・世の中にある《貴賤貧富の別》をなくすのなら、「なぜそれが生まれてしまったのか」という、歴史的、社会的背景を探るべきです。でも、福沢諭吉はそのような方向に進みません。まず「学問」です。
「学問をすればこういういいことがあるよ」と誇大なことを言って、人を学問の方向へと向かわせます。福沢諭吉にとってまず重要なことは、「あなたが学問をして世の中を動かす」ということで、「そうしなければ、いくら明治の新しい世の中が来たってなんの意味もない」なのです。だからこその「学問のすゝめ」です。
・「学問」には意味がありますが、その「学問をする人」にあまり意味が宿らないものが「学問のための学問」である虚学で、平和で穏やかでなにも変わらないままにある時代なら、虚学も《人の心を悦ばしめ随分調法なるもの》でしょうが、その時代が揺らぎ始めたら、虚学はもうなんの力も持ちません。必要なのは、学ぶ人の中に沁み入って、新しい時代を作り上げて行くーそういう「実」を宿した学問なのです。
・武田信玄は「人は石垣、人は城」と言いました。「国の構成要素となる人間がしっかりしていることこそが、国の最大の力だ」です。だから、《身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。》です。
江戸時代に一番重要で絶対だったのは「主君のため」です。「主君のためが第一」で、自分のことを考えるのはあまりいいことではありません。だから、明治五年段階の読者にとって一番分かりにくいのは、《身》-即ち「自分自身」の独立でしょう。
・江戸時代ばかりでなく、その後の明治でも大正でも昭和でも、第二次世界大戦終結までの日本人は、《家》と共にいます。自分が名を上げることは、自分の所属する《家》の家名を高めることで、「自分の家を栄えさせる」というのは、当人にとっても自慢で名誉です。ことに、《家業》の行く末が怪しくなっている旧武士の士族にとっては、埋もれつつある我が《家》を独立させるのは、「やらなくちゃいけないこと」で「やってやろうじゃないか!」と思いたくなるようなことです。それで、「自分がなんとかなれば、自分の支えるものもなんとかなる」という構図はぼんやりと見えて来ます。そのはずです。
・実は「自由」という日本語には、古いものと新しいものとの二種類があるのです。西洋からやって来た新しい概念が「自由」と訳されると、これは漢語熟語と結びついて「自由民権」とか「自由の権利」「言論の自由」「自由平等」という、社会科の教科書に出て来るような言葉を作りますが、そういう「自由」が西洋からやって来る前の日本にも「自由」という言葉はあって、なんと彼の兼好法師が『徒然草』の中で「自由」という単語を使っています。
・そして、ただそれだけの話が結構重要なのです。現在の「その人なり」は、剝き出しの「その人個人のあり方」です。しかし、福沢諭吉が使う「分限=その人なり」だと、人はまず個人であるより先に、なにかに属していることになるのです。それが《分限》なのです。
それはつまり、「自分のあり方」ではあっても、「自分一人のあり方」ではないのです。「自分が属するのにふさわしい人間達のグループでの”人間のあり方”を模範とする」というのが『学問のすゝめ』の中の《分限》です。「クラスのみんなはクラスのあり方に従いましょう」というようなことです。そういうおつもりで、福沢諭吉の《分限》に関する説明をご覧ください。福沢諭吉はこう言っていましたー。
・人間は、一人の頭で考えてしまうから、「自由」は簡単に「わがまま」になってしまう。そういう人間は、「自分のあり方」も自分の頭で考えて、勝手に「自分はこういうもの」と決めつけてしまいます。「でも、そんなことをしていてもどうしようもない。だから《分限》を考えろ」と、福沢諭吉は言うのですが、そうなると《分限》というものがどういうものかはっきりします。それは「自分なりの自分のあり方」であって、同時に「自分があらねばならないと思える、自分のあり方」なのです
・話はもう簡単です。日本人は政治に参加出来ませんでした。政治は一部の支配者のもので、それ以外の日本人は政治に参加出来ませんでした。その状態は、「日本人は一部の支配階級の人間に支配されていた」ですが、言い方を変えれば、「日本人は一部の支配階級に依存して、自分たちに関わるはずの政治を任せっきりにしていた」にもなります。福沢諭吉の《自由独立》は、その政治の「他者依存を考え直せ」なのです。
・国民が参加出来る議会はまだ用意軟化されていないけれど、「国民に対して政治を開く」というのが明治維新のスピリットです。だから福沢諭吉は「政治に目を向けろ、政治に関心を持てるようになれ」と明治五年の段階でも言うのです。
