寄生獣 セイの格率 Blu-ray BOX I

監督 : 清水健一 
出演 : 平野 綾  島﨑信長  沢城みゆき 
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  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988021729505

感想・レビュー・書評

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  • 以下、ついったに投稿したものと(ほぼ)まるっと同じですが、いちおうここに書き留めておきます。例によって、各話ごとに感想を書いたり書かなかったり。

    縁あってアニメ『寄生獣』全24話を見ることになったので、これから感想をメモっていきます。たいへん面白かった……もうわかりやすくこういうテーマ大好きなので……盛大にネタバレしていますが、地上波の放送おわってると思うので、普通に感想を書いていきます。時間的にも早朝だし、大丈夫かな。

    まず5話までの感想:
    もっとも印象深かったのは「人間と動物≒寄生生物との差は何か」という問いに対し、新一が出した答えが「人間は己の利己的な理由以外で、我が身を挺して同族を助ける」ということだったこと(5話)。ただコレは動物でも行うんですよね。種によるけど。

    逆に同族をいじめ殺すことも、動物界では確認されている(ゾウとか)。利他的な理由で自殺的とも思える行為をする動物も確認されていたはずで(これはネズミだったかな)、ミギーの言うとおり「珍しい」けれど、自殺も人間特有の行動ではない。

    物語は寄生に失敗したミギーとの共生に甘んじつつ、それでも己を人間だと信じていたい新一が、人間とは何か、肉体によらず人間を人間たらしめる要素は何か、模索するところから始まるのですが、ミギーがそれとなく示唆するように、おそらく結論は人間の特異性をアピールする方向にはいかないだろうな。

    これまでの重要なエピソードを整理すると、①ミギーの寄生が中途半端なのは新一が機転を利かしたため(人間は寄生生物に対抗可能)、②田宮良子(寄生生物でありながら高い知性と人間への強い興味から人間と一定の距離を保つ。捕食のためではないが生存のためなら殺人を犯す。すげえ打算的)

    ③新一はすでに述べた通り、人間と動物との違いは感情の有無、特に利他的行動をとれるところであると思っている。寄生獣は動物で、人間は動物より一段高いという前提がある。④恐らくミギーは人間特有と新一が思っている行動や思考を「珍しいが、他の種でもありうる」と考えている。特異性の一部否定。

    6話:
    ミギー「右手に戻る」このインパクトちくしょう……心臓なおしたあとヌルッと腕が生えてくんのかと思ったら「血管を伝って」地道に「右手に戻る」ちくしょう……ほんと行き届いた奴だちくしょう……

    あと、6時が来たら皆さん起床されると思うんで、念のためネタバレ警戒で呟き停止します。

    5話でも寄生獣を見たら通報を考えつつも怯えるだけだった新一が、脳を奪われているならその人は死んだも同然だから殺さねば、というふうに考えが徐々にシフトしていたのが、この段階で明確に「殺してやる」へ変化。優しかった母を旅先で殺され、寄生獣に体を乗っ取られたことがきっかけ。

    きっかけではあるけれど、ミギーによって少しずつ寄生生物との戦いに慣らされ、殺人、というか、寄生生物にのっとられた人間を殺していくことに慣らされていった結果、警察へという、第三者に依頼する気持ちから、己の手で裁く、という私刑の方向へ考えがシフト。そして母の死が決定的な引き金になる。

    そいや気になってるけど、漫画とかじゃ、先生や警察と言う第三者、大人に助けを求めるのはダッセェ! て描写、よく見るけど、自分にできることの効果と限界、他人を頼ることの効果と限界を考えて、適切に手段を選択するのがいちばん賢いと思うので、良い子の皆さんは大人を頼るのも手のひとつだよ。

    新一は、妻の死を自分の転落のショックで見た幻覚だったと主張し始めた父に「自分も見た、父さんは正しい」と言えない理由を「ミギーさえ、人間の本当の味方だったら」ツライ……あと、この「人間の本当の味方」というのが気になる。人間同士でもやるよね。A子がB子のグループだったらとか。

    「人間とは何か」って盛大な「俺って誰」問題よね。「俺って誰」問題の解決がしばしばオンリーワン★ という言葉でなされるのは「人間とは何か」問題に置き換えて考えると、一層の傲慢さを感じるけど、正しくもある。オンリーワンとはただひとりのことであると同時に、たったひとりのことでもある。

