、人のふむ道、真善美、もう一つ宗教の妙、どれについても言えるのです」と広げていく。
     ピカソは無明の人であると岡潔が指摘した。岡潔は、「人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。この自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。つまり自己中心に考えた自己というもの、西洋ではそれを自我といっております。仏教では小我と言いますが、小我からくるものは醜さだけなんです。ピカソのああいう絵は、無明からくるものです」。ふーむ。ピカソの絵を醜悪と言い切るのがすごいなぁ。「人は無明を押さえさえすれば、やっていることが面白くなる」と続く。自分中心、小我を捨てよというわけだ。良寛の雨の音を聞いて良さを感じることが無明を抑えることであり、日本人は、そういうことができる。「自我が強くなければ個性は出ない、個性の働きを持たなければ芸術品は作れないと考えてやっている」が行き詰まるという。それは自己中心と小我があるからだ。
     岡潔は、「いまの絵かきは自分のノイローゼをかいて売っていると言えるかもしれませんね。そういう絵を描いていて、平和を唱えたって、平和になりようがないわけですね。自然は何を見ても美しいのじゃないか。自然をありのままに描きさせすればいいのだ」という。
     小林秀雄は、日本の酒が個性がなくなっていることを嘆く。地元の良さを生かしきれていないという。日本は個性を重んじることを忘れてしまったと小林秀雄はいう。一方で、岡潔は個性とは、自分中心ではなく「もっと深いところ」からきているという。
     岡潔の数学の学問の仕方を小林秀雄が問いかける。これは、結構おもしろい。数学が積み木細工のような学問体系になっていて、体系を理解しないと難しく、より抽象的になってきている。好きなことをやっておればできるという土地を選んで数学をしているという。数学者は自分の数学を持っており、それが普遍性に共感することで、数学が発展していくと見ている。
    岡潔はいう「数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない。めいめいの数学者が皆その結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学とは言えない。心が納得するためには、情が承知しなけらばならない」
    「知性には感情を説得する力がない」それゆえ、感覚で進まざるを得ない。知と感覚の混じり合い、そして融合、飛躍があるようだ。そこには、「直感と情熱」が必要だという。岡潔は「時間は情緒に近い」ともいう。小林秀雄は、ベルグソンとアインシュタインとの論争を例に挙げながら説明する。ベルグソンの正しい疑問が生まれれば、答えは自ずと出てくるとい。答えを自ずと出すには、自然のままに、そして人と交わることで、立ち向かうことができるという。考えるとは、自分が身をもって相手と交わること、対象と私が親密な関係に入り込み、その人の身になって考えてみることだ。
    知らないものがあり、知るためには飛躍がある。理性では知り得ないところに、知の極みがある。
     対談している中で感じたのは、岡潔は、論理的というより感覚的な側面に重きを置いているような気がした。小林秀雄の方が、ロジカルな思考方法を持っている。
     自己中心である小我を捨てて、貪欲に知らないものに立ち向かっていくということか。それが『人間の建設』という表題につながる。対談の中に、いろんなフックがあって、イメージが広がるのは楽しいが、やはり1965年という時代背景を踏まえて、とらえる必要がある。鬼籍に入った人の話に耳を傾けるのも、今を生きているものの役割でもあるかもしれない。

  • 超絶頭の良い二人による異業種対談。頭上の遥か上で話が進むのでついていくのに必死だ。お互いに分かり合えているのか反目しているのかも良くわからなかったが、時折ハッとする言葉に出会う。
    今の時代においてはちょっと問題発言と捉えられかねないものも、彼らの言葉になると真髄を極めているように感じられる。とりあえず、人間は一回滅びてまた一から20億年かけてやり直しても良いのかもしれない。

  • 評論家と数学者の対談ではあるが、
    どちらも思考の基礎としての哲学の色があるので
    さほど遠くない2人とも言える。

    どちらも好き放題にしゃべっているが
    どちらかというと岡の方が放埒で
    小林がそれを受けたり、なだめたりするといった趣。

    人間の建設とは教育ととらえてもかまわないだろうが、
    一方で人間の部分を「文明」と置き換えてもよさそうで、
    大きなものを設計しようとしている。

    お話はとても興味深く拝見するのであるが、
    近代最後の偉人として記憶し、僕はここからはもはや離脱していると感じる。

    我々はもはや何かを建設することなどあるだろうか。
    ただただ、海にインクを落とすような情緒だけが確からしく思える。


    >>
    私は絵が好きだから、いろいろ見ますけれども、おもしろい絵ほどくたびれるという傾向がある。人をくたびれさせるものがあります。物というものは、人をくたびれさせるはずがない。(p.17)
    <<

