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感想・レビュー・書評
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情緒がいらないのか。
反対に、合理的、簡単、単純。そして、易しい。そればかりがいいのか。
その受け取り方は、たくさんのものを切り捨てて、たくさんのものを気づかせなくさせる。合間を捉えられなくさせ、曖昧を価値のないものだとし、隙間に立ち上がってくるものを抑え込み、言葉によって、言葉に留まらないものを汲み取ることができる、受け渡すことができる、その可能性をないものにしてしまうことだっていうのに。
その前に。ただただ趣きがあるじゃないか。言葉に置き換えなくていい、感ずるままでいいという雰囲気が表れているじゃないか。日本にはそれがあるじゃないか。培われてきた、積み重ねられてきた表現のすべに、その重みの分だけの余韻が纏われている。だからそれだけで、これは僕たちが持ち続けるべき、繋いでいくべき、必要なものだと、ぼくは気づくことができる。
この本の中でさんざん取り上げられる、いまぼくが気づいた守りたいものを、なくしてしまうべきだと、消し去るべきだという風に振る舞う、知性があるとされるたくさんの人間たちの存在。かれらは、あたかも社会を進歩させるために、改良するために、合理的な理性に基づいて、正義を発揮するという建前で、時間や風土、人の営みというものの積み重ねのうえに続いてきた、文化の表れを、たったいまこの瞬間の、そいつらの、たったそれだけの「知性」「理性」で壊してしまえと暴れまわる。そして、大切なものを徹底的に改変してしまうのだ。
そして、世の中はまた、可笑しなほうへ変節していく。
国語の話。現代文、古文。現代仮名遣い、歴史的仮名遣い。は行4段活用。下上一段二段活用、変格活用。当用漢字、常用漢字。国語を教えられてきたぼくには、その意味は十分に伝わってこなかった。もちろんぼくも悪いし、もちろん、この国語を扱い、整えてきた社会も十分に悪い。国語というものの姿がいま、どうしてこうなっているのか。なぜこれらを僕らは教えられてきたのか。明確なようで、ほんとうは明確にできていない。曖昧さをなくすことがいいことだとして、国語を変革したせいで、不明瞭になり、わかりづらくなっている。そして、曖昧さがあふれ、その上、国語の広がりが消え、合間という情緒をそのままに表現できるすべが失われてしまっている。
国語の話。なのに、このぼくたちに余計な、いらない影響を与えている、「知性」というものにまた突き当たる。「知性」というのは、ただの理性で、それを生み出しているのは、ただの観念で、そいつらが誤解しているほど、合理性も、効率性も持ち合わせていない、ただの幼さしか、残らないことになってしまうものでしかないのに。いつでも、どれでも、のきなみそうなんだ。それしか、ない。これはいつものことなんだ。
だからこそ、気づくべきだ。
言葉がもたらすものを。何をもって、この頭の中が作られていくのか。この世界が立ち上がってくるのか。ぼくたちは言葉がなければ世界を作ることができない。自分たちの中に世界が表れてくることができないのだから。
言葉をもたらすもの。
自分の作る言葉がどうやって創造されるのか。はたして、どんな影響が自らのもつ言葉に及んでいるのか。そもそも、言葉は何から生まれ、何の上に立ち、自分のどういう部分になっているのか。そのことを考えるべきだ。思いを馳せるべきだ。
国語とは、それが生まれる実体のことを表しているのだと思う。
昭和61年7月1日内閣告示第1号、前書き。
この仮名遣いは、主として現代文のうち口語体のものに適用する。原文の仮名遣いによる必要のあるもの、固有名詞などでこれによりがたいものは除く。詳細をみるコメント0件をすべて表示