    先日、物語のラスボスとライバルの性格が時代とともに変化しているというお話をRTさせていただいたのだけど、これの中にもオンリーワン→ロンリーワンをイメージさせるものあった気がする。オンリーワンだから利己的にも利他的にもなるけど、ロンリーワンでも利己的にも利他的にもなる。

    あー脱線したけど6話ツライ。現実を否定する父とさまざまな打算と気持ちから動けない息子の葛藤ツライ。あとミギーは「君が私に敵意を抱いている以上、君は敵なので、私も打算的に行動する」なんだよな。新一さえ許せば、ミギーは初期から信頼できる存在になりうる。ミギーはほんとよくわかってる。

    そして母に擬態した寄生獣に襲われ瀕死のところをミギーが己の命を危険にさらしてまで助けてくれた件で「命の恩人だ」と新一は言うけど、そのちょっと前に「ミギーの眠っているいまなら」とやっぱり打算的にふるまっている。ソレもミギーはたぶん見抜いている。人間の特異性とかないよねこの時点で。

    この時点でミギーが人間の感情をどの程度 理解しているのかは不明だけど、感情と言うものがどういう行動を生むのか、どういう考えを生むのか、そこに関しては充分に理解している。ミギー、この調子なら最後には人間の気持ちとかシッカリ理解し始めるんじゃないか。感情を持つんじゃないのか。

    逆に言えば、寄生生物は脳を最初に食べてしまうので、感情を理解できず、打算的にしか動けないのかもしれない。脳を残すか、あるいは脳を持つものと対話を続けることで感情が理解できていくというなら、田宮良子も最終的には感情を理解するようになるのかな。人間も成長と共に感情をもつしね。

    ミギーが感情をどの程度 理解しているのかによって、ここでの「あくまで私も打算」というスタイルが真実なのかツンデレなのか判断が分かれるな。個人的には事実を客観的に語った7:新一への警戒2:ツンデレ1くらいかと思っている。

    「新一、念を押しておくぞ。いいんだな、殺して」「いい! あんな奴がこの世をうろついてるだけって想像するだけで、たまらないんだ」ツライ。ミギーがわかっている奴だけにツライ。

    あと8分で6時なので、今日は6話まででおしまい。また本日のあまり人のいそうにない時間を狙って投稿しよかな。

    (4/3、AM 6:00までのもの)
    これからまた追記していきます。ネタバレしゃべってますので、字が白に変更できない ついったでは鍵つけて喋ってますが、また備忘録的に、ここに追記すると思います。

    とりあえす深夜で あまり人もいないようなので、アニメ版『寄生獣』感想でものっけてこうかと。感想、さいごまで書き終わるものもあるけど、ときどき放り出しちゃうものもあって、これまでもここで本や映画の感想、途中でほっぽってるものもあるので、コレは最後まで いくんだろうか どうかな。

    7話:
    人間とは何か問題。寄生生物側からすると「感情があるのが人間の特徴」寄生生物は最初に意識が目覚めたとき、やらねば! と本能的に思う、そう指令されたかのように思うのが「人間の脳を食べて寄生しろ」たぶん人間の赤ちゃんが生存のために笑顔を覚えるのと似たようなもの なんだろうか。

    ミギーは訓練で分裂でき、分裂したもの同士、別の自我を持つことができる。が、分裂した個体数が多ければ多いほど、新しいものほど知能が下がる。分裂しすぎると最後のものは思考もできず、干からびて死ぬ。血液供給の可能な宿主の体内ではその限りではなく、知能も維持。自我が別ってクローンぽいな。

    クローンなので身体は互換可能だけど、自我は共有されていない(独立している)ので、メンタル的には別人。身体の他の部位と同様、脳も同一のはずだけど自我は異なってる。ただ、別の自我を持っているくせに、ナチュラルにまた同一の存在へ戻っていけるのがミギーの特徴。己の存在にこだわりがない。

    「母さん、いまその化け物を、切り離してやるからね」新一にとっては遺体を取り返す、母を解法するという意味もある。ただ、殺意をもって母の体を切り刻むのには変わりないので、宇田さんとその友? が「あれはもう君の母ではないけど、君が殺しちゃいけない」己の手でやれ、という人もいるだろうな。

    報復殺人はいけないけど、困った人を助けて殺すのはOK、というのが、この時点でのこの物語の殺人に関する線引き、なのかな。心理的影響を踏まえて、仇討だからこそ自分の手でやったほうが、という場合と、仇討であるからこそ自分の手でやってはダメ、という場合とあるけど、どうなんだろうね。

