- Amazon.co.jp ・電子書籍 (144ページ)
感想・レビュー・書評
-
人間の尊厳について考えさせられる。
って言葉だけで書くのも安っぽいくらい。
苦しむことはなにかをなしとげること
意味あることをなしとげるばかりが
生きる意味ではないと知った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
この本は、かなり特異な経験を、しかも個人的な経験談として語ることに重きを置いているが、それなのに(それだからこそ)とても普遍的なメッセージを受け取ることのできる本だった。
私が特に重く受け取ったメッセージを2つまとめる。
①自分は自分であるということをそのまま受け止め、信じられるか
強制収容所でただの「番号」になり果てた被収容者は、「自分は何者かである」という自意識を保つのが難しい。「自分」というものの存在を外部に依存していると、収容所のような環境では感情や劣等感をコントロールすることが難しく、最終的に自分から無私の「番号」「モノ」になり果てる。ここにおいても、「自分はどう振る舞うか」「どう振る舞うべきか」「どう振る舞いたいか」を自分の意思で選択する自由を行使できる強さを持った人間は、人間としての自分の存在に対する意味を見出すことができる。
そういう意味で、ただ外部に身を任せ自分の意思を失うのではなく、「苦しみ」「悩む」ことができる人間は、「苦悩に値する」人間であると自分を認めることになり、生きることの意味を確認することができた。
以下、本書p112より抜粋
- 仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。-
②なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える
生きることから得られる何かを期待して「生きる意味」を問うのではなく、生きること自体が問いを与えてくるのであり、生きるとはそれらの問いに答え続ける義務を引き受けることである、と考える。すべての事象は意味のある人生の課題である。そして一人ひとりは、それぞれの苦しみを向き合いながら、唯一無二として存在する。
「生きる」ことは、人に何かを期待している(だからこそ課題を与える)。仕事かもしれないし、伴侶かもしれないし、子供かもしれないし、それは人によってさまざまだが、何かが必ずその人を待ちわびていて、人はそれに対する責任を負っている。こういった意識を持てると、「生きることに何の期待もできない」といって死んでいくことにはならない。未来の人生が常に自分を待っている。 -
いつか読むべき本だと思いながら、勇気がなくて読めなかった。でも、もっと早く読んでいれば良かったとも思う。
心理学者であるヴィクトール•フランクルが、強制収容所での被収容者の心理や精神状態を客観的に観察し記している。
本人自身も被収容者でありながら、ここまで学者としての知性を保ちながら、冷静に分析できる強さに驚く。私ならあまりの過酷さに、生きてるだけの状態でいるか、あるいは生き延びることを放棄してるだろう。
人間が極限の状態に置かれた時、どのようになってしまうのか。救いなのは、精神的にも肉体的にも地獄のような日々が続いても、美しい自然、ユーモア、愛が人を慰めることができること。そして、中にはごく少数であっても、人間の品位を保つだけでなく、内なる成長を遂げたものもいたそう。これは苦しみを乗り越え、悟りの境地に達したとも言えるのではないか。
読むかどうか迷っているなら、ぜひ読んで欲しい必読本です。正直、強制収容所に入れられてないだけで天国、今の悩みなんて吹っ飛びます(笑) -
第二次世界大戦中、ナチス占領下の強制収容所へ送られた作者の体験が記された本書。
作者が精神科医であったことから、人間の精神分析が詳細に描写されている。
極限状態に置かれた時、人間は自己防衛機能が働き無感情となる。
しかし、そんな状況でもユーモアを持ち、芸術や自然の美しさに触れることで精神を保つことができる。
どのような状況に置いても、どう振舞うかはその人自身の意思により、この決断の自由は誰にも奪うことはできない。
私たちが生きることから何かを期待するのではなく、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題である。
まさに極限状態にありながら、生きることを諦めず生き延びた作者の精神分析、そして言葉の数々は経験していない私が簡単に言い表せない深い重みがある。
本作を折りに触れ何度も読み返そうと思う。 -
アウシュビッツ強制収容所で、自分が生きているのか、死んでいるのか、そんなギリギリの生死を彷徨っている描写が、とてもとても生々しく、心にずっしりと、読み終えた今も余韻がすごいです。
平和な世界で暮らす私にもなぜか他人事には思えない、生と死の間にいる感覚を感じることができてしまいました。
衣も食事も与えられず、骨と皮でただ働くだけの日々。
しかし、全てを奪う彼らにもただ一つ、奪えないものがあると。
それは、妻との対話だと言っています。
もちろん妻も生きているかわからないのですが、確かに心の中で妻と対話ができたといいます。
本当に人間が極限になった時、人に残るのはそれだと、、、精神的なものなのかもしれないけれど、でも医学では証明できない心で通じ合うものがきっとあるとわたしは信じたいです。
記憶だけは誰にも奪えない、自分の自由なものであり、人生の出来事や思い出をとっても尊く感じました。
記憶の中では誰でも自由なのです。
そして、人生で死に際に残る大切なものって多分記憶とかなのかなと思います。
アウシュビッツ強制収容所で著者が経験したこれらのことは、絶対に人が経験してはならないことでしたが、そこで感じた人間の限界は本当に希少なものだとも思います。
恐ろしい現実なのに、わたしは1日で読めてしまうほどに黙々と読めました。
重い内容ではあるけど、とても重要な本だと思います。
辛い過去を語るのにトラウマもあるだろうに、世界に伝えるため、書籍にしてくださったこと、心から感謝します。