    物に対する信頼。これは世界の手がかりでもある。
    後段で神経の苛立ちを売っている絵描きと自然のままであることの美しさが語られる。
    いまや自然をこのように自明に語ることができるだろうか。

    >>
    世界の始まりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている、親子の情はわかるが、自他の別は感じていない。時間という概念はまだその人の心にできてない。ーーそういう状態ではないかと思う。(中略)だから時間、空間が最初にあるというキリスト教などの説明の仕方ではわかりませんが、情緒が最初に育つのです。自他の別もないのに、親子の情緒というものがあり得る。それが情緒の理想なんです。(p.108-109)
    <<

    ゼーレのシナリオかな?というのはさておき、自然に対する信頼と隣り合わせのようなユートピアとしての情緒。
    ただ、こういうところに内容が存在すると言う感覚はかなり核心を付いている。
    この「情緒」という観念は岡のもので
    数学者として考えた挙句にここに辿り着いたということは興味深く思う。

  • 20世紀の日本を代表する批評家と数学者による対談の文庫化。小林の博識もさることながら、岡の思考的真剣勝負の人生を感じさせる厳しい洞察は迫力。

  • マッハボーイは造語でどうやらカントールの連続体仮説のことのようだ。ゲーテルとコーエンの、連続体仮説は否定も肯定も証明できない、ということを引いているのだろう。またここで言いたいのは、ヒルベルトプログラムの挫折とゲーテルの不完全性定理のはなしでよいだろう。
    なぜここに興味を持つかというと、私がコンピュータで飯を食い、ゲーテルの不完全性定理はチューリングの停止性問題を等価だからだ。論理体系は意味論を避けられないというのは形式手法というコンピュータを数学的に理解している人間なら少なくても本能的に知っている、つまり常識なのだ。

  • ■50年前に行われたあまりに知的な雑談

    文芸評論の大家小林秀雄と大数学者岡潔の対談。

    読み終えてから調べてみたところ、最初にこの対談が出版されたのは1965年(昭和40年)だそう。もう50年前ですよ。

    あらすじを引いてみましょうか。

    ----------------
    有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性…主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。
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    有り体にいえば雑談である、と。テーマを決めずにとりとめなく話をしたという意味では確かに雑談なんでしょうけどね。あまりに洗練されているよ。教養ある大人の会話とはこういうものなんですかね。

    50年も前に行われた日本最高峰の頭脳による雑談。
    50年後の平々凡々なおつむの若造は一体何を学ぶべきなんでしょうか。
    と、そこまで肩肘張って読んだわけではないのですが、50年前の会話なのかと噛み締めてみると改めてその遠さにおののきますね。年月も、会話の深さも。

    ということでおののきながらも50年後の若造が感じた面白かったポイントをいくつか。

    ■時間は情緒に近い
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    岡:
    時あるがゆえに生きているというだけでなく、時というものがあるから、生きるという言葉の内容を説明することができる。
    時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということは、まことに不思議ですが、強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。
    時というものは、生きるという言葉の内容のほとんど全部を説明しているのですね。
    ----------------

    岡潔の時間論。「時」という概念と「生きる」という概念はともに存在するものであり、それぞれ互いをを説明すべき存在である。これは哲学的にはある程度一般的な問題に絡むお話ですね。

