反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―(新潮選書) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 反知性主義がよく分かる本。良い本とは聞いていたが、ずっと放置してました。
    え?内田樹みたいなのを好きな人が知性主義ってこと?みたいな。あんまり難しいこと考えたくない人が、知性がありそうな雰囲気を出している人を好きな現象にも名前をつけようぜ。

  • アメリカ独特の思考法がどのように醸成されていったのか、歴史的な流れから解説してくれた好著。トランプさんが大統領選ばれることが全く理解できなかったが、この経緯を知った今であれば理解できなくはない。

  • アメリカのキリスト教が育んだ「反知性主義」の歴史をひもといた本。

    本書は反知性主義を理解するのに一番役に立ちます。アメリカの歴史的および宗教的背景を理解することで、反知性主義のことがよくわかるようになります。

    本来の反知性主義は「知性への拒否」ではなく、「知的な特権階級へ反発」であること。そして、誰もが平等にチャンスが与えられる社会を求めること。

  •  安倍元首相の事件により、安倍政権時代に野党支持者が口をそろえて唱えていた「反知性主義」とはいかなるものか調べるために本書を読んだ。

     本書において反知性主義とは「反知性主義は単なる知性への軽蔑と同義ではない。それは、知性が権威と結びつくことに対する反発であり、何事も自分自身で判断し直すことを求める態度」と定義される。反知性主義とは米国において特異な現象で、建国時のプロテスタンティズム(エリート主義)とその後のリバイバル運動(知性と権力の統合による反発)により特徴づけられる。

     これは理性によって判断する少数の知識階級に対する大衆の反動、つまり一種の民主主義の発露のように聞こえる。著者はこの熱量こそ黒人解放運動や昨今のLGBT運動の底流にあると論じているが、これは同様の運動を推進しているリベラル派とどのような合一を果たしているのか。
     個人的にリベラル派は理性と知識によって判断しているためにこのような解放運動を行っていると思っていたが、実はリバイバル運動のように感情によってサポートされていたのだろうか。考察すべき事項が残る

  • 反知性主義
    アメリカが生んだ「熱病」の正体

    著 者 森本あんり
    新潮社(新潮選書)
    2015年2月20日発行


    最近、よく見かける「反知性主義」という言葉、字面の通りに「知性がない状態」や「知性を否定する考え方」という意味ではない。この言葉を頻用している佐藤優氏は、「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」と定義している。

    著者によると、以上のような要素ももちろん含まれてはいるものの、本来の「反知性主義」はもう少し積極的な意味を含んでいるという。知性そのものでなく、それに付随する「何か」への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである、と書き出しで述べている。少し驚き。反知性主義はいい意味で使われていた時代があったのである。

    この本によると、反知性主義はイギリスの植民地時代だったアメリカで発生した。それは、アメリカに土着化したピューリタニズムの中で、アメリカ的なスピリッツと結びついて発展していった。英国からニューイングランドに持ち込まれたピューリタニズムは、極端な知性主義だった。ハーバード、イェール、プリンストンの三校で養成された牧師たちによる礼拝では、牧師の祈りが1時間続くこともあり、長ければ長いほど評価された。お祈りの次の説教も、2時間ほど続くのが当然であった。内容はかなり高度で、神学的にも論理的にも知的な理解力を前提としている。聴衆の理解度に合わせて難しいことをわかりやすく語る、などという努力をした気配はまったく感じられない。
    当然、大衆的には、そこに反発が起きる。難しい知性や権威がなくても、聖書を読め、語れるのではないか。そして、そういう伝道者(牧師)が登場してくるのである。

    「信仰復興(リバイバル)」という運動により、それは生まれ、発展していく。信仰復興とは、すでに信徒であった人が新たに信仰の深まりを得るに至る、という意味。記録に残る最初の現象は、1734年、マサチューセッツのある町で起こった。2人の若者が相次いで急死して人々に不安が広まり、町全体に急速なる宗教心の高揚をみた。酒場から人は消え、慈善が増え、教会の礼拝や祈祷会は大盛況。ひきつけや痙攣などを起こす人、恍惚状態に陥ったまま1日全く体を動かさない人など、集団ヒステリー状態に陥った。

