国家を考えてみよう (ちくまプリマー新書) [Kindle]

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  • 筑摩書房
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  • 「国家」とは何か。易しいようで難しい。この問題を考えると、国家と国民や憲法との関係やどうやって国家はできたのか、国家は誰のものか、と、さらなる問題にぶち当たる。

    明治維新や王政復古、福沢諭吉「学問のすゝめ」思考など、著者は歴史を振り返ることで問題解決を図りながら、「国家」の真実に迫っていく。

    で、国家は国民のものであり、天皇でも総理大臣でも政府のものではない。だから、国民一人一人が国家のことを考えよう。ついては参政権を大事に行使しよう。と、サヨクっぽい結論にたどり着く。

    意外なオチだった。フィクションライターとしての橋本治は知っていたが、このヒトはこういう考え方を持っていたのか。

  • 「国家」をnationとstateの切り口から考える本。どちらも国家と訳されるが、前提が異なっており、その違いこそが国家を考えるうえで重要になる。

    国家、政治、憲法の持つ「性質」をよく示している文章が多く豊作である。例えば、

    「国家というものは暴力的で、他国に対してあまり譲歩をしないという一面を持っているように思います。」
    「政治の厄介なところは、具体的な現実を対象としているくせに、一方で非常に形式的なところです。」
    「憲法というものは、勝手な暴走をしかねない政治権力に拘束をかけるものなのです。」

    などである。

  • ・「国家=国民」と「国家=領土」であるような「nation」と「state」という2つの言葉があるのは、英語だけではありません。フランス語にもドイツ語にも、同じ2種類の言葉があります。つまり、「国家」というものには、「人=国民」を中心にして考えるか、「土地=領土」を前提にして考えるかという、2つの違う考え方があるのです。

    ・「或る」が「存在する」ということを示す「有る」から来ているのは確かですが、「有」とは違って、「或」は「存在はしているが、あまり明確ではない」という不確かなものです。「国防だけを考えている国家は、うっかりすると消えちゃうかもしれない」という危うい意味を漂わせるのが「或(くに)」であったりもします。だからこそで、この「或」の外側には城壁を築いて「國」にしておかないと、落ち着かないのかもしれません。

    ・「城壁と戈に守られた国」である「國」の字を見ると、真ん中にある小さな空っぽの四角が、王様の玉座のようにも見えます。この小さな四角は「口」であるわけですが、それがいつの間にか「厳重な警護で固められている王様の玉座」のようにも見えます。「口」が誰かによって作られ、「誰かのもの」になっているから、ただの四角い領域が人格化されたように見えるのです。

    ・「国家の歴史」は二段階に分かれていて、前は「国家は支配者のもの」篇で、後半が「国家は国民のもの」という近代国家篇です。「国家」を考える時にややこしい食い違いが生まれるのはここで、「国家には二段階の歴史がある」ということを、あまり多くの人が理解をしていないのです。

    ・地方の「国」は行政区画の単位で、そこに支配者はいません。それが中国と日本の違いのはずですが、しかし「家」が家長のものであることは、日本も中国も変わりませんでした。だから、「家」がついて「国家」になると、それは「”国”という”家”の家長のもの」になるのです。
     では、その「国」という「家」の家長は誰か?日本では、昔から天皇です。だから、ただ一つの「国家」になりうる「日本という国」は、「天皇のもの」だったのです。

    ・だから、そこに住む武士以外の人間達は、「上の方じゃなんかやってるけど、こっちに迷惑かけなきゃ関係ねェもんな」になってしまって、「武士の方は”藩”なんてのをやってるが、こっちは昔ながらの”国”でいいよな」になってしまうのです。
     意識としては、「誰かの支配地であるような”行政区画”の中に住んでいるわけではないから、”従え”と言われればしょうがないから従うが、こっちとは関係ない”支配者”に、忠誠なんか誓う必要はないよな」ということで、「国家って、なんかピンと来ないよな。あんまり関係ないよな」という、日本人には普通のメンタリティは、そうして出来上がってしまうのです。

    ・そもそも、「日本全体」を一まとめにする考え方がないのです。どうしてかと言うと、日本人は「日本人」である前に「武士」だったり「町人」だったり「百姓」であったりするような、階層ごとの捉え方しかしていないからです。