    哲学における時間問題というのはなかなか面白いものです。難しく考えるとどこまでも難しい問題ですが、時間って何だろうと考えたことのある人は多いと思います。

    私たちは「生きて」います。生きている、というのが何なのかというのはまた難しすぎる問題ですが、一つの考え方として「いま」というこの瞬間を認識していること、という風に考えることができます。「いま」を認識すると同時に、過去や未来について考えることができます。即ち時の流れを認識できるということですね。しかし、未来も、過去も実際には存在しません。私たちの頭の中の何らかの物質が適当な形で結びつき作用することで、過去やら未来やらを想起することはできますが、それ自体が過去や未来の在ること、とは違います。そうした頭の中の物質はあくまで、「いま」存在する物質だからです。こう考えると、時間には「いま」しか存在しないことになります。「いま」を認識するという意味での「生きる」とは、「いま」という時間と通じる概念となります。「いま」という時とは、生きている私たちが認識するものであり、また、「生きる」とは「いま」というこの瞬間という時を認識することであるということ。

    こうした「どこもかしこも現在しかないじゃないか。時間ってなんだよう」という問題に切り込んだ哲学巨人はサルトル先生です。確かサルトル先生はこの問題と非常に苦しげに闘っていたのですが、岡さんの切り口はサルトル的な問題提起に触れつつも非常に軽やか。「時間は情緒に近い」と。なんというきれいな言い回し。軽やかできれいだけどいまいち意味は分からない。「時≒生」という哲学命題に続いて「時≒情緒」を打ち立てられますと、単純な僕の頭は三段論法に流れていきまして岡さんは「生≒情緒」という捉え方をしてるのか、となります。しかしこれどういうことなんでしょう。この段階ではあまり意味が分かっていなかったのですが、「情緒」というのはどうやら岡さん的にはとても大切なキーワードだったようです。あとでもう一度出てきます。

    ■伝記からはいる
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    小林:
    ぼくは専門の知識はわかりませんから、ああいう人に興味をもつと伝記を読むのです。ニュートンだってわからぬから「ニュートン伝」を読みます。やはり人間は、科学をやろうが、数学をやろうが、伝記というものがありますからね。そっちから人間が出ていますからな。それでいろいろわかるのです。ぼくら言葉のほうの男は、表のほうからはいるわけには行かないから、裏口からはいるのです。
    ----------------

    これは同感。と言ってもいわゆる伝記というのはほとんど読んだことないんですけどね。僕の場合、とりあえずエッセイを探してみることが多いです。特に作家さんや、作家でなくても本を書いてる人場合は、まずはエッセイかそれに近いものを読みたくなる。やはり人となりが出ている気がするんですよね。その人なりの世界の見方や感じ方を知ることができるし、どういう考えでその人の本職の仕事(作品)があるのかが分かります。伝記という他人の書いたものより本人自身の言葉を読みたくもなりますし。そういえばこの本も数学者岡潔という人がどんな人か知りたくなって、岡さんの「春宵十話」と同じタイミングで買ったんでした。春宵十話の方、まだ読んでないですけど。

    ビジネス系だと昔は良く創業記みたいな本をよく読んだけど、最近はそこら辺を本で読むより、もう先にネットでインタビュー記事なり、本人のブログなり読んだりする方が早いですね。まったく興味のない人だったけど情熱大陸見て人間を知ったらその人の仕事にも一気に興味がわいた、というような感じだと思うので、ここはわりと多くの人が共感するポイントじゃないかと。

    ■ドストエフスキーは悪人である
    ----------------
    小林:
    ドストエフスキーは悪人である。無明の達人です。
    岡:自分の中に両極を持って居たんでしょうな。悪い方の極がなかったら、よい方の極もよくわからないといえるかもしれませんね。
    ----------------

    小林秀雄はともかくとして、岡さんも相当な読書家なようで、ドストエフスキーやトルストイの話が盛り上がります。文学もそれほど読んでないし、無明やら我やらといった仏教用語もあまり詳しくないのでお二人の話すポイントをあまり敏感に感じ取れなかったのがものすごく残念なのですが、上記引用した「ドストエフスキーは悪人である」「自分の中に両極を持っていた」という捉え方はとても興味を引きました。というのも、先ほど人物からはいるのが好きだという話を書きましたが、ドストエフスキーに挑戦した時はまだそういう入り方をしていませんでした。何も考えずに「罪と罰」に突撃して「ロシア人ってのは名前が長いんだな」という超強烈な印象だけが残っていて、面白さは感じられなかったので、そのうち再戦を申し込みたいと思っていたのです。それに対戦に敗れはしたものの「良心の呵責」であったり、「悪人の描く良識」というあたりのテーマは個人的に非常に興味のあるところだったので、今回まさにそういう文脈で見つけてそろそろ再戦の時が来たか、と思った次第。ということで、ドストエフスキーの「白痴」と、対比物として置かれていたトルストイ「アンナ・カレーニナ」を読みたい本リストに追加しました。そのうちこのブログにも登場させられると良いなぁ。