    こうした「信仰復興」は、植民地時代の第1次、19世紀前半の第2次、そして、19世紀末の第3次と起きたという。この本は、反知性主義の典型例である伝道者(牧師)を中心に、反知性主義の有り様をじっくりとひもといている。結局最後まで、佐藤優氏のような一定数の文字での定義はない。しかし、それぞれの反知性主義に共通する事象や特徴は見えてくる。例えば、学歴ない。多くの反知性主義者は本もろくに読まなかったが、なにかのきっかけで聖書を読み、のめり込み、その表現力や人間力、そしてショー的要素で人々を引きつけ、熱狂を誘う。

    知性に反対しているわけではない。霊性より知性が重要だという価値付けに激しく反対し、権威の必要性を拒否する。神の前では万人が平等だというきわめてラディカルな宗教的原理を拠り所とする。
    ピューリタニズムを含め、キリスト教では、神の恵みが全てを決める。だから、努力したからといって救われるわけではなく、神が決めることだと考える。しかし、信仰復興運動(反知性主義)の伝道者たちは、「自ら助くるものを助く」を基本にしている。つまり、自分で道は拓ける、努力すれば救われると説くのである。
    それが、アメリカのビジネスと結びついて発展していった。伝道者たちは、教会ではなく、大会場で集会を行い、莫大な寄付金を集めていくことになる。

    かくして、反知性主義は段々と危険な方向に向かう。第3次信仰復興運動での最後の大物、ビリー・サンデーは、大リーグ選手から伝道者に転じたが、サーカスのアトラクションと区別ができない程のショー的説教で人々を引きつけ、おもしろがるマスコミを虜にした。しかし、選挙応援を頼まれ、彼の力で当選した知事が、実は炭坑労働争議を押さえたいという資本側から買収された犬だったことが後から分かり、不当なストライキ弾圧に手を貸してしまった事案など、本来の反エリート主義的な性格を失っていくことになっていく。
    現在の反知性主義は、このサンデーから進化はなく、ほとんどが彼の応用なのだそうである。

    このあたりで、佐藤優氏的な「反知性主義」の側面が頭角を現してくるように思える。

    さて、日本でこうした本格的な反知性主義による熱狂事例はあるか?という考察がなされている。田中角栄現象が近いかもしれない、としている。しかし、明確に当てはまる事例がないようである。
    この本によると、教育社会学者の竹内洋氏は、反知性主義が「きわめてアメリカ的」であり、日本にはあからさまな反知性主義の噴出が見られなかったことを指摘している。強力な知性主義がなければ、それに対抗する反知性主義も生まれず、逆に強力な反知性主義がなければ、知性主義も錬磨されることがない。どちらも中途半端な日本にあるのは、「半」知性主義だけである。

  • アメリカのキリスト教史から反知性=神の心は頭でなく心で知ることという流れを追ったもの。親鸞の唯念仏を唱え、阿弥陀にお頼みするという他力本願と似た感じを受ける。
    どこの国でもあるこのような考えがなぜアメリカだけ大きなうねりになり、政治にまで影響するのかがよく分からない。チャーチ主義に対抗するセクト主義はトランプと違う肌合いと思うが。

  • アメリカの政治の話かと思いきや、宗教の話だった。

  • 反知性主義とは何か、アメリカの宗教史に沿って解説していく本。みんな好き勝手に自分解釈のキリスト教を広めているなと思う。部外者から見るとこんなにも言っていることがバラバラなのによく信仰心を持てるものだと呆れてしまう。

    読んだ感じとしては「反知性」というより「反権威」と言ったほうがしっくり来る。イギリスから独立した国なだけあって、彼らは「偉い人」の言うことにそのまま従おうとしない傾向がある。しかし、その代わりに信じるものが「自分のお気持ち」なので、直感的に分かりやすいものを良しとする。

