目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • ふと思い立ち、2年ぶりに再読しました。

    現代の私たちは、あまりにも視覚に頼りすぎているー。
    視覚以外の世界もあっていいはずですが、それらを見逃してはいないでしょうか?

    そもそも、「見えないこと」とは、視覚以外の感覚を使って、どう全体のバランスをとるかのことであり、感覚の欠如ではないのです。

    私たちは、(著者によると)あらゆる「情報」から「主観的な意味」を読み取る「環世界」に生きていると述べられています。

    「情報」と「意味」ー。
    そこから派生する空間、感覚、運動、言葉、そしてユーモアの捉え方は、実は私たち健常者の方が「見えていない」ことを思い知らされました。

    なかでも、視覚障害者とともに鑑賞する、美術展の「ソーシャルビュー」は、初めて読んだときに、それがあることに驚かされました。
    今回は、絵を見ている最中に、言葉にすることで改めて解釈が変わることもあるという点について驚かされました。
    私は、絵の横にある解説ばかりに目がいき、その情報をもとに絵を見ることが多くありましたが、それは美術鑑賞とはいえないのです。

    鑑賞とは『自分から表現し、作品を作り直すこと』なのだと、この本から改めて思い知らされました。

    視覚「情報」にばかり頼りすぎる私たちは、いつもオーバーフロー気味な気がします。
    ときには情報を遮断して、意味合いについてじっくり考えてみるのも、よいかもしれません。

  • 「視覚障害の人は周囲の環境をどのように認知しているのか」、という論点を視覚障害の人へのインタビューから掘り起こし、視覚障害という状況が「単に見えている状況から視覚情報を差し引いた状態ではない」という事を具体例を挙げて述べた1冊。
    まえがきに著者の姿勢が簡潔に述べられており、以下に抜粋します。
    『障害者とは、健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人です。障害者の体を知る事で、体の潜在的な可能性まで捉えることができるのではないかと考えています。本書は福祉関係の問題を扱った書物ではなく、あくまで身体論であり、見える人と見えない人との違いを丁寧に確認しようとするものです。とはいえ、障害というフェイズを無視するわけではありません。助けるのではなく違いを面白がることから、障害に対して新しい社会的価値を生み出す事を目指しています』
    章立ては「空間」、「感覚」、「運動」、「言葉」、「ユーモア」となっており、それぞれの項目について健常者の側がいかに先入観、固定観念にとらわれているかを実感できる内容です。特に「空間」に関する記述は新鮮でした。具体的には、
    1)見える人は視覚情報が2次元的なので、対象物を2次元的にとらえてしまうが、見えない人は最初から3次元的にとらえている
    2)見える人は、常に”視点”が必要で、だからこそ”死角”の発生は避けられないが、見えない人は”見ていない”から死角が存在しない
    3)表と裏、内と外という感覚に縛られない。盲学校で粘土細工をした時、壷の内側に細かな模様を造作した作品があった
    4)”物を探す”という事ができない上に、物の場所を覚えなければならいので必然的に見えない人の部屋は整然と片付いている などなど
    また、見えない人への思い込みとして例に挙げられているのは
    1)見えない人=点字の読める人=触覚が鋭敏な人 という方程式は成立せず、見えない人の点字識字率は13%程度である
    2)だから周囲を認識するために見えない人が”触る”ことに拘っていると思い込んで配慮すると善意が空回りすることがある などです。
    「運動」の章ではブラインドサーフィンや自転車競技、ブラインドサッカーなどをどのようにこなしているのか、「言葉」の章では美術鑑賞を例に、”他人の言葉で物を見る”というのはどのようになされるのか、等々興味深い切り口が満載でした。

    私自身も本書で指摘されている見えない人への先入観にハッとさせられる点がいくつもありました。本書を基にしたヨシタケシンスケさんの絵本「みえるとかみえないとか」が発刊されています。実は、次女が図書館から借りてきたこの絵本を先に読んで「なるほど!」と腑に落ちたところ、その絵本のネタは本書であることが紹介されていたので読んでみたのです。こちらの絵本もお勧めです。

