ユダヤ人の歴史 (河出文庫) [Kindle]

制作 : 入江規夫 
  • 河出書房新社
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感想・レビュー・書評

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  • 良書。ラビの本であることも多少考慮に入れて読む必要あり。陰謀論については、ユダヤ人ならだれでもそうだが、完全に否定、或いは無視さえも感じた。金融支配について触れておらず。

    星四つ。(このジャンル最高自己評価)。


    123 個のハイライト | 14 個のメモ

    オレンジ色のハイライト | 位置: 866
    バビロニアにおけるユダヤ人社会はパルティア帝国の下で繁栄をきわめた。パルティア帝国は紀元前二世紀半ばにセレウコス朝からイランとメソポタミアの支配を奪って成立した国家であった。ローマがパレスチナを奪った後、そのユダヤ人に対する圧政的な姿勢が明らかになるにつれ、ユダヤ人は当時のローマに対する一大勢力であったパルティアに対する忠誠心を一層強めた。パルティアもこの忠誠に応えるため、ユダヤ人を好意的に扱い、ペルシア人が認めていたような自治権を与え


    オレンジ色のハイライト | 位置: 871
    パルティアにおけるユダヤ人の自治組織は元々エグザラークと呼ばれる世襲制の統治者によって治められており、その実態は後に至るまでよく知られていた。伝統的に、ダビデに始まるユダヤ王国の王家の子孫が代々その地位を引き継ぐことになっていた。先に述べたように、ユダヤ王ヨヤキンは紀元前五九七年に国を逃れ、晩年はバビロニアで過ごした。彼は最初は捕えられたが、その後解放され、王族としての待遇を与えられた。バビロニアのディアスポラ社会はダビデ家の子孫によって統治されることにある種の満足と誇りを感じていたのである。この組織はパルティアの時代からササン朝さらにはイスラム支配下における数世紀を生き延びて紀元十一世紀まで存在し

    メモとは言うものの、著者はパルティアにダビデの王権が残ったとは言っていない。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,106
    四世紀から七世紀にわたるビザンチン帝国の統治下において、ユダヤ人の宗教および商業活動を制限する法律が次第に導入された。キリスト教徒との婚姻が禁止され、公職に就くことも新しいシナゴーグを建設することも禁止された。総主教ヒレル二世はディアスポラに対し儀式の日にちを公布する権限を剝奪された(彼はこの処置に対し、宗教儀式の日程を決定するための基本原則を公開することで対抗したが、このことはパレスチナがディアスポラ社会を支配するための大きな手段のひとつを失ったことを意味し


    黄色のハイライト | 位置: 1,111
    さらに、ユダヤ人によるキリスト教徒奴隷の所有禁止は経済的に大きな打撃となった。今日から見れば、奴隷制度は不快以外の何物でもないが、ローマ時代においてはそれは農業を支える基盤となっていた。そのため、ユダヤ教徒は、奴隷を所有するキリスト教徒と農業において競争することが不可能になり、結果的に生活手段としての農業からユダヤ人は排除されることになった。この制限は、具体的には大土地を所有するユダヤ人を直撃したが、ユダヤ人と土地とを切り離す最初のきっかけとなった出来事でもあり、やがて中世においてユダヤ人のほとんどが街に暮らす住民となる布石でもあっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,118
    スペインでは、実際に西ゴート王国の王シシプート(在位六一二~六二一年) はユダヤ人に対し、改宗、死、追放のいずれかを迫っ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,235
    イスラム政権の下で暮らすユダヤ教徒やキリスト教徒はズィンミ(被統治者) と見なされ、ウマルの法と呼ばれる規則でその地位と身分が定められ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,238
    だが、新しい教会やシナゴーグを建てること、古い教会やシナゴーグを修復すること、公衆の前で宗教的儀式を執り行うこと、あるいは他人を改宗させようとすることは禁じられた。また、イスラム教徒を打つこと、武器を携帯すること、馬に乗ることも禁じられ、さらにユダヤ教徒であることがわかる服装をすることを義務づけられ


    黄色のハイライト | 位置: 1,241
    その後、イスラム教徒より背の高い住居に住むこと、アラブ風の名前をつけること、コーランを学ぶこと、発酵飲料を売ることなども禁じられ、公的サービスの対象からも外され


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,244
    しかし、キリスト教政権の下で生活を体験したユダヤ教徒にとっては、確かにこのウマルの法は一見厳しいものであったが、実際には彼らに一種の安堵感をもたらした。というのは、イスラム教とイスラム政権はユダヤ教徒の地位と生きる権利および信教の自由を認め、それも聖アウグスティヌスのような屈辱的論理のもと不承不承認めるというよりも、預言者ムハンマドの命令によるものとして認めたのであっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,250
    こうして、ウマルの法は、イスラム教発足当初の一世紀の間はしばしば無視されたり、あるいはごく形式的なものだったりした。概して言えば、イスラム教国の勢力が強力であったとき、すなわち十世紀までと、後に述べる(第六章) オスマン帝国が最盛期を迎えた十五、十六世紀には、ユダヤ人は比較的自由を享受し、見事な住居を建て、アラビア風の名前をつけ、コーランを学ぶ者さえ現れた。キリスト教徒は発酵飲料を売る酒場を経営し(時にはイスラム教徒にも売った)、そしてこの頃には誰もがそれぞれの宗教がわかる服装をすることには抵抗を感じなくなっていた。というのはもうそれがすっかり習慣になってしまっていたからで


