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感想・レビュー・書評
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親鸞会の高森顕徹さんの『なぜ生きる』という題名の本がある。私は、生きるとは何かのほうを答えられなければ、なぜ生きるかと問えないと思っていた。この青山拓央さんの本に出会って、なぜ生きるではないが、なぜ生きるべきかということが、生きるとは何かと区別できないという結論に至った。上記のようなことを、ソクラテスの誤謬というらしい。問題は、なぜ生きるかと、なぜ生きるべきか、の違い。これは、やはり違うのではないか?だから、高森顕徹さんの『なぜ生きる』は『なぜ生きるべきか』と問うべきではないかと考える。生きるの具体例を列挙したとき、これは生きるだし、あれは生きるではない、ということを考えてみよ。実は、青山拓央さんの本には生きるはなく、幸福という言葉があるだけだ。幸福については言えたが、幸福と生きるが違うレベルのような気がする。生きるのほうが分かりやすいかもしれない。幸福についてはどれが幸福なのかわからないのだから。それなら、なぜとなにの違いは大きくなりそうだ。きっと生きるのは何かということは高森顕徹さんには自明の真理なのだろう。だから、何を考えているのかわからなくなってしまった。将棋コンピュータが過去の局面にこだわりを持たないというのが面白かった。最近の将棋が昔と代わってきたと叔父が言っていたが、それもあるのか?私がこの文章を書き換えられないのも、私が人間だからだと思う。過去から書いている文章を消せなくなってしまっているのだから。いびつな文章になってしまった。意識がなくても生きているかどうかということを考えたらどうだろう?
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