日本の人口は過去一万年から一様に増え続けてきたのではなく、4つの波があった。第一に狩猟漁労採集の縄文時代、第二に農業社会の弥生時代、第三に市場経済の14,5世紀、第四に工業社会の明治維新期。
縄文時代の人口分布は、日が次日本に圧倒的多数が分布していたが、太平洋沿岸部は気象の影響を受けやすく、人口は大きく増減していた。西日本は比較的温暖な気候であり、人口は微増していったが東日本の人口には遠く及んでいない。縄文時打破狩猟採集時代だが、木の実(堅果類)が主なカロリー源だった。幼少期を生存した後の平均寿命は30歳前後。
弥生時代では稲作の伝来により西日本の人口が急激に伸び、東日本と同等以上になった。乳幼児死亡率は約半数、幼少期を生存した後の平均寿命は45歳程度と推測される。
室町~戦国時代には荘園制度が瓦解し、先市場経済から市場経済への移行により、領主や農民が土地利用の効率的開発を行い生産力が向上した。また、江戸時代に入ると生活様式が変化し、世帯における隷属民と傍系親族が減り、直系親族を中心とする小規模世帯が進展した。世帯の分離独立と皆婚文化により、社会全体における出生率は向上した。また、新種作物の導入や流通の拡大、一日三食制や洗いやすい木綿の普及による衛生状況の改善によって死亡率が低下した。乳幼児死亡を考慮した平均寿命は30歳前後。数え7歳を超えると50歳程度まで伸びる。
江戸中後期になると、土地開発が頭打ちになり、間引きによって出生率を意図的に低く抑え一人あたり所得水準を維持向上させた。この資本蓄積が、中国と違い明治維新での日本の工業化への布石となった。
江戸や大坂に代表される都市部は人口の蟻地獄として機能した。周辺農村からの不断の人口流入を促した。た。 江戸時代の都市で出生率が低かった理由は、性比のアンバランス、低い有配偶率、短い有配偶期間、有配偶出生力の低さに求められる。
江戸時代は裕福な家ほど子が多く、貧しい家ほど子が少なかった。貧しい家は奉公によって特に女性が晩婚化すること、跡取りの男児を得たいがために選択的な間引きが行われるのが理由。一方現在先進国では、裕福な国ほど、特の女性の教育水準向上による晩婚化と、有配偶者間の避妊が理由。江戸時代の成人者の寿命は65歳で、兄弟間の年齢差は大きいため、親子二夫婦の同居年数は短かった。末子は調子の庇護下で結婚を行った。
現代日本で起きている結婚の変化、少子化、高齢化、家族形態の変化も、一概に社会病理や社会問題としてみるのではなく、工業化をともなうひとつの文明システムが形成され、やがて成熟してきたことに随伴する現象であり、ここに近代日本の新しい人口学的システムが形成されつつあるとみるべきなのである、と締める。