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,266
    さらに、キリスト教徒と異なり、ユダヤ教徒は自分たちの国家そのものが消滅してしまっているため、政治的にはほとんど意味を持たなかった。イスラム帝国は、地中海を隔て(西アジアでは直接境界を接して) キリスト教の神権政治を行っているビザンチン帝国と対立関係にあったため、国内のキリスト教徒がビザンチンと連携しているのではないかと疑ったり、あるいは少なくともビザンチン帝国による覇権を願っているのではないかと警戒を怠らなかった。以上のような理由で、初期イスラム社会においては、キリスト教徒の立場はユダヤ教徒の立場よりも厳しいものであっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,284
     パレスチナのユダヤ人社会は、イスラム政権下で幾分かその繁栄を取り戻したが、ローマ帝国がキリスト教化する以前と比べるとはるかに見劣りするものであっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,292
    イスラム政権はユダヤ人に対して、ペルシア時代と同様の半自治的状態を認めた。エグザラークは、少なくとも理論的には、廷臣となり、単に一地方のディアスポラ社会の長としてではなく、カリフ統治下のすべてのユダヤ人社会の長として徴税やユダヤ人法廷の裁判官を任命する権限を持った。言い伝えによると、彼がカリフの宮廷に出仕するときは、伝令が彼の前をアラビア語で「道を開けよ! ダビデのご子息のお通り」と叫んで走ったといわれる。これはエグザラークがユダの王の子孫であることを主張し、貴族と同等の待遇を与えられていたからで

    メモこれは面白い。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,309
    イスラム世界のほとんどの地方で、ユダヤ人社会は一定の自治を享受した。ラビは宗教的儀式や家族に関する法の権威としてばかりでなく、共同社会すべてにおける権威としての役割を果たした。イスラム世界各地のラビは、判断に迷う様々なケースに関してゲオニームの裁決を仰い


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,338
    アラビア語とアラビア文学に精通していたサアディアは、この新しくまた広範な知識を持つ教養人として、また有力なラビとしてユダヤ人の伝統を初めて系統的に考察した人物であっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,384
    サアディアの後、イラクにおけるユダヤ社会は次第にその力を失っていった。その理由は、イスラム帝国がそれぞれの地域のイスラム政権に分裂していき、イラクがもはや帝国世界の中心とは言えなくなったからで


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,388
    イラクがちょうど下降期に入ったときに繁栄を迎えていたのが、八世紀にイスラムに征服されていたスペインであった。このイスラムによるスペイン征服は、同地方で厳しい弾圧に遭い消滅寸前であった小さなユダヤ社会を救うことになった(第三章

    メモレコンキスタ以前の話し。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,392
    世紀までには、スペインの統治者は「カリフ」という称号を名乗り、すでに衰退の兆しの見えたイスラム帝国からの独立を主張した。首都コルドバは華やかな様相を見せ、イスラム世界の最も繁栄した都市の一つとして富を集め、さらに芸術家や学者を呼び寄せた。経済的繁栄と自分たちの地域の独自の文化に対する自負は同地のユダヤ人にも恩恵をもたらし、なかには織物製造や貿易で富を築く者も現れ


    黄色のハイライト | 位置: 1,396
    十世紀半ばに、ハスダイ・イブン・シャプルートという名前のユダヤ人がコルドバのカリフの宮廷で廷臣として仕え注目を浴びた。彼はイスラム支配下のスペインにおいて最初の典型的なユダヤ人指導者、すなわち廷臣にしてラビであっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,415
    ハスダイ以降最も勢力を持ち、また興味深い存在の廷臣かつラビであったのは、シュムエル・ハナギード(九九三~一〇五五年または一〇五六年) である。彼は、十一世紀にイスラム・スペインが多くの小国に分裂したとき、グラナダでその名をあげ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,439
    イベリア半島全体から見れば、多くのユダヤ人は半島内にとどまることができたが、これはアルモハーデの迫害が始まる前に、イスラム教徒に最後まで侵略されなかった北部のキリスト教国がイスラム支配下の地域に進出し始めていたからであっ


    黄色のハイライト | 位置: 1,442
    一〇八五年には、カスティリャ王がトレドを陥れたが、ユダヤ人はこれらのキリスト教国の領土が広がるのを歓迎した。というのは、当面このキリスト教国は、キリスト教団の一般的な傾向とは異なり、イスラム教政権よりもユダヤ人に寛大な施策を採ったため、多くのユダヤ人がそこに避難することができたからで


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,524
    十三世紀末までには、イスラム教徒はヨーロッパから追放され、北アフリカも絶えずヨーロッパ人の侵攻の脅威にさらされるようになった。これに加えて、モンゴル人がはるか遠くアジアから侵入し、一二五八年にはバグダッドがモンゴル人の手に落ち、かつてのイスラム帝国の繁栄の名残に終焉をもたらした。こうして、力と富は次第にヨーロッパのキリスト教国に移っていったので


    黄色のハイライト | 位置: 1,527
    一部では、イスラム教徒もこうした流れを非イスラム教に対する締め付けを厳しくすることによって食い止めようとした。かつてはほとんど注意を払われなかった、差別的規則を定めるウマルの法を厳格に適用し、ユダヤ人とキリスト教徒はそれぞれ自分の出自を示す服装を身に着けるとか、市内ではロバに乗ることも禁ずるなどを命じた。そして、教会やシナゴーグは破壊され、ユダヤ人の医師はイスラム教徒の患者を診ることを禁じられた。ユダヤ人やキリスト教徒はかつてない苦しみや恥辱を味わうことになり、暴徒の襲撃にさらされることもあった。イスラム世界がさらに経済的に疲弊していった十四、十五世紀になるとズィンミの状況はさらに悪化し、こうした状況から逃れるためにイスラム教徒に改宗する人たちが次々と現れる状態にまでなっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,542
    さらに、一二九五年にモンゴル人がイスラム教に改宗してからは、改宗者特有の熱心さで差別的法律であるウマルの法を復活させた。こういった不寛容な雰囲気や経済状態の不振のために、かつてイスラム文化が栄えたときに見られたような文学的、学問的繁栄はもはや見られなくなっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,545
    エジプトにおいてはトルコ系のイスラム王朝マムルーク朝が一二五〇年に成立したが、その統治者はズィンミに対してばかりでなく、被支配者階級のイスラム教徒に対しても差別的政策を採った。そのため、下層階級のイスラム教徒は、自分たちよりもさらに社会的に下の階層であるズィンミに対し、その憎しみを向けるという構造ができ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,586
    一方、イスラム社会の下層階級はズィンミに対して次第に反感をつのらせており、その動きはイスラム世界共通のものとなってきてい

