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感想・レビュー・書評
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イギリス人のハーディ(1840-1928)は、ヴィクトリア朝時代を生きた小説家です。ヴィクトリア朝といえば、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」が出版され人気を博した時代でもありますし、なんといってもチャールズ・ディケンズが生きていて、数多の作品群を通じてその都市風俗を描いていた時代ですね。
ハーディは、ディケンズほどは意外と知られていないような気はしますけれど、それはひょっとすると、彼自身が書きたかったし、また実際に書いてしまった小説内容と大きく関係していそうです。というのも、ハーディは、かのヴィクトリア朝においては、時代におもねること無く、あまりにラディカルすぎる小説を書いてしまった破格の作家だったからです。
そもそもヴィクトリア朝という時代は、一体どのような価値観が尊ばれた時代だったのか。そして、ハーディの書いた小説の、一体何がそんなにラディカルだったのか。
そんなことを考えながら『ダーヴァヴィル家のテス』を読んで観ると、どのような問題が立ち上がって来るのか。それがポイントです。
舞台はイギリスの田舎、貧しい農民の家に生まれた美しい少女テスは、ひょんなことから地元の資産家の男にもてあそばれるのですが、それがきっかけとなって過酷な運命に翻弄され続けます。もはや乙女ではなくなり、妊娠もして、そして生まれるはずの娘は死産、いつ終わるともしれない過酷なスケジュールの農作業、そしてついに、彼女の運命を良い方向へと変えてくれるはずだった男には出会えたものの、その先にはなんとも物悲しい結末がまっているのでした。
ハーディは好き嫌いのかなり別れる作家です。
その大きな理由は、「女性が残酷な運命に翻弄されるよう、不自然なほどに話を組み立てすぎている」というものだと言われています。確かにそれはそうで、少し注意を傾けて読むだけでも、テスの不幸のほとんどは偶然が偶然を読んだ末に起ったことばかりだということがわかります。
それはまるで、ジュリエットのはかりごとを伝える神父の手紙が、いくつかの条件が重なったために「たまたま」ロミオの手に届かなかったという「偶然」にかなり近いものだといっても良いでしょう。
けれども、ハーディの本当の狙いは、そのようなテスの不幸を通じて、そのもっと先の「あること」を描きたかったからなのです(と僕は思います)。
チェックマーク処女を強引に奪われたテスは周りから疎んじられる以前に自分で自分に絶望を抱き、私生児を死産したということで、教会からは供養を拒否される
チェックマーク自分を本当に好きだと言ってくれた運命の男クレアは、新婚初夜に、テスが処女ではないと知って激しいショックと拒否感を抱き、1人で異国に旅立ってしまう
チェックマーク失意の中、生活に困ったテスは、かつて自分を手込めにした男アレクと偶然に出会い、彼の愛人となって生きる選択を余儀なくされてしまう
チェックマーク改心したクレアが戻ってきたことには、既にテスはアレクとの自堕落な生活に浴してしまっていて、混乱したテスは口論の末アレクを刺し殺してクレアとともに逃亡 ・・と、ここまで読まれて、こんなにドロドロな話なのかとうんざりしてしまった人もいるかもしれませんね。まさにその通りで、ハーディは、運命の悪戯によって引き起こされる人間の悲惨さを、この時代からすれば目一杯のフルコースにして僕らの前に差し出してくるのです。
そのフルコースのメニューとして炙り出されるものこそは、
処女性を巡るセクシャルなトピック、
血液の赤いイメージを巧みに利用した暴力描写、
いやおうなしにテス本人の性質から匂い立つ被虐性、
その一方で、男が女に向ける浅薄で無慈悲な態度に激しく怒りの声を上げるテスの崇高さ、
そして究極的には、社会の無知蒙昧を強固にしてきたキリスト教への疑念と憤りだったりします。
こんな風にして、ヴィクトリア朝的世界観が覆い隠そうとする当時のタブーに、どれだけハーディは切り込んでしまったことか。
実際の所、ヴィクトリア朝こそイギリス的な欺瞞に満ちた時代はありませんでした。
産業革命の波に乗り、上流階級は自分たちの上品さを過度なまでに尊び、取り繕い、その一方では、農民や工業者の過酷な環境に目もくれず、「紳士・淑女」としての生活を謳歌していたのです。
ちなみに、彼らが目を背けたヴィクトリア朝の「裏路地」がいかにおぞましいものであったかは、デヴィッド・リンチ監督の『エレファントマン』やティム・バートン監督の『スウィニートッド』を観て頂ければ一目瞭然です。また、キリスト教的価値観が偏見と権威に取り憑かれている様子自体は、それが象徴的に描かれたディズニー映画『ノートルダムの鐘』(舞台は15世紀パリですが)を観れば明らかです。
ハーディこそは、そのような「紳士淑女達」による欺瞞にはっきりとNOを突きつけ、時代と闘うことを決断した男だった。だから、ハーディは面白い。『ダーヴァビル家のテス』はグイグイ読ませてくれる。蔓延する欺瞞を鋭く暴こうとする精神に、時代の違いはないことを『ダーヴァビル家のテス』は教えてくれるのです。
このように、ハーディの小説における骨法は、ヴィクトリア朝的価値観を寓話的に批判し、疑問を投げつけ、弱き者の声なき声を生々しく伝えていることでした。ただし、そのためにハーディが払った代償は大きかった。
例えば、ハーディ最後の小説となった『日陰者ジュード』への社会的反発相当なものだったと言われています。多くの上流階級の紳士・淑女から顰蹙を買い、ハーディに寄せられた一通の手紙には次のように書かれていたのです。
「あなたの最新作を読みましたが、そのせいで部屋の空気があまりに汚れてしまったので、思わず家全体の窓を全て開け放つはめになりました」