  • お世話になっている鍼灸院の老先生が全盲。
    でも杖なしで狭い院内をヒョイヒョイ歩くし、話を聞いてみれば若いころはサッカーや柔道をやってたとのこと。
    「聴覚だけですごいなー」と思っていたけど、本書を読んで、足の裏の感覚で畳の目を読んだりできると知って、なるほどと思った。そういや先生スリッパ履いてねーや。

  • FFさんが紹介されてた一冊。図らずも当事者ということでまるで普段の自身の行動や思考に関する分析報告書を見ているかのよう。夫婦での外出時によくある意見の相違&衝突についてもこれで納得。まさか夫婦和合に役立つとは

  • 本書では全体を通じて"相手の靴を履くこと"を述べている。身体機能を失ったことに対しての同情ではなく、相手の立場に立って考えること。本質的に同じ視点に立つことはできないが、言葉を通じて対等な立場になることはできるというのが5章のソーシャルビューの話だと感じた。
    なんにせよ"障害がある"という言葉に内包される意味が多すぎることが、世の中の障害者に対しての認知を歪めさせている気がする。
    言葉によって分断を行うことでわれわれ健常者(健常者として診断されたことはない)が安心をしているが、実際にはグラデーションである。

    先日、現金を使えないセルフレジで右往左往するお婆さんを見かけた。彼女も省人化とIT化に取り残されお会計の出来ない障害者と定義することができる。たまたま今の自分が現代社会において生活をするのに向いていた方だったというだけで、社会の変革が来た時に我々は障害者たりえるということを自覚させてくれる一冊であった。

  • オーディブルで聴了

  • <要旨>
    目が見えない人に対して我々は「ネガティブ」なイメージを持ちやすいが、目の見えない人を「三本足で立つ椅子」とするなら、目の見える人は「四本足で立つ椅子」である。その差異は「欠如」ではなく、「ただの差異」である。だが、健常者の知覚情報の8~9割は視覚情報であるため、「目の見えない人」は「目の見える人」の補色のような発達をしているのではないかとの仮説に基づき、著者は様々な観点から両者の差異を現象学的につづっている。例えば、大岡山駅から大学のキャンバスで向かう際にお椀側の地形の頂上からふもとへと下る格好となる。しかし、「見える人」は視覚により平面的な情報を与えられるためにそれに支配されて、空間的に地形を捉えない。だが、「見えない人」は視覚から平面的な情報を入手できないために地形を立体的に捉えることができる。つまり、空間認識能力は、「目の見えない人」のほうが優れているとも言える。

    <レビュー>
    目が見えない人に対して我々は「ネガティブ」なイメージを持ちやすい。それゆえに「障害者」という言葉に過剰に反応してそのような表現をやめた方がよいという論調が存在するのだろう。しかし、それは、きっと傷ついた人がその傷に触れられることに対して他人の痛みも自分の痛みのように錯覚して感じる「過剰な防御反応」と言える。だが、その根底には「目が見えない人」は「目が見える人」から「視覚」を引き算した存在であるという認識もある。本著はそのネガティブな意識を痛烈に切り裂いてくれる。目の見える人は「四本足で立つ椅子」であり、目の見えない人は「三本足で立つ椅子」だと。だから、それぞれ別々に発達した機能がある。それだけだろう。それがとても痛快である。