    メモ十字軍など、キリスト教勢力の反抗にともない、被支配者にきびしい社会となる。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,601
    しかし、このオスマン帝国の興隆は、新しく圧倒的な力を持つイスラム社会のなかでユダヤ人が新たに花を開かせる機会を提供するものでもあっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,675
    ユダヤ人とキリスト教徒の関係は十一世紀末近くまでは安定した関係が続いていた。しかし、パレスチナの聖地、中でも聖墓(キリストの墓) をイスラム教徒から取り戻すための十字軍の動きが始まったとき、その様相は大きく変わった。遠隔地の非キリスト教徒に向けられた宗教的憎しみは、身近にいたユダヤ人に対しても向けられるようになった。一〇九六年春、第一回十字軍がヨーロッパを横切って東方に向かったとき、その最初の犠牲者となったのはライン地方に住むユダヤ人であっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,687
    ヨーロッパの一般庶民の間に反ユダヤ的感情が定着していったが、この感情の一部は恐怖感に根ざしたものでもあった。文字も読めず、迷信深い中世の農民たちの目には、不思議な習慣と、奇妙な宗教儀式、それにヘブライ語の祈りを行うユダヤ人は、単に社会的、経済的アウトサイダーというだけでなく、黒魔術を操る異様な集団、悪魔の手先とも映っていたので


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,698
    ユダヤ人に対する最初の組織的な弾圧は、一一四四年にイギリスのノーウィッチで起こった。ユダヤ人が、ウィリアムという名前の子供を捕まえて復活祭の前の聖金曜日にキリストの 磔 にならって殺害した、との容疑をかけられたのだ。しかも、この儀式は世界中のユダヤ人の間の、毎年キリスト教徒の子供を一人犠牲にしなければならないという約束事に基づいて行われたとの噂まで広まった。こうして、ノーウィッチのユダヤ人は、これに反発する住民により大量虐殺され、さらにこの動きは次々とヨーロッパ中に広まっていった。  そしてユダヤ人が、殺されたキリスト教徒の子供の血を過ぎ越しの祭りに食べるマッツオー(種なしパン) に使っていると広く信じられるようになってからは、虐殺はさらに広範囲に及ぶようになっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,773
    イギリスにおいては、エドワード一世が一二七五年、ユダヤ人に対する借金を棒引きにすることを宣言し、以降ユダヤ人が金貸し業を行うことも禁止した。こうして、残された数少ない生活の糧を得るための職業からもユダヤ人ははじき出された。さらに彼はユダヤ人社会の指導者たちを投獄し、多額の身代金を要求した。一二九〇年、身代金が払われるとユダヤ人をイギリスから追放したが、ユダヤ人が再び入国を許可されたのは四世紀を経た後であっ


    黄色のハイライト | 位置: 1,777
    フランスにおいても、一三〇六年フィリップ四世がエドワード一世の政策にならい、ユダヤ人の財産を没収し国外に追放した。次の王の治世においてユダヤ人は帰国を認められたが、一三二〇年「羊飼いの十字軍」と呼ばれる民衆の運動によりユダヤ人社会は攻撃され、さらに翌年には五千人のユダヤ人が、井戸に毒を投げ込んだとして生きながらにして埋められた。一三二二年までには、フランス全土からユダヤ人の姿はほとんど見られなくなり、一三九四年にはほぼ完全に追放され


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,793
    一三四八年から一三五一年にかけてヨーロッパはペストの猛威に襲われた。その被害はユダヤ人、キリスト教徒を問わず、およそ三分の一の人口が消え去った。パニックに陥った民衆はその恐怖をやわらげるため極端な宗教的活動に頼った。集団ヒステリー状態の中で、ユダヤ人が井戸を汚染しペストを広めているとの噂が飛び交った。ユダヤ人社会、特に中央ヨーロッパのユダヤ人社会がひとつひとつ襲われ、破壊され、追放されていっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,846
    これは後に続くスペイン全体のキリスト教国化の第一歩となり、一二四八年までにはグラナダを除く全半島がキリスト教徒の支配下に入った。グラナダだけはその後もイスラム教徒の支配が一四二九年まで続い


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,849
    このキリスト教国の支配は結果的にユダヤ人にひとつの機会をもたらした。ユダヤ人は、スペインの地理と住民、その言語であるアラビア語を知っており、さらに税金や財政について詳しい知識を持つ者も少なくなかった。新しいキリスト教徒の支配者たちは、自分たちの統治を助け、反乱を企てる可能性のある民衆をうまく支配する卓越した行政官を必要としていた。イスラム教徒の民衆は、隣接するイスラム教国の助けを借りてイスラム政権の復活を図るおそれがあったが、ユダヤ教徒はその種の野心を持たず新しい支配者に従順であった。こうしてスペインにおいて、これ以降の中世キリスト教国家体制におけるユダヤ人の生き方のひとつのモデルができ

    メモ面白い。イベリア半島でユダヤ人が生き残る原理。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,856
    そしてしだいにこの役割はうまく機能するようになり、ユダヤ人にとってスペインのキリスト教国家は非常に住み良いものとなった。さらに、スペインの支配者たちは教皇との関係においても次第に距離を置くようになり、ユダヤ人の扱いに関するローマ時代からの決まりについてもしばしば無視するようになっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,860
    ギリシアの科学や哲学はアラビア語あるいはヘブライ語に翻訳された文献でしか利用できなかったから、これらの古代の知識を手に入れるためにはアラビア語は必須であった。ユダヤ人学者とキリスト教徒の学者が共存することにより、スペインはこれらの古代文化の研究や翻訳の中心地となっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,866
    こうした活動は、後のルネサンスの先駆けとも言えるものであり、ギリシア文化がラテン語を使う修道院や西洋の大学に伝達される重要なルートになった。賢公と呼ばれ一二五二年から一二八四年まで統治したアルフォンソ十世の時代には特にこうした活動が盛んで、彼は各種の文化的、科学的プロジェクトを支援した。アルフォンソ十世は自らの助言者としてユダヤ人の廷臣を抱え、またユダヤ人天文学者を後援し