    法的には仇討も許されてないんだけど、それは治安維持的な意味で当事者の心情に配慮してのことではないしね。当事者的には、自分の手のほうが、と思わなくもないけど、仇討される側からすると、自分のせいで息子の手を汚させてしまったと思うんだろうな。

    ついった上では今回が2度めくらいになるけど、ときどきこうやって1話ごとに感想かくことがあって、文章ながくなるのはこれまでも気にしてたんだけど、今回はリアルタイムで書いたものが共有されてしまうので、どうしても誰かのTL汚すかも、と気にしてしまう。鍵かけても気になるなあ、やっぱり。

    8話:
    脳をミギーと共有してしまった場合、それは果たして本当に新一なのか。母=「ご飯を作ってくれる人」がいなければ、金で家政婦を雇えばいい、なんて発想、たしかに新一らしくはない。同時に喪失感を感じてもいるようなので、母の死のショックによる、一時的な感情の鈍麻ともとれるけど。

    そして死んだ犬をゴミ箱に捨てる事件。埋葬し直しても「村野に嫌われないよう」したまで。感情の鈍麻や思考力の低下みたいなのは、ふつうにショックなことを経験した人間にも起こりうる反応なので、この時点では何とも言えない。今日は5時半くらいを目処に切り上げようかな。TL汚してもいけない。

    9話:
    寄生生物は、ただ襲って食うばかりでは、いずれ己の身を滅ぼすので人間との共生を考える一方、己の存在意義については人間が我が物顔で地球を闊歩するので、人間を捕食し、生態系のバランスを保つため、と理解している。そして新一のいまの状態、病院の受診を勧められてもおかしくない。

    10話:
    暴走した島田を止めに行く新一が「島田を見過ごした責任だ」と述べたこと、さらにミギーに「島田に罪はあると思うか」と尋ねたこと、人間であるための重要な要件として、社会性が提示された回。

    人間の特異性としてミギーら寄生生物があげたのが感情があること、そしてこの社会性があること(直接言及してはいないが、社会性自体を非合理的だと理解できないようだった)、そして新一の側から提示されたのが利他的であること。

    でもミギー達も共生の道を考える者がいる以上、そして同族でも話し合って戦わないなどの約束を結んで守れるのだから、社会性はあるだろう。他者とコミュニケーションして生存率をあげる営み。感情はないかもだが、利他的な行動はとれるよね、主に利己的な目的のためにだけど、利他的に振る舞える。

    いろいろ、人間と寄生生物との違いを示してくれてはいるのだけど、そのすべてが、エッでもミギー達もそうやん? て思えることばかり。感情に関しても、順調にミギーは(共感してなくても)理解していっているように思える。結局のとこ、人間とあまり変わらないように見える。そこが本作の狙いかなー。

    さてアニメ版『寄生獣』10話、感想つづき:
    自分が同じ立場ならどう思う? と問われて己の利己的な思考や行動を矯正できる点が人間特有だとミギーは最後に示すのだけど、これもある種の社会性よね。やっぱり10話は総括して、人間を人間たらしめる条件のひとつは社会性であると提示する回だった。

    同、10話感想続き:
    ただ個人的には、共感能力も社会性も、生存のために磨き上げてきた能力で、そうである以上、完全に利他的ともいえないし、社会性もミギー達の社会性とそう違うようには思えない。やられる前にやれ、要らぬ争いは避けろ、ミギーの掲げる信条も、ある種 道徳的なものかもと思う。

    そもそも、当初ミギーが人間に特異だと述べた社会性も、効率的に種全体が生き延びるためにつくられたものだよ、という意見は人間側からも出てて、もちろん、何が善いか悪いか、道徳的なものをあらかじめ人間は知ってるし知る力があるんだよ派もいるけど、現実的には前者かなと。

    ミギー達の種もしばらく地球上でウロウロしてたら、社会性を身につけてってるみたいだし、そうなればそのうち罪と罰の概念だって必要性を感じるかも。そうすると責任という言葉の意味もわかってくるのだろうし、やはりそれほど人間と違いがあるようには思えないなあ。そう思わせるのが狙いだろうな。

    11話:
    加奈ちゃんアカン……なんこのめっちゃ危ない子……めっちゃ状況判断できてないやん……どゆこと……と思わず書きこむくらいには危なっかしいなこの子笑 好きやけどこういう危なっかしさ でもなんかハラハラするわめっちゃ……