  • 視覚がないということを、他の感覚を使って補う。手が読む、耳が眺める。器官が何をするかを決めるということじゃなく、何かをするために器官を利用するということ。

    与えられたマイナスの状況をプラスに転化する価値転倒の力。

    足りていないからこそ、自立するための依存できるものを探して、増やす。

    そうやって、見えないことから始まっていく世界は、いつの間にか、見えることを越えていけるのかもしれない。


    見るということ、見えてしまうということの手に余るほどの強さ。見えてしまう世界が、簡単に手に入る世界が、捉えて、引き留めて、それ以上の広がりを許さない。

    見えるものだけが正解になってしまう。見えるものだけが全てのように片づけてしまう。

    世界を規定する。
    その途端に、表と裏が、内と外が、正解と不正解が、対照のものが出来上がってしまう。

    情報の欠如を、だからこそ生まれる意味によってひっくり返す。自分の置かれた状況をちょっと離れたところから眺めて、正反対の意味を与えてしまう。

    障害者とされる人たちが、見ている世界。そんな世界を見ている人たちの力を借りることで僕たちも、束縛を解かれて、もっと違う世界を覗くことができるようになれるのかもしれない。


    いま見えていない世界を見ようとすること、想像しようとすること。そんな意識をまた思い出した。

  • PTA読書同好会課題本として読んだ。またしても、普段なら選ばない類の。

    見えることと見えないことが、生と負の対になるのではない、福祉的ではない視点(作者は敢えて「好奇の目」と書いていた)で捉え直されており、頭が柔らかくなる感覚を覚えた。
    特に、視覚に障害がある人との鑑賞ツアーという、見える人と見えない人が一枚の絵について話し合うことでその絵を「見る」という試みが、とても面白そうで、私もやってみたい!と思った。
    絵の「情報」、例えば海の絵です、ではもちろん足りないから、青く澄んだ、、それでも足りない、、青に少し緑が混じって、ところどころに泡が、白い泡が立ち、ザラザラした感じの砂浜で遊んでいる子供がいます、、など、普段黙って鑑賞しているだけでは考えないことを口に出して話す。それを聞いた見えない人は、「どんな子供?どんな様子?」と返し、「インドかどこかの国の子、とても楽しそう!」とまた返す。
    繰り返しのなかで、見える人と見えない人が溶け合って、脳内に映るイメージが、視覚だけで得た情報にのる意味以上のものになっていく。
    ちょっと、スーザン・ソンタグの「反解釈」を想起した。

    例えば、大好きな文学作品が映像化したときに、自分のイメージと違った、なんてことはよくあると思う。見る、見えることは、逆に制限にもなるんだな、イメージの広がりという意味に於いては。

    見えない生活をもし自分がすることになったら、と、眼鏡を外してみる。怖くて家から出られないと思う。全盲の方は、光すら見えないのだ。そこに対しての違う角度からの想像力をもつ機会になったかなー、、
    自分だって、そうならないとは限らないし、歳を重ねていくほど身体は、目は、耳は、今までのようには働かなくなるだろう。
    そうなっていく過渡期である今、「同じように」できることを目指すのではなく、自分のやり方で生きていけるような軽やかさの境地に至れたら幸せかもしれない。

  • 【「見えないこと」が触媒となるような、そういうアイディアに満ちた社会を目指す必要があるのではないでしょうか】(文中より引用)

    目が見えない人へのインタビュー結果も取り込みつつ、目が見えない人は世界をどのように把握しているかについて研究・考察した作品。著者は、東京工業大学リベラルアーツセンター准教授を務める伊藤亜紗。

    2015年の初版が出た当時、本作に寄せられた評価のほとんどは「良い本」といったものでしたが、2023年の現在に読み返してみると、結構複雑な感情を抱かされるに至る作品でした。単純に「良い・悪い」の二元論ではなく、なにかモヤモヤが残る読後感の正体が知りたいなと思いながらの読書体験でした。

    個人的に腑に落ちる解は出ていませんが、「AじゃなくてBという世界もあるんです」というところから「AじゃなくてBなんです」というところに踏み込まれるとモヤモヤするのかな☆5つ

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著者プロフィール

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『どもる体』『記憶する体』『手の倫理』など多数。

「2022年 『ぼけと利他』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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