    ・「”国家”なんか知らないよ」だった江戸時代にいつ「国家」が出現してしまったのかというと、この答は簡単です。今使われている太陽暦で言うと、その年の秋になって「明治」と改元される、慶応4年(1868)の1月3日です。この時に京都の御所で、「王政復古の大号令」というものが読み上げられました。日本に「国家」は、この時に復活したのです。

    ・日本は、伝統的な聖徳太子の十七条憲法以後、大日本帝国憲法まで、「憲法」というものが存在しません。だから「憲法」の意味がよく分かっていないのですが、日本もそれを取り入れた「近代国家」の本場である西洋で、「憲法」というものは、勝手な暴走をしかねない政治権力に拘束をかけるものなのです。

    ・「王政復古と大政奉還」のところで、《政治というものは、形式と手続きで出来上がっている》と言いました。憲法というのは、その「形式と手続き」を語るものでもあるのですが、「天皇はなんでも出来る」というのは、大日本帝国憲法を語る建て前で、大日本帝国憲法の記述は、「天皇はなんでも出来る建て前になっている」と解釈されるようなものなのです。

    ・もちろん、大日本帝国憲法下の日本人は、みんな天皇の「臣民」ですから、なにが出来るというわけではありません。政府の方には「国民に知らせる義務」なんかありませんから、「都合の悪いことは知らせるな」ですみます。このことは「なんでも出来る」の天皇でも同じです。「戦争をしたいのです。ご許可をお願いします」と言われて、「本当に戦争なんかして大丈夫なのか?」と天皇が尋ねても、軍部の当事者から「大丈夫です」と言われてしまえばそれまでです。なにしろ天皇には、その「大丈夫」を保証するような独自のデータを得る手段がないからです。

    ・福沢諭吉は、それ以前の江戸時代の経験から、「政府というものはその支配によって《諸民》を苦しめる傾向のあるものだ」という前提に立っています。こんな前提に立つということ自体、江戸時代にはありえなかったことですが、そんなことよりも重要なのはここに登場する「政府」の二文字です。
     日本には、明治以前に「政府」などというものは存在しません。だから、「政府ってなんだ?政府は”新しい幕府”なのか?」と考える人だって出て来ます。それで福沢諭吉は、初編の後に出版した『学問のすゝめ』二編の中で、改めて「政府とはどういうものか、政府とはどう向き合うべきなのか」を説きます。次ですー。

    ・福沢諭吉は、天皇に関して「尊敬されるべきだが、政治の外にいるべきだ」という、現在の「象徴天皇制」に近い考え方をしていて、そのことを『帝室論』『尊王論』と、二度にわたってしかるべき時に書き、出版をしています。一度目の『帝室論』は、「9年後に議会を開設する」という決定が天皇の政府から出された時、二度目は「天皇はなんでも出来る」の大日本帝国憲法が発布される前年です。「このままだと天皇が政治的に利用されかねない」というような時に、福沢諭吉は「天皇はいくら尊敬されてもいいが、政治に関係するべきではない」という発言をするのです。

    ・福沢諭吉は「まともな常識人」でした。だから、「親不孝の不良」になることが生理的に無理で、「政府」は批判出来ても、「国家」は批判出来なかったのです。「国家」の批判をすることは、家長である「お父さん=天皇」の悪口を言うことで、不良でなければ「決してしてはいけないこと」だったのです。でも、「政府」というのは「お父さん」ではなくて、兄や弟みたいなもんですから、これを批判したって、兄弟喧嘩にしかなりません。精々、お父さんに「やめなさい!」と注意される程度です。

    ・「国立」と付く建造物の多くは、大層な金をかけて造られた巨大なもので、「国のものであるのがふさわしいように立派で、国威発揚になるように」というような人達によって造られてしまうので、「国というのは巨大なものなんだなァ」という気がするだけです。でも、これは本当は「みんなが力をあわせるとすごいものが造れるんだなァ」であるべきなんですが、国民一人一人は、自分のことをそんなに「たいしたもの」だとは思っていないので、「国立」と名の付くすごい建物を見ても、「ここら辺は自分の貢献で出来るんだよな」とはまず思いません。募金によって出来上がったものだと、「みんなが力を合わせて」とは言えるのにね。