    政府やメディアがどう動くか、ということに関しても、抑制的な報じ方を描いており、なるほどなあと思う。この段階で寄生生物側はすでに社会性を持って行動しており、組織の上下関係もある。きわめて人間的に振る舞っている。人間との差異を段階的に崩す描写が入ってくるなあ。巧いなあ。

    今回は人間特有のものとして「誰かを愛すること」が挙げられている。ミギーと心をシェアしてなお、人間の部分の新一は里美が好きで、(新一いわく)ミギーのせいで「好き」という感情に存分に溺れきれないことを「俺がこの子と仲良くしてるとき、ずっと眠っててほしいよ、ミギー」と悔やんでいる。

    ここで思い出されるのが、田宮の繁殖テストのためのセックス。愛もない、見ず知らずの通りかかった同類と繁殖できるかテストしてみて、己の存在意義や人間との差異などをつきとめようとしていた彼女に、あの段階では愛情なんてなかった。

    確かに、描写としては説得的に描かれているんだよね。感情があること、愛すること、これらは、社会性と違って作中でもそれほど決定的に覆されることはない。一方、社会性に関しては、人間の政治運動をやってのける集団の寄生生物と言う描写で、徹底的に否定している。

    12話:
    おもしろいのはミギーの提示した①人間にとけこんでいるうちに本当に人間の抱えている諸問題に興味を持った②人間社会へ政治参加することで、自分たちの居場所と食料の効果的な確保に乗り出した、の2説のどちらに転んでも、見事なまでに人間的な社会参加の仕方だということ。

    今まででいちばん泣いたなあ12話。これ、新一の心が凍ったようであることと、寄生生物は感情を持たないことを同時に描写するから、動物と人間の差異は感情の有無である、と読ませるようにできてるんだけど、実際には、相次ぐ大切な人の死で感情鈍麻に陥ることは普通の人間でも充分にありうるのよね。

    つまり感情が鈍麻し、普通なら何らかの精神的な病を発症するところを、全身に散らばったミギーが補完し、宿主である新一に機能不全を起こさせないよう対処している、とも取れる。無意識的にでも、欠落した心を埋める能力が寄生生物に備わっているととれる。

    そうなると、これは新一が人間ではなくなってしまったことの否定にもなりうるし、心を補完した以上ミギーが感情を持ちうることを示唆するものでもあるんだよね(実際もつかどうか知らんけど)。感情を持つことが人間特有である、という一連の流れを補強しもし、逆に否定しもする。

    それにしても、加奈ちゃん最後まで危なっかしくて、最後まで夢見る乙女だったので余計につらいなあ。そしてオープニング映像、なぜママと加奈ちゃんが、と思っていたけど、あそこ、死亡枠だったんだね。ツライ。オープニング映像の謎がどんどん解けてって、ツライ。

    さてアニメ版『寄生獣』感想つづき13話から:
    最後に里美によって、というか一貫して里美は、無理しているから感情が消えたように見える、本当は感情があるくせに、という態度を貫き、新一の感情鈍麻はミギーのせいでなく、普通の人間にも起こりうるものだと示し続けている。ほんとによくできてる。

    14話:
    宇野さんとジョーにたいへん癒されるんだけど、ここで提示される人間との差異「名前なんてどうでもいい」個体の識別は信号を出し合って可能なので、特に個体名をつける必要はない、ということ。人間は個体識別のためじゃなく、さまざまな感情をこめて名を付ける、という示唆。

    作中で分裂しては融け合う描写もあるけど、個体の信号を人間よりはるかに高い精度でキャッチできるというのに、個体としてのこだわりがないんだよね。個人であること、確立した自我を持つこと、に対して、無頓着に見える。あれほど個性的なのに。人間との差異としてコレも描写されてるんだろうな。

    15話:
    わーお作中でドーキンス先生の『利己的な遺伝子』が解説されてる……やっぱり寄生生物たちにとって社会性も、それから感情ももちうるもの、という方向にいくんだろなコレは。田宮さん改め田村さんも感情もちはじめたしな。

    16話:
    田村さんが同族に危険視され殺されようとしている理由が、自分たちと考えを共有できないからで、これってもう立派な同調圧力では……と思いながら見ているんですけど、足並みをそろえて多数派に所属していなければ粛清されるなんて、それもう完全に人間と変わらないですよね。

    人間と変わらないというか、動物である以上、人間も他の種族も変わらない、というところに落ち着きつつある。丁寧に差異の可能性を積み上げては崩していく、おもしろい作品だなコレ。