-
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル
読もうと思って、読めていなかった本で、今回オーディオブックで見つけて、通して読むことができた。
・強制収容所を想像すること
強制収容所での過酷な日々について、朗読で聴いていると、私の想像では、映画『ショーシャンクの空に』の監獄生活を思い出したり、『シンドラーのリスト』を思い浮かべたりした。そしてなぜだか、ピカソの「青の時代」の作品のような、タッチで痩せた人々を、思い浮かべたのであった。
・希望をもって生きる
12月25日から、正月にかけて、強制収容所では、それ以前までの期間と比べて、亡くなる人が多い、という話があり、それは、クリスマスまでに解放される、という希望を持っていた者が、それを裏切られたときに、命が潰えてしまうことが多く、つまり生きるということは、その極限的状況にあったとき、最後にたよりにするものは、「希望」に他ならない、ということだった。
・絶望しても生きる意味はあるか
このような、極限状態においても、「生きる意味」はあるのか、と著者は問い続けたが、結論として、彼は「コペルニクス的転回」が起きた、と話す。つまり、生きる意味、というのは、問い続けることになく、したがって求めて得られるものではなく、つねに瞬間瞬間に作りだされねばならない、ということだった。
ここに、本書の核心部分はあり、平和な日常を生きる現代日本の私にも、つよく訴える箇所であり、学ぶところが大きい、と思われた。そして、実際、この箇所を聴いていて、私は涙があふれてきたのであった。
・生きる意味を問う、生きることに問われる
生きる意味を問うのをやめ、生きることが問うてくることに対して、つまり実人生での要請に対して、必死に行動で、処していくことが必要である。生きる意味などという、抽象的で、漠然とした、一般的な生などというものはなく、常に現実は、われわれにとって、一瞬一瞬かわりゆき、それゆえに宇宙でたった一度きりの、唯一の現象である。その時々において、われわれは、この現象の「問い」に対して答え、要請に対して義務を果たすだけである。
・著者の観察する目
さて、こういった議論が、彼によって行われるが、これを聴いていて、内容が耳に入ってくるのは、それが理路整然としているからである。そして、強制収容所での出来事について、理路整然と、客観的に、冷静に「観察」する目というものが、生き残るには、必要だったのではないか、ということも、思ったことのひとつである。
・現代社会と『夜と霧』
新版の訳者が、あとがきで書いているが、旧版にはなかった、新版で書き足されたところに、強制収容所のナチの看守の側にも、「善」き心を持った者もいて、ある「悪」の集団がいて、ある「善」の集団がいたわけでなく、それぞれの集団に、ひとりひとりの決断において、「善」と「悪」を試されていたのだ、という内容がある。このことを訳者が推測するに、この書がユダヤ人の過去の「被害」を証したてて、それゆえに現在の行いが、許されるものではない、ということを、イスラエルの現状を知るに至って、書き添えてみたかったのではないか、ということである。
その話を聞いて、自分の「人生の意味」だけでなく、現在の世界について、考えなくてはならない、課題がそこにある、ということに気づかされる。そして、その世界の課題は、考えるのではなくて、行動することを要請しているのであり、義務を果たしていかなくてはならないものなのだ、ということは、前述のとおりである。
・生きる意味を求めるのではなく、求められていることに対して生きる
内田樹の『街場の米中論』では、「自由」の名のもとに利益を追求したり、「平等」の名のもとに権利を主張したりするのではなく、「友愛」をもってして共同体への義務を果たすことが大切と書かれていた。中田考の『どうせ死ぬ』でも、共同体で困っている人がいたら助けることが、イスラームの世界では、基本であると説かれていた。
この『夜と霧』でも、通底するところがあって、それは、現実へと義務を果たしていくことだ。大切なのは、生きる意味を求めるのではなく、求められていることに対して生きることに、自覚することであろう。そして、生きることに、「然り」、と言おう。-
あなたが書かれている「生きる意味を問うのでなく、求められることに対して生きる」と言うのは本書のキーワードでもあると思いますが、いったいどう言...あなたが書かれている「生きる意味を問うのでなく、求められることに対して生きる」と言うのは本書のキーワードでもあると思いますが、いったいどう言う意味でしょうか?私はこの点がさっぱり分かりませんでした。
また著者は「強制収容所から解放されて自由に生きる」と言う明確な希望がありました。
しかし表面上は自由であるが、社会や将来の要求に従い、日々を忙殺される私達に希望があるのでしょうか?2025/01/19
-
-
ナチス下における強制収容所という、歴史的人道的に非常に過酷な環境において、人間心理におけるさまざまな困難苦難を心理学者の立場から描写している。
強制収容所の非人道的なあり方が恐ろしいというのはもちろんあるが、それ以上に、人間の内面のあり方についての記述が興味深かった。
強制労働をしながらも、伴侶を心に思い描き、伴侶への愛を深く心に感じ、そのことを「究極にして最高のもの」と実感する、という場面は強く印象に残った。
つらい環境でも、内面の精神性を意識し、生きることの意味を噛み締め続けるということ、言葉にしてしまうと簡単なのだが、自分が同じ環境で同じように振る舞えるか、自分自身をそのように見られるか、という問いは、これからもなにかあるごとに思い出すのではないかという気がする。 -
もっと早く読めばよかったと思う反面、今このタイミングでなかったらこんなにも心に響かなかった一冊。これまで言語化できなかった思いを刺激されて、ようやく一歩踏み出せそうな予感。
「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」(スピノカ『エチカ』)