『日陰者ジュード』を最後にして、ハーディは小説家としての筆を折り、詩人として余生を送りますが、それは、また別の話。
ハーディの次の世代にあたる作家D.H.ロレンスは、奇しくもハーディが死んだ年に『チャタレー夫人の恋人』(1928)を発表していますが、そのロレンスをして「このような小説を世に出すのに、我々の世代はまだ難しい方ではない。だがハーディーの時代は違った。ハーディがあの時代にやったことは、僕にはとてもじゃないができないことだ」と言わしめているのです。
さて、ハーディ的な魂を現代に継承している作品には、どのようなものがあるのでしょう。現代文学には明るくないのですが、映画であれば、もしかしたら。
ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)は、かなり正確に『ダーヴァビル家のテス』の魂を映像化したものではなかったでしょうか。そう、トリアー監督の作劇術に対してほぼ必然的に賛否両論が巻き起こる事態は、ハーディの作劇術がそうであったことと密接に結びついているのです(たぶん)。
ずっと後にトリアー監督は『ニンフォマニアック』を撮影し、女性の性欲についてユーモアとブラックジョークを交えつつの援護を繰り広げることになりますが、このような点がやはりハーディ的と言えるかどうか、頭を巡らしてみる可能性は未だ僕らの手の中にありそうです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
この悲劇の起こってしまった要因。
ヴィクトリア時代のイギリスにおけるキリスト教的道徳観の、矛盾、欺瞞、脆いと同時に根深くもある側面。
テスの肉体的virginityと精神的purenessの、エンジェルによる混同(アレクは悪役だけれど、この点においては、エンジェルよりもアレクの方がテスのことを正しく見ていたように思える)。
上流階級のキリスト教的因習や既成の価値観を疑問視し、それらから脱却しようとしていたエンジェルが、新婚初夜にテスが処女でないことを知った瞬間に、簡単に元の価値観に戻ってしまったこと。
テスの頑なまでのプライドの高さ。テスがアレクのことを愛せなかったこと。はたしてあれがレイプと言えるのかも実際は微妙なのでは。いや、レイプとは書いてないですね。レイプではなく、結婚していないのに関係を持ったということが罪深いという解釈でよいのでしょうか、当時の価値観的に。弄ばれたことには違いないのですが。
T・ハーディが価値をおくものが道徳観やキリスト教的なそれではない、というのは、テスの子供が不義から生まれたという理由で洗礼を与えられず、洗礼を受けていないという理由で墓にも入れてもらえないという場面にも表れているが、なにより、逃避行の最後に、ストーン・ヘンジというキリスト教よりも遥か昔に営まれていた宗教の神聖な祭壇をテスの逃避行最後の寝台としたことに表現されていると思った。このストーンヘンジでの夜明け場面の美しさよ。
アレクを殺した後にエンジェルと手に手を取って逃げる道程がテスにとってはハネムーンであり、たぶん、生まれてからいちばん幸福な時間だったのではないかと思うと、そこに忍び寄る避けがたいエンディングが出来るだけ後に引き延ばされることを読みながら願わずにいられない。ストーンヘンジでの美しき最後は、読者へのせめてもの救いなのかもしれない。そこがキリスト教会ではなくストーン・ヘンジだったということに意味を見出すのは、けっしてわたしの深読みのしすぎではないと思う。
テスの最期をエンジェルがテスの妹とともに悲しみ、テスとの約束通り妹と結婚することになることを示唆するエンディングも、近代的価値観よりも原始的な関係性を感じさせる。
「しかし、この二人の上には、エンジェル・クレアが認めている影よりも、もっと暗い影、すなわち、彼自身のさまざまな弱点という影が垂れこめていた。あくまで自主的にものを判断しようと努めていたにもかかわらず、過去二十五年間の典型的な産物とも言える、この進歩した、良心的な若者は、その幼いころ受けた教えの中に不意に連れ戻されると、依然として習慣と因襲の奴隷なのであった。教えてくれる予言者はいなかったし、彼自身は予言者でないから自分に教えるわけにはいかなかったが、この彼の若妻は本質的に、同じように悪を嫌う心を持ったほかのどんな女にも劣らず、レムエル王の賞賛を受ける値打ちがある。彼女の道徳的価値は、何をなしとげたかでなく、何をしようとしているかによって量られるべきであるから。その上、こうした場合、間近にある姿は、その醜さをあからさまに見せつけてしまうから不利である。これに反し、遠く離れてぼんやりとした姿は、汚点さえ、距離のおかげで芸術的美点となって尊重される。彼はテスでないものを考え、本当のテスを見失い、欠点あるものが、完全無欠のものに勝ることもあり得るということを忘れたのである。」
再読する機会があれば、アレクに肩入れして読んでみようと思う。 -
数々の不幸な偶然により、不幸のどん底に突き落とされるヒロインのテス。あまりに残酷な作者の仕打ち。でもそこに見出せたわずかな救い。読者である私が求めたのはひたすらその「救い」だけでした。
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最初の不幸の後、いったいどうなるんだろう?とイライラしながらもどんどん読み進める。
時代、法律、宗教によって、自由な考えや動きができず、いろんな出来事がタイミング悪い。
「なんで!もっと考え直して!」と何度も思ってしまう。
テスがもっと、エンジェルがもっと、堅苦しくなく単純でなく、こういうふうに考えてくれていたら!と思ってしまう。
解説にもあったけど、トマス・ハーディの批判が込められているので、こういう流れになる。
現代なら別の結末が用意されていてもいいと思える。
それにしても、テスの女友達3人はいい人たちだったなぁ。