    17話:
    ある程度の範囲はありつつ、それほど個体差がない≒ゆえに名前が必要ない、というのが寄生生物側の共通認識だったのが崩れていく過程、まるで自分と同じものしかいないと信じ込んでいた子どもが、自分とは違う人間がいることに気づいて多様性を学んでいく過程みたいだ。

    ああしかし加奈ちゃん以来に泣いた。倉森さんの死んだ日。ただ状況的には、どちらかといえば人間寄りの田村が最初に警察に目を付けられることになったのはマズイようにも思うのだけれど。田村さんも明確に愛情をもちはじめましたね。そしてミギーもそれを感知した。

    んん 本日は感想文ここまでだな。あと2日くらいで終わりそう。まとまった時間が取れるのは、今週をのぞけば、あとは半年後……イヤ1年後とかになるかもだから、連続して感想かく機会は もうあんまないかも。あとやっぱり、感想文を投下するツールとしては向かないなついった。

    (4/6 AM 5:30までのもの)

    アニメ版『寄生獣』18話:
    やっぱり感情ですらも人間に特異なものではないという方向にいきましたね。「人間と我々でひとつの家族、我々は人間の子ども、人間なくして我々は生きられない」という田村の話は、寄生しなければ生きられない現実を、かなり謙虚に受け止めた言葉であるように思う。

    これまでの寄生生物と言えば、人間は食料、という徹底した見方で人間を見下し、おそらく体を乗っ取ることも、「寄生せねば生きられない己の弱さ」ではなく「下等生物を飼いならし食いもする優れた農場主」という傲慢な理解でいたはずなので、田村の理解は斬新だろうと思う。

    寄生せねば生きられない、という己の在り方を弱いと感じたがゆえに、守られねば生きていけない赤ん坊と自らを重ね合わせ、人間を親、己を子とおくことができた。未熟ながら子育てを通して、育てられている自分の存在を自覚することができた。これがたぶん、田村の考え方だろうなと思う。

    それと同時に、新一のあの一見冷たく思えた態度は、母親の死を受け入れることができなくて感情が鈍磨していた、と明確に示された。寄生生物の感情の芽生えと同時に、新一はショックから感情が鈍磨していただけだし、その感情ですら、人間特有のものではないと示された。

    さて田村さんがなぜ人間の姿のまま死んだかと言えば、もう人間と自分とを変わらない、むしろ己を人間によって生かされている存在で、ゆえに共存を目指すので正しかったと悟ったため、ですよね。己の目指した姿で己の目指した生き方をしたい。人間と変わらぬ存在として生きたい。人と共存したい。

    人間と変わらぬ存在として生きるためには、人間の前では人間でいなければならない。人と共存するのに、武器は要らない。自分から武器を捨てることで、己に敵意のないことを示す。共生の可能性を示すために、共生しうる存在として、人の姿を崩さない己の姿を警察にも新一にも示す必要があった。

    これからさき田村と異なる考え方の寄生生物が幅を利かすであろうことを予見し、たとえ例外としてでも、己のような寄生生物もいるのだと、共生と言う目的のために示す必要があった。自分のような存在も今後きっと出てくるから、そのときは共生を考えてみてくれと伝えるために。

    ううん18話も泣きましたが、重要な話で、ポイント盛りだくさんだった。田村さんを見ていると、寄生生物とは情緒の発達に追いつかないスピードで高すぎる知能を手に入れた、天才少年か何かのように思えば、しっくりくる部分が大きいように思う。

    作中の描写としては、命の循環をイメージさせることで、母親とともに自分が生き、いまも変わらないことを思い出させ、欠落した母親のイメージが戻ってくると同時に、母の死を受け入れることができた、ということになっている。

    19話:
    「他の動物なら普通もってる」能力として、同種を見分ける能力≒「野生の勘」が、動物にはあるが人間にはない、動物寄りの浦上にだけそれはわかる、という趣旨の文章を前半で浦上に喋らせている。同族とそうでないものを見分けられれば、それは野生、人間的ではない。

    20話:
    ああ、あのやたら並んだ大型車両、殺した後の血を隠すためだったのか……あれ実際にも活用されてるんだろうか だろうな 田村さんの奮闘を無に帰す見事なまでの人間の振る舞いなのだけれど、あの状況下で他にどうできたんだ感も凄い。アウトやけどアウト言いきれん。

    21話:
    なるほど。広川、おもしろい。真に地球を守りたければ人間の数を減らしたほうが良く、その役目を負ったのが我々である、という理屈を寄生生物に与え、寄生生物の権利を人間の様式を借りて勝ち取ろうとした人間。なるほど。