    メモ賢公アルフォンソ十世。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,897
    賢公といわれたアルフォンソ十世も、自ら制定した法の中に、第四回ラテラノ公会議で決められた厳しい反ユダヤ的な条項を含めており、その在位の晩年においてはユダヤ人の顧問に対しても次第に厳しくあたるようになり、中には投獄や死刑に処せられる者もいた。さらに、トレドのユダヤ人社会を強制的に破壊しようとまでした。  彼の死後はカスティリャにおけるユダヤ人の立場は、生命の安全こそ十四世紀前半の間は守られていたが、だんだんと不安定になっていっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,951
    スペインからユダヤ人が放逐される前の一世紀は、ユダヤ人社会はその数においてもまた富においても著しく衰弱し、スペイン社会における存在感もまた希薄になっていた。他方、新キリスト教徒は社会の至る所で活躍し、宮廷や教会で以前には不可能であったような高位にまで上り詰めるようになった。ただこの活躍はやがて、かつてユダヤ人に向けられていた嫌悪がこの新キリスト教徒に向けられるきっかけともなった。彼らは単に自らの出世と国の支配を目的に改宗したにすぎないとの批判が起こったのだ。またユダヤ教的習慣を続けている者はキリスト教に対する信仰が足りないと非難され、ユダヤ人家族とつきあっている者はふたたびユダヤ教に改宗したのかと糾弾された。こうして改宗者はキリスト教社会の潜在的破壊分子と見なされ、昔からのキリスト教徒のみが本当のキリスト教徒で、新キリスト教徒は要するにユダヤ教徒がそう装っているだけと考えられた。こうした考え方は「血の純粋性」という観念から人種的差別を生み出し、社会に受け入れられる際の基準として働くようになった。十五世紀末までにはふたたび社会的緊張が高まり、今回その鉾先はユダヤ人そのものに対してよりはこれらの改宗者に向かうことになった。  こうした改宗者の問題がフェルディナンド王とイサベラがスペインに異端審問所を導入するきっかけともなっ


    メモ | 位置: 1,963
    改宗しても迫害された。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,969
    異端審問所がスペインに正式に導入されたのは一四八〇年であった(ポルトガルにできたのはずっと後の一五四七年である)。さらにそれは新世界のスペイン領にも設けられ、驚くべきことに一八三四年まで続いた(ポルトガルでは一八二一年まで存続し


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,973
    いったん逮捕されると、被疑者は通常拷問で責められ、もし自白したとなると親戚や友人まで告発することを強要された。まれに監禁から解かれるものもいたが、彼らは多くの場合肉体的にぼろぼろになり、実質的に廃人同様の状態であった。有罪を宣告され、さらに悔い改めることを拒否した者は生きながらに火あぶりの刑に処せられた。悔い改めることを誓った者も屈辱的な苦行を強いられ、しばしばひどい貧窮状態に貶められた。有罪となり火あぶりの刑に処せられることになっている者で最後に自らの罪を認めた者は、火あぶり刑から絞首刑に変更され

    メモこれはひどい。

    黄色のハイライト | 位置: 1,979
    教会は密告を盛んに奨励したが、それはもし被疑者が有罪となれば彼らの持っていた財産を没収することができたからである。さらに、政敵を貶める手段として用いられることがあった。教会は死刑の執行を自らの手では行わず、悔い改めた異教徒を死刑執行人として使うことにより、自らのモラルを保とうとした。当時、死刑の執行は手の込んだ派手な見せ物であり、一般大衆の間でもまた貴族たちの間でも非常に人気が高かっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,985
    この隠れユダヤ教徒とは、スペインにとどまるため、洗礼を受け表面上はキリスト教徒になっているが、実際はユダヤ教の慣習を隠れて行っていた人たちである。彼らはスペイン語の「豚」を意味する言葉をとって「マラノ」と呼ばれ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,988
    異端審問所を設けた後も、フェルディナンドとイサベラは二人の有名なユダヤ人の顧問、イツハク・アブラバネルとアブラハム・セネオルを抱えていた。彼らは、グラナダ征服後まもなく、一四九二年にユダヤ人追放令が実施されるのをなんとか阻止しようとしたが、結局その努力は実らず、三月三十一日にその勅令は署名され、八月一日以降はユダヤ人がスペインの土を踏むことは違法となっ


    黄色のハイライト | 位置: 2,009
    一四九二年のユダヤ人のイベリア半島からの追放は、単に追放された当事者ばかりでなくユダヤ人全体に影響を与えるものであった。この動きはやがて、海外のスペイン領にまで及びシチリア、サルディニア、イタリアの一部においてもユダヤ人追放が行われた。


    黄色のハイライト | 位置: 2,022
    オスマン帝国は、長い間よどんでまとまりのない状態を続けていた中東地域に新しい息吹を吹き込み、近代社会が始まったばかりのキリスト教ヨーロッパ社会の強力な競争相手としての地位を確立した。


    黄色のハイライト | 位置: 2,024
    オスマン帝国はその拡大に伴い、まずビザンチン帝国のギリシア語をしゃべるユダヤ人を、そしてさらに大部分がアラビア語をしゃべる中東のユダヤ人社会を包含していった。スペインにおけるユダヤ人が過酷な運命に遭うと、彼らも喜んで受け入れ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,029
    スルタンのバヤジッド二世は、スペイン王フェルディナンドがユダヤ人を追い出して自国を貧しくし敵を豊かにしたことを見て、彼が巷間言われているような賢明な国王であるか疑いを持ったと伝えられて


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,032
    オスマン帝国は相次ぐ強力な指導者のもとで発展を続けたが、その間支配下の民族に対して宗教的に非常に寛大な政策を採っ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,035
    地方においては時にユダヤ人に対する虐待も見られたが、十六世紀半ばまでオスマン帝国内のスペイン系ユダヤ人は繁栄をきわめ


    黄色のハイライト | 位置: 2,044
    さらに、ユダヤ人に対する迫害がイタリアの一部のスペイン領、そして一五六九年にはローマ教皇領の大部分にまで及んだのに伴い、イタリアからの亡命者の数も膨らんでいっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,080
    こうしたユダヤ人はオスマン帝国政府にとっても非常に有益な存在であった。彼らの国際的ネットワークやその言語能力はいうまでもなく、さらに彼らを帝国の忠実な臣下と見なすことができたからである。たとえどんなに野心にあふれたユダヤ人の高官であっても、政権奪取を望むことはあり得ず、またオスマン帝国の利益を危うくするユダヤ人国家も存在しなかっ