    ・この日本を安定させていた不思議なシステムの名前が、実は「封建制度」です。「封建的」というと、「古臭くてだめなこと」の代名詞のように聞こえますが、実は日本の封建制度は「所有しなくていいよ、保証するから」というシステムなのです。

    ・「国民の国家」とは「国民が運営する国家」ですが、「内政だ、外交だ、世界情勢だ」とさまざまな問題があって、いつまでも国家がうまくいくとは限りません。だから、政府に政治を委任している国民や、国民に代わって国家をやっている政府の中に不安が生まれて、「この国家をなんとかしなくちゃいけないんじゃないか?」というナショナリズム=国家主義が生まれてしまうのです。
     つまり、「国民の国家」が出来上がった後で生まれる、本当ならもういらないはずの国家主義は、「国家に関する不安の表れ」なのです。

    ・すごいことに、民主主義の政治というのは、その政治を支える国民の頭のレベルを、まともでかなり高いものと想定して、これを前提にしています。どういうことかを分かりやすく言うと、民主主義の社会に「バカな国民」は一人もいない(ということになっている)のです。

    ・民主主義国家で、「政治って、どこかで関係ない誰かがやってるんでしょ?」というような声が平気で出て来たら、それはもう衆愚政治です。でもそこに、「愚かな国民を指導する指導者」はいりません。国民が「まともな頭」を持つのは、国民個々人の責任で、民主主義の政治は「指導者」を選びません。選ばれるのは「代表者」なのです。
     代表者を選び出す「まともな能力」を持つのは、民主主義国では自分の責任で、義務であって、「指導者」を選び出すのは民主主義ではありません。「みんなで選ぶのが民主主義だ」と考えるだけで、なんの疑いもなく「指導者」を選び出してしまうのは、民主主義とは違う体制の政治です。

    ・ちなみに、社会主義国家で「指導者」を選ぶのは、国民ではありません。社会主義国家は、その国の共産党という党が一党で独裁をする国ですから、「民主的手続き」というものがあるとしたら、それは共産党の中だけで、「指導者を選ぶ」ということに参加出来るのも共産党員になっている人間だけで、それ以外の国民には関係がありません。それ以外の国民は「指導される立場」にいるのです。

    ・「バカな愚か者」にならなくても、「政治に関してはよく分からない人」がいくらでもいて、民主主義はそういう人達も「政治的決断に関する一票を投ずる権利を持つ有権者」にしてしまいます。だからこそ「政治に参加する義務」という考え方は重要なのですが、国家主義や社会主義へ向かいたい人は、「民主主義はバカに動かされるろくでもない政治だ」と考えます。だから、国民への思想教育を重視して、「民主主義を踏まえた民主主義の先」へ行ってしまうのです。

    ・前にも言いましたが、ヒトラーのナチスー国家社会主義ドイツ労働者党が政権を取ったのは「選挙に勝つ」という合法的な手段によってです。だから、ヒトラーの演説に当時のドイツ国民が熱狂している様子は、ニュース映像なんかで見たことがあるとは思いますが、あれは「熱狂しろ、興奮しろ」と政府の側から言われて熱狂させられているのではないのです。自分から選んで「YES!」と言ったものにに対して、「YES!YES!」と強く言っているだけです。もちろんドイツ人だから、英語ではなくドイツ語の「YES!」ですが。

    ・部員の高校生達にとって、自分の所属する部は「国家」で、県大会の一次予選で敗退して、それで監督に怒鳴られても黙ったままでいるのだとしたら、部員の高校生達は「俺達の国家なんだから、しょうがねェじゃねェか。これでいいじゃねェか」と思っているのです。でも、その「国家」に「栄光の歴史」や「誇るべき伝統」を見たら、「そうだ、自分達はその国家の一員だと考えてもいいんだ。だったら、もっと頑張れる!」と思えるようになるでしょう。それが部員達にとっての「国家主義」です。
    「国家主義は、自分達の国家に関する不安から生まれる」というのは、こういうことです。