    広川の求めている物は、美しい食物連鎖のピラミッドであって、ピラミッドの上部が異様に拡大したかに思える現在の状況は気に食わない。そこで寄生生物を利用し、ピラミッドを正しい三角形に戻そう、ということ。決して弱肉強食の否定ではないんだよね。

    バランスのとれた範囲で弱肉強食を行うなら正当化されうるが、頂点の異様に肥大した弱肉強食はバランスが取れていないのでアウト。でもそういうバランスが崩れ、変化した環境に適応した動植物が生き残った歴史、でもあるんだよね。

    絶滅した種はこれまで数多くいて、それは人間の繁栄と無関係ではないものも多いけど、人間の繁栄とは無関係なものもある。広川の主張は、その意味ではある一時点、彼の正しいと思う、ある一時点を保存することこそが大切とも読み取れるわけで、地球上の環境の変化そのものを否定していることになる。

    でもそれは生存の否定でもあるよね。変化しないものはない。地球環境だって日々刻々と変化していて、それは人間の干渉だけによるものじゃない。人間の干渉によって変化するもののみを排除するとしても、それでは人間は「自然」に含まれないことになる。人間は人間であって自然ではない、ということに。

    人間とは自然とは異なる、優れている、という立場に立脚していた近代から脱却し、人間も自然の一部と捉えるようになってきたわけで、そして「人間」と同じ存在が動植物にも拡大していき、人間の特異性を否定するようになったのが近年。むしろ進化論の浸透に限れば、20世紀に入ってから。

    たしかこの作品の原作がつくられたのは80年代後半~90年代。広川というキャラクターも、2010年代に初めて誕生したキャラクターなら、また違うことを言って政治活動に寄生生物を巻き込んでいったのかも。

    それにしても、人間との融和路線のとれそうなキャラクターから(人間も、寄生生物も)死んでいき、謎のキャラクターほど後に残るんだなあ。ただ後藤もアレ、戦いを仕掛けねば戦ってこない相手なのではないのか。

    そして21話は最後がセックスのシーンで締められて、タイトルは「性と聖」なんていうかもうこの時点で結論としては、人間だって弱肉強食の世界で生きるしかない動物で、「きれいごと言ったって他の種族を踏みにじって生きてる」という新一のモノローグがすべて、なんだよね。

    結論としては、やっぱりココに辿りついたか、という感がありつつも、そこに至るまで丁寧に可能性をあげては否定し、を繰り返す、緻密なつくりだったよなあ。副題の謎も解けた。共通項を「生≒性≒聖」その他諸々と置いて、「セイの格率」なるほど。

    こういう、「人間とは何か」を問う作品って2つの流れがあって、人間も所詮、他の動物と変わらんよ、という路線と、それから人間ではないような扱いをされた存在が、俺たちだって人間と変わらんよ、という路線とがあるよね。どちらも方向は違うが、一体化を目指す。

    実際には人間と、人間外の存在とは、双方向に一体化の可能なものなんだ、ということなのだけれど、じゃあ一体化の出来ない存在ってなんだろ。鉱物とかかな? でも身体の成分すべてが無機物である場合でも、「効率よく存在を保持しようとする」のは同じなんだよね。

    22話:
    ミギーの独白がツライ。「友達」「楽しい思い出」「孤独感」立派に感情を持っている。そして今更ながらにミギーの声の方は、本当にこう、うまい。毎週ミギーうまいなあと思っていたのだけど、今回でお別れかもしれないので書いておく。村野さんもうまいですよね。聞き入る。

    23話:
    新一の出した結論は「どっち側とか関係なく、単にこれ以上だれかが殺されないため」この誰かにはミギーも含まれているわけで、だから種をこえてはいるけど、やっぱり「身内びいき」なんだよね。これ以外の正当な理由を持ってくるの、とても難しいけど。

    「この種を食い殺せ」というのも感情で、それは脳を食えなかったミギーにはない感情、とミギーは定義。本能も感情という理解。なら最初から寄生生物にも感情があったということに。後半になってあからさまに、「感情」という言葉が頻出してきて、これまで使われなかった分野でも使われ始めている。

    新一「人間とそれ以外の、命の目方を誰が決めるんだ」まさに。どのような生き方が望ましいか考えたところで、それをスパッと決められたら苦労はしない。そして散々なやんだあとで「君は悪くない」と言いながら、「別種」である後藤を殺す。「別種」というか「身内ではない」から、仕方なく殺す。