    メモ国家を持たないゆえの信用。キリスト教徒ではこうはいかないえ

    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,084
    なによりもスペインの内情をよく知り、言葉にも長け、その上自分たちにひどい仕打ちをした相手に寝返ることは考えられなかったからで


    黄色のハイライト | 位置: 2,085
    十六世紀半ばまでには、多くのユダヤ人が医師、財政家、外交官、政治家、あるいはオスマン帝国の高官としての地位を得るまでになった。それはかつてイスラム教スペインあるいはキリスト教スペインにおいて、裕福で国際的感覚を持つユダヤ人が高位に上ると同時にユダヤ人社会の向上に貢献したことを思い出させる出来事であったが、今回の方がはるかに大規模なものであっ


    黄色のハイライト | 位置: 2,090
    最も有名で力のあったセファルディムの高官は、ドナ・グラシア・ナシ(一五一〇~一五六九年) と、彼女の甥ドン・ヨセフ・ナシ(一五二四~一五七九年) であっ


    黄色のハイライト | 位置: 2,168
    このツヴィの変節は、オスマン帝国およびヨーロッパのキリスト教国のユダヤ人にとって大変な精神的打撃となっ

    メモこれはユダヤ人が反キリストを受け入れるのと似た出来事かも。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,182
    十五世紀半ばから十六世紀半ばに見られたスルタンのユダヤ人に対する思いやりのある扱いは次第に見られなくなり、ムラート三世(在位一五七四~一五九五年) は初めてユダヤ人に対して差別的な法を施行し、ユダヤ人社会に対し、皆殺しにすると脅して金を巻き上げた。そして最後には、賄賂を取ってこの法令を引っ込め


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,193
    こうした厳しい社会的条件はその後も十九世紀に至るまで続い


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,224
    オスマン帝国においてユダヤ人の繁栄が衰退していったもうひとつの原因は、十六世紀以降イベリア半島から流出したユダヤ人がオランダやイタリアを目指すようになったからで


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,229
    十八世紀末までには、近隣のイスラム教地域のユダヤ人も含め、ユダヤ人は貧困と屈辱の環境のもとに置かれるようになっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,279
    中東のイスラム教徒は非イスラム教徒を軽蔑し無作法に扱ったが、中世キリスト教ヨーロッパで発達したユダヤ人を悪魔と見なすような神話については十九世紀になるまで知らなかった。中東で最初に深刻な「血の告発」が起こったのは一八四〇年ダマスカスにおいてであった。ダマスカス事件と呼ばれるこの事件は、ユダヤ人の床屋が過ぎ越しの祭りに使うため、キリスト教の修道士を殺してその血を採ったという告発に始まっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,287
    イギリスはユダヤ人のために調停役を買って出て、大富豪であるとともにセファルディムの慈善家としても高名なモーゼス・モンテフィオーレをシリアに送った。複雑で困難な交渉の末、モンテフィオーレはスルタンから「血の告発」を非難する宣言を勝ち取っ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,294
    イランにおいては十六世紀にイスラム教シーア派がイスラム教を国教と定め、ユダヤ教にはとりわけ厳しくあたった。イスラム教の聖職者は絶大の権力を持ち、非イスラム教徒はすべて不浄な存在と見なしていたのである。ユダヤ人の地位は十九世紀末になってようやく少し改善されたが、これは西洋思想が流入し西欧諸国から圧力がかかるようになったからであっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,308
    ユダヤ人の法的地位、経済状態、教育水準は十九世紀中に徐々に改善していったが、イスラム教徒の民衆との対立関係は一向に改善されることはなかった。この理由のひとつは、ユダヤ人が西欧化を、抑圧と貧困、後進性から脱出するための窓と見なしておおいに歓迎したのに対し、イスラム教徒はこれを植民地化および搾取と見なしたことにある。何世紀にもわたってユダヤ人を最も卑しむべき存在で、軽蔑と嘲りの対象としてしか見てこなかったイスラム教徒にとっては、ユダヤ人が西欧化を歓迎している様は、裏切りとしか見えなかったので


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,341
    イラクがイギリスの委任統治領であった間は、ユダヤ人もキリスト教徒も公務員になることができ、ユダヤ人の中には内閣の大臣を務める者まで現れた。しかし、一九三二年イラクが正式に独立した後は、非イスラム教徒が政府の役人を務めることは不可能になっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,362
    セファルディムは十九世紀初期に職人や企業家として、あるいは新たに農園を拓こうとパレスチナに移り住み始めた。十九世紀後半になるとイエメンやブハラからセファルディムではないユダヤ人がやはり移住し始めた。こうした移住はシオニストの運動とは無関係に進んだものであった。シオニスト運動が始まるのは十九世紀末のことであり、それもアシュケナジムたちの間で始められたものであっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,384
    主要な植民地主義勢力であるイギリスとフランスに敵対し、強力な民族主義を唱えるナチス・ドイツは、アラブ・ナショナリストたちにとって恰好のモデルであった。ヨーロッパのファシズムは憎悪に満ちた反ユダヤ主義を掲げていたが、それは伝統的なキリスト教徒のユダヤ人を悪魔と見る思想のうえに立ち、さらにユダヤ人が世界を支配しようとしているという陰謀説を流布してい


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,390
    一九三〇年代末にはユダヤ人の財産に対する破壊行為が日常化し、中東地域の多くの国々はユダヤ人にはもはや住むに適さない土地になってしまっ


    黄色のハイライト | 位置: 2,405
    ヴィシー政権の反ユダヤ法は北アフリカのユダヤ人に厳しく適用された。ただ、フランス保護領であったシリアとレバノンに対してはその法は及ばなかった。ここで注目すべきなのは、驚かれるかもしれないが、モロッコのスルタンが反ユダヤ法に公式に反対し、モロッコの領内のユダヤ人を保護すべくフランスに訴えようとしたといわれていることで