    ■情緒、あるいは世界の始まり
    ----------------
    岡:
    愛と信頼と向上する意思、だいたいその3つが人の中心になると思うのです。
    そこで私が言う情緒ですが、人が生まれて生い育つ有様を見ていて、それがわかると、人というものもかなり分かるのではないかと思うのです。一人の人の生まれた時の有様を見れば、あるいは世界の始まりも見えてくるのではないかということも思います。
    世界の始まりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている、親子の情はわかるが、自他の別は感じていいない。時間という概念はまだその人の心にできていない。―そういう状態ではないかと思う。
    ----------------

    時間のお話のときに登場したキーワード「情緒」がここでまた出てきます。そして世界の始まり、と。またすごいキーワードを提示しますよね。すごくいいです。岡さんのいう「情緒」というのはその人の本質を表すもののようです。人格やら性質、そして自我なんかとも通じる捉え方でしょうか。情緒とは「その人が何であるのか」という本質である。そしてそれが「世界の始まり」であると。これはまた難しい概念ですが、前半に出てきた「時≒生」にもつながっているんだと思います。時とはいまを生きることによって説明できるものである。世界を認識することができるというのはいまを生きる存在ならではの行為であるといえます。つまり「生きて」いるから「世界がある」のであり、同時に「時」があるということ。生まれたばかりではまだ時間の概念は持たず、それはつまり生きているという概念にもつながらない不思議な時代です。世界の始まりとはそういう曖昧な瞬間にあるんだろう、というなんともロマンチックなテーマです。

    哲学的問題を考えているとひたすらに抽象的で捉えにくいところに入っていきがちなんですが、岡さんの議論がロマンチックで情緒的に感じるのは岡さんの人間観に由来しているのかもしれない。岡さんは人間の本質を「愛と信頼と向上する意思」にあるといいます。これはものすごく賛同できる部分です。児童福祉に10年近く関わって感覚としては分かっていたけど、という部分で、最近になってやっと教育理論や発達心理やその他関連する社会科学の最新の知見でようやく実証されつつある議論。うまく生きる子とそうでない子の差はどこにあるんだろう、この問題に岡さんは50年前に確信を持って自分の言葉で説明をされていたんですね。すごいや。この対談でも教育について触れている部分はありましたが、岡さんのエッセイである「春宵十話」でも教育問題はテーマにされているようですので、そちらも今から読むのが楽しみです。


    以上。

    ということで。
    話がいろいろに飛ぶという部分はまさに雑談なので、それぞれ気になるところが出てくるのではないかと思います。ものすごく洗練されてはいるけれども、あくまでとりとめのない雑談ということなので、お酒でも飲みながらとりとめなく思考や興味をふらふらさせながら読むのも良いんじゃないでしょうか。

  • 思ってたこと考えてたこともやもやしてたことを言語化してくれた本。
    人生を変える本だった

  • ものを生かさず
    競ってみせるようにしている個性
    →それはダメ

    知力が低下すると
    物の本当の良さがわからなくなる
    真善美を問題にしようとしてもできないから
    実社会に結びつけて考えようとする
    →役に立つとか即戦力になるとか

    無明
    →生きようとする盲目的意志
    →これは自我が多い個性
    →これを退けながら生きるとこが大事

    ■問題を出すことが、すなわち答え

    数学者は種子を選べば、
    あとは大きくなるのをみているだけのことで
    大きくなる力はむしろ種子の方にある
    岡清
    →種子は答え

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著者プロフィール

1901年生まれ。三高をへて、京都帝国大学理学部卒業。多変数解析函数の世界的権威者。理学博士。奈良女子大名誉教授。学士院賞・朝日文化賞・文化勲章。仏教・文学にも造詣が深く、『春宵十話』『風蘭』『紫の火花』『月影』『日本民族の危機』などの随想も執筆。晩年は教育に力を注いだ。

「2023年 『岡潔の教育論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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