    「天に任す」と言いながら、「殺したくない」と思いながら殺すというのは、天に任せた結果の人間の現状を肯定することでもある。人間が環境問題に取り組むのはエゴ、広川がある一時点の保存に邁進しようとしたのもエゴ、誰かのために後藤を殺すのもエゴ、天に任されたエゴ。

    「天に任す」というのは結局すべて、生きる者すべてがそれぞれにエゴを貫いた結果なのだ、というのが23話での結論。それが「自然なこと」であれば、許される。人間のために、人間にとっては害獣でしかない生き物を殺すのも、「自然なこと」だから許される。んー ちょっとズルい論理な気もする笑

    24話:
    「多種族のことなんてわかるわけがない、わかったというならそれは勘違いで、思い上がりだ」「究極的にはすべて個人的なエゴ」「人間が諸悪の根源と思うこと自体が思い上がり」という結論が出ましたね。個人と言う範囲を超えて何かを論じることはできない、という結論。

    同時に「人間は多種族どころか同族を殺しあっている」が、これは異常なことではないのかと言うという問いも出される。「食事とは無関係に殺しあう人間の在り方は何なんだ」「人間は殺しあうことで頭数を整理して、食物連鎖のヒエラルキーを美しい三角形に保ってきた」という。

    ただ、食物連鎖のヒエラルキーが美しい三角形に保たれていたのが「人間同士がお互い殺しあっていて頭数を自分たちで調整していたせいだ」というのは否定できる。それを抜きに、同族殺しをするのが人間にはいるが、これはどうだという問いに関しては、人間以外にもそういうのいるぞ、と答えられる。

    同族殺しは化け物の要件ではないよね。他の動物も同種を殺すし、それはカマキリのように栄養源として食うだけでなく、ムカついたのでなぶり殺し、イジメ殺し、などは、そこそこ確認されていたのではなかったか。ゾウはやるよね。あるいは繁殖をめぐってオス同士が命を懸けて戦うとか。

    これへの反論として作中で村野から出されたのが「どんな命も大切に思うのが人間なんだ」ミギーがこれを解説し「それは人間が暇だから、心に暇があるから」ひとことで言うと、情緒・知能において優れているから、と結論づけられてしまうよね。

    脳のスペックが高いので、高い共感能力と、高い共感能力が仇になって傷ついてしまうことを減らすべく、高い知能を生かし、平和で豊かな社会を築くことに成功した、としか言いようがないよね。んん……私の理解力不足かもしれないけど、これはちょっと、振り出しに戻った感もあるけど、どうなんだろ。

    たぶんだけど、魚なんかでも、より大型の魚とか、イソギンチャクとかと共生している種はいくらでもいるし、自分とは種族の違う命を育てている動物のニュースもよく耳にする。

    ということは別に、どんな種族にでも愛情を注ぐことができる種族と言うのは、人間以外にもいるわけだから、「心が暇だから」可能になるかどうかはともかく、それも人間特有の能力ではない、はずなのだけど、本作では一応、そういう締めが用意されている。

    人間は自然界において特異な存在ではないとしつつも、やはり最後に特異性をもってくるのか……と思いつつも、なぜ最後に浦上のエピソードを持ってきたのか気になるなあ。同種を殺すのも、同種以外を残酷に扱うのも、人間じゃない、と、やはり言いたいのかな。

    あるいは、自然界でもそんなことする動物はいません、ということなのか。でも知性がやはりキーっぽい気もして。社会秩序を守るのも、環境を守るのも、結局のところ己の生存率をあげるためだ、というのは、今から400年くらいに、すでに前者に関してはいわれていて、後者に関しては進化論の受容以降。

    たとえば猫なんか見てると、けっこう虫を玩具としてなぶり殺しているところを目にすると思うのですが、猫に高い知性と共感能力が備わったら、要は脳のスペックが上昇したら、猫も己を反省し、「一寸の虫にも五分の魂……」とか言いだして、虫遊びを自制するかもしれない。ていう結論になる、気がする。

    ともかく、己とは何かを探り、己の立ち位置を相対化できるだけの知性と共感能力があれば、人間の特異性を否定せざるを得ず、人間のエゴをすべての結論に持ってこなくてはいけなくなるのですよね。なので落ち着くべきところに落ち着いたか、という感はあるのですが、面白い作品だった。

