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感想・レビュー・書評
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アイヌ語の言語学者、知里真志保の小文。真志保は『アイヌ神謡集』で知られる知里幸恵の弟にあたる。
アイヌ民族としては初めて国立大学の教授になった真志保は、ずば抜けて聡明な人物であった。姉の幸恵を見出した東京帝国大学の金田一京助の元で言語学を学び、めきめきと頭角を現した。後に北海道に戻り、北海道大学の教授となった。
アイヌに対する蔑視とは終生闘いつづけた。アイヌとしての強い自負もあり、アイヌ語学に関して非常に厳しく真摯な態度で臨んだ。恩師の金田一に対しても例外ではなく、学問上での批判は峻烈だったという。
本稿の初出は「日本文化財 第15号 アイヌ文化特集号」(昭和31年7月)。
アイヌ語の発想の独特さについて述べている。
日本語で「氷」というとき、氷るもの、氷ったものを思い浮かべるだろう。だが、アイヌ語で「氷」を表す「ルプ(ru-p)」は、「とけるもの」を意味するのだという。
「エネア・レカ・イ カ イサム」(ene a-reka-ika isam)という言い回しは、直訳すると「どう われら・褒め・よう も ない」となり、けなしているのかと思うところだが、これ以上褒めることもできない=完全無欠を指すという。
また、川は動物に譬えられ、海から上陸して山へ登っていくものと考えられた。日本語では「みなもと(水源)」となるものが、アイヌ語では「ペテウコピ(川の行先)」となる。
視点の違い、見る方向性の違いがおもしろいところである。
アイヌ語のユーカラ(詞曲)も紹介されている。大風が吹き、ある樹は折れ、ある樹は折れずに持ちこたえるといった場面の歌だ。アイヌ語では、怒れる風が吹きすさび、樹々は泣き叫ぶ。痛みに耐えかねて折れたくなったものは自ら中心から折れ、逆らおうと決めたものは、身を低くしてやりすごす。草は胡坐をかいて座っているが、風はその股座に手を掛けて空へと連れ去る。
風も樹も草も、ここではすべてのものが意志を持ち、感情を持って行動し、闘っているのだ。
森羅万象の中にすっと入り込むアイヌの人々の視点が感じられるような話である。
当たり前と言えば当たり前だが、言語の違いというのは、単に単語の違いや構文の違いに留まらず、物事をどのように捉えるかの発想の違いも含まれるわけで、他言語を学ぶ難しさ・おもしろさというのはそういうところにもあるのだろうと思われる。詳細をみるコメント0件をすべて表示