    権威に盲目的に従わないのは悪いことではないが、代わりがこれでは結局うまいこと利用されるだけに思える。だから宗教なんて信じているのだろう。

  • アメリカでは、なぜ反インテリの風潮が強いのか。なぜキリスト教が異様に盛んなのか。なぜビジネスマンが自己啓発に熱心なのか。なぜ政治が極端な道徳主義に走るのか。そのすべての謎を解く鍵は、米国のキリスト教が育んだ「反知性主義」にある。反知性主義の歴史を辿る

  • 小田嶋隆の本を読んで、興味を持った本。
    私にはちょっと難しかったかも。読むのに時間がかかった。
    アメリカの歴史より反知性主義に興味があって読んだ。しかし、アメリカの成り立ちについても、学生時代に勉強した以上のコトが知れてよかった。

  •  「反知性主義」という言葉が日本で一般的に使われるようになったのはいつ頃、どんな活動に対してだろうか。私が認識したのは大阪府知事/大阪市長の橋下徹が打ち出す政策を評する言葉としてで、知識人や文化人と呼ばれる人々をこき下ろす態度に対して使われていたように思う。また、憲法学者の批判に耳を貸さない安倍晋三の姿勢についても使っている人がいたようだ。

     つまり学者などの知性的な人々が主張する理論に対して感情的に批判するとか、無教養な人々が教養ある人々に対して「お高くとまりやがって」「理屈ばかりこねやがって」といった態度をとる行為、つまり知性に対する反発を指しているように思われた。

     しかしその後、本来の「反知性主義」はそういうものではないですよ、と指摘する声も聞かれるようになり、そこで勧められる参考書としてしばしば挙げられていたのが本書だ。著者は国際基督教大学教授の森本あんり(名前で女性かと思ったら男性でした)。出版されたのは今年の2月なので、あとがきでは上記のような時事的な話題にも言及されている。

     ここで語られる反知性主義(anti-intellectualism)はアメリカにおけるキリスト教の活動のひとつだ。元々アメリカのキリスト教徒は、ヨーロッパの宗教改革で既存の権威すなわちカトリックの教会組織に対する批判として始まったプロテスタントの流れを汲む。反知性主義の「知性」とはこのような既存の権威のことであり、プロテスタントの思想が極端に先鋭化したものである。

     現代のいわゆる「学問」と異なり、キリスト教は聖書という1冊の書物を出発点として語ることができる。だから聖書を読める人なら誰でも自分で理解することができるし、大学や教会のお墨付きを得なくても伝道者となれる。だからこそ、一部の特権階級が宗教的権威を独占することに対して反発する。アメリカの反知性主義は知性に対する反発ではなく権威による知性の独占に対する反発で、反権威主義と呼ぶべきものである、という。

     この点で恐らく本書の指摘は正しく、「本来の意味での」反知性主義はそういうものだろう。

     しかし言葉とは人が作り使うもので、上述したような日本で最近用いられている意味での反知性主義もまたひとつの概念として成り立ちうる。たまたま同じ言葉になってしまったのか誰かが誤用したのかは分からないが、異なる意味があるなら違いを明確にするために別の言葉(例えば反教養主義とか反文化主義とか)に変えるべきかもしれない。

     ところで、本書を読んだ感想のひとつに「アメリカの歴史」も意外と奥が深いのだな、というものがある。短いと言っても独立から200年以上は経っているし、植民地時代から数えれば300年を軽く超える。それはそれなりに紆余曲折があるだろう。また別の切り口でもこういったアメリカの歴史書を読んでみたい。

  • It is a brief introduction of anti-intellectualism in the U.S. The author clearly states that anti-intellectualism deeply rooted in the origin of the U.S. itself. However, as Yamagata Hiroo says, we have to consider that anti-intellectualism is realized outside of U.S.

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著者プロフィール

1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)学務副学長、同教授(哲学・宗教学)。専攻は神学・宗教学。著書に『アメリカ的理念の身体‐‐寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社)、『反知性主義‐‐アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)、『異端の時代‐‐正統のかたちを求めて』(岩波新書)など。

「2019年 『キリスト教でたどるアメリカ史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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