    総括:
    なにより、最初から「人間の特異性とは何か」「人間に許されていることは何か」ということを問うにあたり、その要素を丁寧にあげては否定していくプロセスに、非常に好感のもてる作品だった。丁寧ですよね。可能性をあげては排し、問いと答えを重ねていく。

    そこに少年の成長の物語を絡めていくのだけど、まあ女性の登場人物たちが面白い。同世代の女の子たちや母もおもしろいのですが、田村さんと、最終話付近に登場した美津代さんも非常に良い。

    主人公である新一に、さまざまな感情を抱かせるきっかけとなる悪い出来事を引き起こし、また、新一の成長を促す良いイベントをもってくるのも、基本的には本作では女性たちなんですよね。ストーリーの流れをコントロールしているのは、その意味では女性キャラクター。

    ただそれは、絡みの問題かもしれない。男性キャラクターでも、広川は強烈な個性ながら、絡みがまるでなかった。同程度の個性の田村があれほどの絡みだったというのに。ただ、最終話付近でキッチリ広川の在り方は否定されていて、その意味ではきちんと回収されているのだけど。

    しかし、おもしろかった。人間とは何かを問いながら、新一の成長、および寄生生物の成長と言う、成長速度のちがうふたつの種族の成長を丁寧に描いている作品だった。とくに本作では、寄生生物の成長はまさに、人間の胎児が子ども程度に育っていくまで、を描いているんだよね。

    はじめ人間の体内で、人間の体を食って育つさまは、胎児が母親から血液を直接とりいれて育つようなもの、そこから肉体の外部にある人間を襲って食うのは母乳、そして人間の食事を徐々にとりいれていくのは離乳食、最後に社会性の目覚めと共に、人と同じ食事をとるようになる。

    完全に寄生生物の成長は、胎児がふつうの大人の食事をとれるようになる過程、および成人に比べれば拙いながらも情緒的成長を見せていく過程なのですよね。田村の「寄生生物は人間の子どもだ」というのは、本作の寄生生物を本当によく表している。

    その意味では本作は、最後まで母乳の段階から離れられなかったのが後藤であり、成長のプロセスをゆっくりと辿って行ったのが田村、仕方のない理由で、最速で成長して全編通してほぼ離乳食→普通食だったのがミギーとジョーということになる。

    社会性や感情、愛情の有無の獲得に重ね合わせて(むしろこれらがきっかけとなって)食事もグレードアップしていく様はまさに、どの生物も経験する、生存に適した形に自らを物心両面からグレードアップしていく過程に符合している。

    社会性や感情、愛情の有無と言った目に見えない部分の特異性を否定するだけでなく、食習慣からも特異性を否定する、心身両面から人間の特異性をそぎ落としていくことで、見る者は人間と言う「動物」について思いをはせざるを得なくなる。なんていうか巧みな作品だよね。

    こういうことって文章で書いちゃうと、さらっとかけたりするんですよね。研究者がこれを説明するのに途方もない時間を費やし、それが常識となったいまの時代ではさらっと文章に書けてしまうことなのだけど、創作物として丁寧にこういうのを描くのは難しい。こういう作品に、中高生のうちに触れられるととても良いと思う。

  • 実写版の寄生獣が何だか残念で、ググってたらなんと、アニメをやってたのを発見。
    観てみました。
    実写版よりかは全然よかった。
    コミックと比べると、どうかなぁ?やはり、新一とミギーが仲良しのなるのが早すぎるような感があるけど、それは原作を読んだのがはるか昔なので細かい部分を忘れてるからってのもあるかも。

    時代背景が違うのでミギーが一夜漬けで世の中を勉強するのが、本ではなく、パソコンやタブレットを使ってるところがちょっと笑った。

    「セイの格率」の格率とは哲学用語に由来し、「セイ」に生、性、聖などいろいろな同音異義語を含め、、最後の方のタイトルは「性と聖」「静と醒」などになってた。

    ま、、ミギーの声もイマイチかと思ったけど、実写版と比べたら1000倍くらいいいので、OKです。
    面白かった。

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著者プロフィール

(しみず・けんいち)
1948年、兵庫県生まれ。岡山大学理学部数学科卒業。博士(理学)。専門は整数論。賢明女子学院中学校・高等学校の教諭を経て、現在、岡山大学客員教授、岡山理科大学非常勤講師。著書に『大学入試問題で語る数論の世界』『美しすぎる「数」の世界』(ともに講談社ブルーバックス)がある。

「2020年 『有限の中の無限 素数がつくる有限体のふしぎ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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