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,524
    一五一七年にマルティン・ルターによって始められた宗教改革は、キリスト教のユダヤ教に対する寛容さを増すように働くのではなく、むしろキリスト教聖職者の反ユダヤ教的な態度を一層強化する結果となっ


    黄色のハイライト | 位置: 2,525
    宗教改革運動の初期においては、ルターは教会批判の理由のひとつにユダヤ教に対する迫害を挙げていた。これは、教皇に対する攻撃と聖書以外の権威を認めないという彼の主張により、ユダヤ教徒をキリスト教に帰依させることができるに違いないという彼の目論見によっていた。しかし、実際にはそうしたことは起こらなかったため、一転してルターはユダヤ人を〝不愉快な害虫〟と呼び、キリスト教徒にユダヤ教徒に対する憎しみを植え付けるとともにドイツ各地からユダヤ人を排除することを支持し


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,539
    五四一年に創設されたイエズス会はユダヤ人に対し、改宗するように強力に迫る運動を繰り広げ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,544
    イタリア最初のゲットーは一五一六年にベニスにつくられたが、その名前を取ってそれ以降のユダヤ人居住区はすべてゲットーと呼ばれた(ゲットーという言葉はベニス方言で鋳造所を意味する。最初にユダヤ人居住区の置かれた場所がたまたま鋳造所のあった場所だったのでそう呼ばれるようになった)。イタリア以外でもそれ以前から壁に囲まれた形のユダヤ人居住区はいくつかの町で存在していた。有名なのはフランクフルトのものである。しかし、イタリアの教皇領とプロバンスで始まり、やがてイタリア主要都市に広まるにつれて、ユダヤ人居住区の標準的なものとなった。ゲットーの建設はこの後一七三二年まで続くことに


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,593
    一五七九年、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク地方はカトリック・スペインの支配から自らを解放し信教の自由を獲得した。一方その翌年、ポルトガルはスペインに併合され、ポルトガルのそれまで寛容だった異端審問所は一転して隠れユダヤ人を厳しく追及し始めた。そのためポルトガルの新キリスト教徒やマラノの多くがアムステルダムに向かい、さらにこれにスペインのマラノの流れが後に加わっ


    黄色のハイライト | 位置: 2,597
    こうして、アムステルダムが最高の繁栄を極めた十七世紀には、多くのユダヤ人が集まりまた豊かな生活を繰り広げたため、アムステルダムは〝オランダのエルサレム〟と呼ばれることもあるほどであっ


    黄色のハイライト | 位置: 2,661
    チャールズ一世(一六二五~一六四九年) の時代になると、マラノは人口のうえでも経済力でも力をつけていった。そして一六四九年の清教徒革命は彼らに対する政策を再検討するきっかけともなった。清教徒の旧約聖書に対する尊敬の念と、オリヴァー・クロムウェルのユダヤ人の経済力が国益にかなうという現実的判断は寛大な政策への道を開い


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,668
    クロムウェルは非公式ではあったがロンドンに小規模なセファルディムの社会をつくることを認めた。チャールズ二世も同様にユダヤ人に対して正式に居住を認めたが、その理由は、イギリスの商人を守るよりもユダヤ人を保護するほうが経済的にずっと大きな利益が得られると判断したからであった。こうして、十七世紀末までには、ユダヤ人は正式にイギリスに住むことができるようになっ


    黄色のハイライト | 位置: 2,677
    カトリック側の王や諸侯もプロテスタント側の王や諸侯もともに、一般民衆の意向をいっさい無視する形でユダヤ人から資金の提供を受け、引き換えに居住許可を乱発した。こうして、中央ヨーロッパにおけるユダヤ人社会はその数においてもまた経済的重要性においても一気に拡大し


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,680
    三十年戦争は、ユダヤ人の国家財政と軍事物資の供給への大々的な関与の始まりでもあっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,688
    そして、キリスト教徒の大衆からのわかりやすい敵意の対象ともなった。だが特筆すべきことは、彼らはユダヤ人社会の指導者でもあり、自分たちの有利な立場を利用して同胞の待遇改善や攻撃からの保護に尽力したことで


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,740
    フランス革命は、当初こそいくらかの迷いがあったが、結局ユダヤ人に対して非常に明快な選択の道を提示した。すなわち、もしユダヤ人が中世以来の閉鎖的なユダヤ人社会を放棄して、自らフランス人として文化的に同化しようとするならば、フランス市民としての完全な権利を認めるというものであっ


    黄色のハイライト | 位置: 2,743
    ナポレオンはこの方針をいくらか修正した。彼は一八〇六年にユダヤ人の有力者および大部分はラビたちからなるサンヘドリンと呼ばれる集会を召集し、宗教的裁定はこの集会の決議によって行われるものとした。そしてこのサンヘドリンはユダヤ人に対し、その生まれ育った国を彼らの祖国と見なすことを信仰的義務と定めた。そして、フランスのユダヤ人は他のフランス人を愛すべきであるとした。さらに、高利を取ることを断罪し、フランスの法定での判決がユダヤの法廷に優先することも宣言した。こうして、それまでのユダヤ社会の原則を否定した後、このサンヘドリンは閉会し


    黄色のハイライト | 位置: 3,037
    こうした様々な模索はそれなりの成果を挙げた場合もあるが、多くの場合ユダヤ人としてのアイデンティティから離れることができなかったり、あるいはポグロムに接して衝撃を受け、ふたたびユダヤ人としてのアイデンティティを再認識する結果となっ


    黄色のハイライト | 位置: 3,061
    その中で唯一このポグロムに参加しなかった軍隊はボルシェビキの赤軍であった。彼らはむしろその残忍な殺戮者たちを処罰する行動をとりさえした。そのためユダヤ人は赤軍を彼らの守護者と見なし、中には共産主義に対する共鳴からよりもむしろユダヤ人としての行動主義から共産党に入党する者も現れ