    ・「我々には、かつては耀かしい歴史があったんだ」と思うことは、努力のための有効なモチベーションにはなります。でも、そのことと「俺の言うことを支持しろ!」と言う独裁者の指示通りに動くことは、また別です。冷静に考えて、「かつては耀かしい歴史があったということと、あまり耀かしくない現在があるのはまた別だ。僕等は、今の僕等に出来ることを考えて、出来るだけの努力をしよう。そうすれば、かつての歴史とは違った、新しい栄光の歴史を作ることが出来るかもしれない」と考えることが「立派な国家」という幻想に躍らされる国家主義から自由になる道です。
    ファンタジーではないので、「この耀かしい鎧を着れば、たちどころに荒廃した国家は甦って、栄光の姿を現す」ということはないのです。

    ・「リーダーが議会を招集しないままでいる」というのは、本当はやってはいけないことなのですが、「議会なんかなくても行政は進行する。行政のトップである私のやることに一々反対する議会なんかない方が、行政はスムーズに進行する」とそのリーダーが思えば、「議会を招集しない」という事態は起こります。そして「やがて議会を招集しなくなる」というのは、国家主義の独裁者のやり方でもあるのです。

    ・一度リーダーになってしまえば、どんな批判を受けても「私は間違っていない。私はきちんと民主主義のやり方を踏襲している」と言って通ってしまうのが、民主主義を前提とした国家主義のすごいところで、逆を言えば、それを可能にしてしまうところが、民主主義の弱いところなのですーということはつまり、民主主義の世の中に、「国家主義の芽」はいくらでも存在しているということです。

    ・でも、国家主義者は人の言うことを聞きません。「個人のあり方より国家のあり方を優先する」というのが国家主義であれば、国を動かすリーダーのやることに反対する個人の声なんかは無視してもいいーそのように考えるのです。リーダーのやることややり方に反対する個人ー議員であろうとただの市民であろうと同じですがーの言うことに、耳を傾ける価値があったとしても、聞こうとはしません。人の言うことを聞かずに突っ走ってしまうリーダーにとって、自分の言うことを聞かない人間は、もう「敵」同然なのです。

    ・自民党の改正案の基本的人権は、「もう保障されているんだから、これ以上ほしがるな」です。そういう考え方がなければ、自民党案のように憲法の第11条は改正される必要がないのです。

    ・「立憲主義」という言葉があります。「立憲」とは、憲法を制定することで、「立憲主義」というのは「憲法に基づいた政治をする」ということです。でも、これだけだと「分かりはするけど、なにが分かったのかよく分からない」ということにもなります。だからもう一度、「なぜ憲法を制定しなければならなかったのか」という、その初めを考えてみなければなりません。

    ・ちゃんと考えるだけの頭を持たなければ、ちゃんとした政治を支えることは出来ません。ちゃんとした判断力を持たなければどうなるのでしょう?「民主主義はバカばっかり」と言われる、その「バカ」の一人になるだけです。
     はっきりしているのは、「大切なことはちゃんと考えなければならない」ーこれだけです。ちゃんと考えたって、そうそう簡単に、答はすぐに出せません。でも、「大切なこと」は、ちゃんと考えて、うっかりして人に騙されないようにしなければいけないのです。

    ・「政治が分からない」というのは、そもそも「政治」というものを入れておく「国家」という容れ物がよく分からないからです。だから、「自分で決めよう」とは思わずに、「誰かに決めてもらおう」と考えてしまうのです。
    「誰か」に決めてもらう前に、自分で決めておかなければなりません。どうしてかと言えば、国家というものが「我々国民のもの」だからです。だから、大事にしなければいけないし、ちゃんと考えなければいけないのです。なにより大事なのは、そのことです。
    「国家は我々国民のものである」ーこのことをはっきりさせるために、私はこの本を書きました。「バカでも国民か」なんてことを言われないように、考えるべきことは考えて、自分が立っているその足許だけは明確にさせましょう。

  • 普段あまり考えたこともない国家というものを分かりやすく、独自?の視点で語ってくれます。
    国家の定義…領土ありきか国民ありきか。
    国家の成り立ち…君主のいる国家から、国民の国家へ

    「自分のやることに反対する国民の言うことを聞きたくない国家主義者は、リーダーの力に制限を加えたり、国民の言論の自由を保障する憲法を変えようとするのです」→このあたり、思想が偏ってるかな〜と思う。

    その他、 社会主義は「共産主義へ移行するための前段階で」、「やがて世界は共産主義の中で一つになる」→そういうことだったのかと納得。

  • 本当のところ国ってなんだ?