福沢諭吉の言う《自由独立》は、「政治に関わってはいけないという制限なんかない。その制約から自由になり、独立して、政治に目を向けろ」ということなのです。
・福沢諭吉の言うことは、「その国の政治レベルは、その国の国民のレベルに比例する」というようなことです。だから、「政治をひどいものにしないように、政治に関心を持てるようになれ。そのために虚学ではない、有効な学問をしろ」と、福沢諭吉は言うのです。二十万部を売った『学問のすゝめ』初編は、「金持ちの実業家になるために実学を学べ」という本ではなくて、実のところ「政治に目を向けるために学問をしろ」という本なのです。
・「啓蒙」とはないかということを、ドイツ人の哲学者カントは、「人間が自分で招いた未成年状態から脱すること」だとして、その「未成年状態」のことを「他人の指導がなければ、自分の悟性(判断能力)が使えない状態」だとしていますーといっても、そんなことを言う私はカントの本なんかをちゃんと読んだことがないので、正確には「だとしているそうです」です。
・「分からないことを人に聞く」というのは悪いことではないけれど、「指導者」に依存している限り「未成年状態」から脱することはできません。だから、「光が照らす」の「啓蒙」は必要なのです。福沢諭吉の「啓蒙」は、スタートするのだったら、そこからしかスタートしません。
「なにが分からないのかさえもよく分からない」状態は、どうすれば打開出来るのか?どうすればその視界が暗い「蒙」状態は啓けるのか?
福沢諭吉の答は簡単です。「勉強すればいいじゃないか」です。だから『学問のすゝめ』です。「すゝめ」ているだけで、「学問をせよ」と命令はしていませんね。そこで命令したら「指導者」になってしまいます。
・なぜそうなるのかといえば、これが「啓蒙の本」だからです。「なにが分からないのかさえもよく分からない」という「蒙」の状態にあるからこそ、「啓蒙」が必要で、「なんにもわからないのなら、なんでもいいから、とりあえず”分かる”と思う、自分に必要なものから学びなさい」にしかならないはずです。「”自分になにが必要なのか”は、あなたが自分で考えて決めなさい」だから、最初の最初の《いろは四十七文字を習い》からスタートして、その先は《なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し》だけです。
・江戸時代が終わったばかりの明治の初めはみんな「蒙」です。なにに関して「蒙」なのかと言えば、「近代という新しい時代に生きる人間のあり方に関して蒙」なのです。「民主主義に関して蒙」である以前に、「近代という時代に生きる人間としては蒙」で、「近代なのだから民主主義であらなければならない」という選択肢はまだありません。だから『学問のすゝめ』は、「近代に生きるってどういうことなんだ?」という疑問が生まれた時に注目されます。
それは『学問のすゝめ』が最初に刊行された明治五年のことでもありますが、もう一つ、『学問のすゝめ』が多くの日本人に読まれた時期があります。いつかと言えば、長い戦争が終わった昭和二十年以降のことです。長い間、軍部独裁の軍国主義の中にいた日本人は、その時代が終わった時、「これでよかったのか?」と思ったのです。死んでいる福沢諭吉にとっては知りえないことですが、長く続いた愚かしい軍国主義の中で苦しめられた日本人は、体感的に、「あんなものは我々が進むべき”近代”という時間なんかじゃなかったのだ」と思ったのです。だから、「近代に生きるってどういうことなんだ?」と思って、改めて『学問のすゝめ』を読んだのです。『学問のすゝめ』はそういう本です。
・福沢諭吉にとって、《政府》という主体は存在しません。それは「代理」として仮に存在するもので、主体というのは、政府ではなくて《人民》の側にあるのです。このことを、福沢諭吉は、政府ではなくて、読者である《人民》に向かって言っているのですが、このことに耳を傾けなければいけないのは、もちろん《人民》ではなくて政府の方です。
ところが困ったことに、政府の方はいつでも「選挙に勝ったから国民の信任を得た!もうやりたい放題だ!」の方向に行ってしまいがちです。でも残念ながら、政府は「国民の代理」なのです。それを忘れて「政府の私事」に走ったら、もうおしまいです。もうおしまいだということを、今から百四十年以上も昔に、福沢諭吉は言っているのです。
そう思ってしまったら、『学問のすゝめ』は、相変わらず現在進行形で私達の前にあって「蒙じゃいけねェな」ということを言い続けているのです。