    メモと言うのは何かを隠した表現か。レーニンはユダヤ人。

    黄色のハイライト | 位置: 3,102
    一方、ポーランドは第一次世界大戦の後、独立国として再建された。従って、多くの東ヨーロッパのユダヤ人はロシアの共産政権に直接影響されることはなかった。ポーランドはその再スタートにあたって少数民族の権利の保障を掲げたが、様々な要素が絡み合い、結局反ユダヤ主義は残ったばかりでなく、一層激しいものとなっ

    メモアブラハムの祝福のネガティブな成就か。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,115
    一八八〇年頃に始まったヨーロッパからアメリカへの大量移民は、次第にアメリカのユダヤ人社会を世界で最も有力なディアスポラ社会に変えていっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,132
    七八九年にアメリカ合衆国憲法から公務員に対する宗教審査と宣誓を強制する項目が削除され、ユダヤ人にも連邦機関で職に就く道が開けた(ただ州によってこの項目が削除された年代は異なり、ニューハンプシャー州では一八六八年に至るまで、ユダヤ人が公然と公務員の職に就くことは難しかった)。宗教と国家の分離の意を込めた、アメリカ合衆国憲法修正第一条が一七九一年に批准され、ようやくユダヤ人に無制限の自由と平等が保障され


    黄色のハイライト | 位置: 3,256
    一九二〇年代初めに強い政治的勢力となったクー・クラックス・クランはその攻撃対象として黒人、カトリック教徒に加えてユダヤ人を挙げた。人種差別主義者の政府の役人はユダヤ人、イタリア人、スラブ人移民は北ヨーロッパからの移民と比べると能力的にも道徳的にも劣っているという主張をしようと、統計までつくり上げ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,259
    こうした一連の動きの帰結が一九二四年に制定されたジョンソン法である。この法により、東、南ヨーロッパからの移民がすっかり制限されることになり、ここにアメリカ・ユダヤ人の歴史の一幕が降ろされ


    黄色のハイライト | 位置: 3,274
    大恐慌はまた反ユダヤ主義をふたたびあおるきっかけともなり、そのため一部においてユダヤ人に対する雇用差別が表面化し


    黄色のハイライト | 位置: 3,278
    ニューディール政策はアメリカ政府自身が雇用主となるシステムを作り出したが、そこではユダヤ人に対する差別は存在せず、能力次第で多数の人々を雇用したため、多数のユダヤ人が職を得ることができた。フランクリン・ルーズベルト大統領は東ヨーロッパから来たユダヤ人に大変人気があったが、それはこうした政策とともに、彼がナチズムと反ユダヤ主義を拒否したためであっ

    メモ意外。何か裏を感じる。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,282
    一九三三年以降、ドイツにおいてユダヤ人の立場はますます悪化していったが、その結果三万三千人のユダヤ人がアメリカに移住し


    黄色のハイライト | 位置: 3,301
    こうして、アメリカにおけるディアスポラ社会は世界で初めて、ユダヤ人がユダヤ人として積極的に活動することが可能になった社会であり、時にディアスポラ社会にいることを忘れさせる社会となっ

    メモ著者の見解。

    黄色のハイライト | 位置: 3,351
    ナチスは革命やクーデターで政権を獲得したのではなく、ヒットラーも権力を〝強奪〟したわけではなかった。彼はユダヤ人に対する攻撃を含むその過激なメッセージで膨大な数の支援者を獲得し、その多くの支援者が一九一九年から一九三三年まで続いた民主的な政治システム(ワイマール体制と呼ばれる) のもとで彼を主役の座に押し上げたのである。一九三三年一月三十日、憲法の規定に則って首相となり、同年三月五日の選挙で四十四パーセントの支持を受けて彼の政権は(従って彼の政治プログラムは) 正式に承認され


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,367
    こうした動きの頂点となったのが一九三五年の「ニュールンベルク法」の制定で、この法により、ユダヤ人はドイツ市民権を剝奪された。この法律はまたユダヤ人の他人種との結婚を禁止すると同時に、他の制限や規則もユダヤ人に課し


    黄色のハイライト | 位置: 3,370
    一方、この間に強制収容所の建設が始められた。最初につくられたのは一九三三年ダッハウにおいてで、共産主義者、社会主義者、労働組合の活動家、エホバの証人の信者、同性愛者など政治犯や社会的に危険と見なされた人物や、ユダヤ人のうちで作家、ジャーナリスト、法律家など潜在的危険性を持つと考えられた人物を対象としてい


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,373
    一九三六年には、収容所はゲシュタポ(秘密国家警察) の管理下に入り、ゲシュタポは誰をも自由に拘留する権限を与えられた。そして新しい収容所がザクセンハウゼンとブーヘンヴァルトに建設され、翌年には単にユダヤ人であるという理由だけで収容されることが起こり始め


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,378
    またアメリカを含め大部分の国が移民に対し厳しい制限を設けてい


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,389
    しかし今回の厳密な非アーリア人の定義は、キリスト教に改宗した人間の孫の世代までもユダヤ人と分類していた。それは彼らが自分たちをユダヤ人とはほとんど考えていなかったにもかかわらずであった。中世においてはユダヤ人は改宗によって自らの命を救うことができたが、「ニュールンベルク法」から逃れる術は海外への移住しかなかっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,396
    ドイツにおけるユダヤ人の生存を決定的に脅かす出来事が起こったのは一九三八年十一月九日から十日にかけてだった。「クリスタルナハト(水晶の夜)」として知られる事件である。その夜、ドイツ中のユダヤ人の商店やシナゴーグが襲撃を受けて破壊され、ユダヤ人も大量虐殺され


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,404
    「クリスタルナハト」を契機として、ドイツにおけるユダヤ人の文化的、経済的生活は事実上終焉した。もはや海外への脱出の必要性を疑う者はいなかっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,409
    しかし移住制限を緩める国はなく、行き場のないユダヤ人が絶望的になったまさにその時を選んで、パレスチナを支配していたイギリスは、パレスチナへのユダヤ人の入国を制限し始めた(第十章


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,415
    そして一九四一年に移住が禁止されるとともに、ユダヤ人に対する政策は殺戮へと変更されたので