    考え方の切り口を与えてくれる

    領土(たとえばstate)としての国と国家(例えばnation、そこに住んでいる人にとっての国)
    との違い

    時代や国によって支配体制がちがい、呼び方や支配の継投も違うということ
    そして、名前にだけそれが残ってややこしくなっていること
    (政治において名前だけ変わったけどやっていることは同じ、というのはままあることだということも)

    その土地がその人の生産手段になっている場合と
    その土地の生産を利用させてもらって行かされている人(なのに支配者として階級の上に位置して威張っている人は本当に嫌←個人的な感想)

    国家は人民のもの

    国としてのまとまりの指示を出す人もそれをうまく動かしていくのもみんなで作っている物
    憲法だってお互いのもの
    権力を持つものは独裁に走りやすいからそれを防ぐのはもちろん
    そこに属する一人一人が自分と隣の人と双方幸せになるにはどんな匙加減がいいか決めてつくり、必要に応じて変えていく必要も出てくる
    その国の一人一人が学び、考えることでそれが可能になる(『学問ノススメ、ちゃんと読んだことないけどそういう内容が書いてある、と筆者は言っているように思う』)

    近代国家はそうやって作って行くものなのでしょう

  • ちくまプリマー新書の橋本治著『国家を考えてみよう』をKindleで読んだ。
    橋本治の本は4冊目で、
    ①知性の転覆
    ②上司は思いつきでものを言う
    ③「わからない」という方法
    ④国家を考えてみよう
    の順で読んでいる。1冊目を読んでからすっかり橋本治ファンになった。
    今回の『国家を考えてみよう』も素晴らしい。
    「国家を考えるためには国家を考えないことである」と読者の「?」を喚起するところから始まり、国という字の成り立ちを考える。漢字の成り立ちから国とは何かを語るその切り口は斬新だ。
    そして、福沢諭吉の『学問のススメ』を解きほぐすことで、日本という国家の成立に迫っていく。
    橋本治とはすごい人だ。変幻自在である。
    平易な語り口で読者を引き込みながら、橋本流のグルグル回しで引き上げていく手法は変わらない。
    しかし、その中で語られる物事の切り口は様々だ。
    「国家とは何か」を大上段から語る書物は無数にあるが、この本は『国家を考えてみよう』である。「国家とは何か」なんて考えたことのない、何も分からない読者に目線を合わせて物を書くのが橋本治なのだ。

  • 僕の頭が追いつききらなかったのと、途中途中で途切れたので理解しきれない部分もありましたが、前提のところがとてもすっきり整理されていて、全体的にはとても興味深かったです。もう一度じっくり読まないといないと感じています。

  • 国家を考えるにあたり、国と國の字のつくりから始まり、英語のnation (国民国家)とstate(領土)の違いにいくといった説明は橋本治ならでは。後半の
    "憲法というものは、「権力者を縛って国民を守るためにあるもの」で、「権力者を守って国民を縛るようなもの」は、憲法なんかではありません"
    という一文に強い想いを感じた。

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著者プロフィール

1948年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。小説、戯曲、舞台演出、評論、古典の現代語訳ほか、ジャンルを越えて活躍。著書に『桃尻娘』(小説現代新人賞佳作)、『宗教なんかこわくない!』(新潮学芸賞)、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(小林秀雄賞)、『蝶のゆくえ』(柴田錬三郎賞)、『双調平家物語』(毎日出版文化賞)、『窯変源氏物語』、『巡礼』、『リア家の人々』、『BAcBAHその他』『あなたの苦手な彼女について』『人はなぜ「美しい」がわかるのか』『ちゃんと話すための敬語の本』他多数。

「2019年 『思いつきで世界は進む』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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