    黄色のハイライト | 位置: 3,417
    当時のポーランドは世界で最もユダヤ人が集住している地域であり、ユダヤ人の宗教的、文化的中心地でもあっ


    黄色のハイライト | 位置: 3,470
    ローマ法王のピウス十二世自身はけっしてドイツの反ユダヤ政策に抗議することはなかった。この西欧精神世界における最高の権力者であり最も影響力を持つ宗教指導者が抗議の声を挙げなかったことは、今日までわだかまりとして残って


    黄色のハイライト | 位置: 3,546
    また東ヨーロッパにおいてかつての居住地にようやく戻ったユダヤ人が、戦後まもなくポーランドやウクライナの都市部から起こったポグロムで多数殺される事件も起こった。これは戦争で物心両面において荒廃した東ヨーロッパの住人がその怒りを伝統的な憎しみの対象であるユダヤ人に向けた結果起こった事件であっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,551
    そして、連合国に対する戦いで国土は完全に壊滅したが、ユダヤ人に対する戦いでは完全に勝利を収めた。戦争が終わったとき、ドイツには事実上ユダヤ人はおらず、世界のユダヤ人社会の中心地であった東ヨーロッパはユダヤ人の墓場と化し、ユダヤ人の組織や施設は粉々に砕かれ、住人は殺されるかちりぢりに離散していた。ヨーロッパでのユダヤ人の生活は完全に終焉したので


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,604
    「ヨーロッパの病人」と呼ばれるまでに衰退していたオスマン・トルコ帝国は、すでにその領土の一部を民族運動によって失ってい


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,611
    その数は増大し、シオニスト運動が始まる以前の一八六〇年の時点において、エルサレムの壁の外(現在のエルサレムの中心街に隣接した地域) に新たなユダヤ人街を形成するまでになってい


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,638
    ヘルツルは一八九七年、スイスにおいて「第一回シオニスト会議」を主催し、この会議では「シオニズムはパレスチナの地に国際法で保障されたユダヤ人国家の建設が達成されることを切望する」という決議が行われ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,750
    第一次世界大戦後イギリスは、新たに結成された国際連盟から、ヨルダン川両岸を含んだパレスチナ地域の委任統治権を得た。委任統治の目的は同地域内の他の民族の権益も守りながらバルフォア宣言を実行することであっ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,758
    この戦後処理において、独立したアラブ王国をつくるというハシミテ家の要求は無視される結果となった。そうした彼らの怒りを部分的になだめるために、イギリスはパレスチナを分割してトランスヨルダン首長国を作り、すでにイラク王に即位させていたファイサル一世の兄ハシミテ・エミール・アブダラにそれを与え


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,795
    第六章でも述べたように、アラブの民族主義者は、憎むべきイギリスやフランスの植民地主義に対抗する存在としてドイツに親近感を感じており、さらにナチス・ドイツの反ユダヤ政策はパレスチナのユダヤ人を敵とする彼らにとって大きな援軍となっ


    黄色のハイライト | 位置: 3,797
    一方イギリスは、新たなヨーロッパ大戦の脅威を前にして、アラブ人をなだめるとともにパレスチナ支配を維持し、重要な港であるハイファとスエズ運河を確保しようとした。そのためアラブに対する配慮が強まり、当然のようにその分だけユダヤ人に対する配慮は減少し


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,812
    そこで一九三九年にイギリスはかの悪名高い「白書」を発表し、ユダヤ人のパレスチナへの移住を厳しく制限し、バルフォア宣言の実質的な撤回を行った。このイギリスの裏切り行為はパレスチナのユダヤ人居住地に大きな打撃を与えたが、一方イギリスも、同年後半に大戦が始まった際、アラブがドイツ、イタリアを支援するのを妨げるというその目的を達成することができなかった。こうして大戦が激化する中、パレスチナ問題は先送りされることになったので


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,835
    ユダヤ人代表機関やパレスチナのその他のユダヤ人公的組織は、こうした過激主義を人道上からまた戦略的見地から否定した。彼らにとってはこうした過激派の跳ね上がり的行動が自分たちの権威そのものを弱めることを恐れたのである。当初彼らはイギリス軍が過激派を逮捕するのにも協力したため、ユダヤ人社会内部の右派と左派の関係は完全に断絶した。過激派の暴力に対してイギリスは大量逮捕で応じ、さらにキプロスに不法移住者(彼らはドイツの死の収容所から解放されたばかりの人たちであった) を収容する拘留施設を建設した。難民船の中にはハガナーの助けでイギリス軍の封鎖をかいくぐって上陸に成功した船もあった。いくつかの激しい衝突があり、なかでもエクソダス号船上で繰り広げられた泥まみれの難民とイギリス軍との間の戦いは有名で


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,845
    ユダヤ人とアラブ人の相反する利害の調整をあきらめたイギリスは、事実上この問題を投げ出した形で国際連合に委ねた。一九四七年十一月二十九日、国連総会はパレスチナの再分割をめぐって投票を行っ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,850
    イギリスはこの案の遂行に協力しないことを表明したため、いまやこの案が実行されるか否かはパレスチナのユダヤ人と世界のユダヤ民族の手に委ねられたかたちとなった。イギリスの委任統治の終了日は一九四八年五月十四日と定められ


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,860
    イギリス軍はこの動きを傍観し、ユダヤ人の武装解除を進め


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,894
    アラブ諸国はイスラエル国家の存在を認めないばかりでなく、その名称を呼ぶことさえも拒否した。そのため数十年間にわたり、アラブ諸国の新聞ではイスラエルは「シオニスト組織」と呼ばれてい


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,978
    ハイジャックされた飛行機はテロリストの要求によりウガンダのエンテベ空港に降り立った。それに対し、ヨナタン・ネタニヤフ(後に首相となったベンジャミン・ネタニヤフの兄) に率いられたイスラエル軍特殊部隊は、大胆にも直ちにエンテベに空路向かい、テロリストに奇襲攻撃をかけて人質を解放し、イスラエルに連れ帰った。ネタニヤフはこの攻撃の際に亡くなったが、国民的英雄となり、殉教者として奉られ

  • 聖書の時代から現代までのユダヤ人の歴史が客観的に語られていて、しかも分かりやすい。

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