忘れられた日本人 (岩波文庫) [Kindle]

著者 :
  • 岩波書店
4.56
  • (10)
  • (8)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 139
感想 : 8
  • Amazon.co.jp ・電子書籍 (337ページ)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 日本全国の地方の「生きた生活」をフィールドワークした著者が、いくつかの領域(農民、漁民、馬喰など)における江戸時代から明治時代にかけて生きていた日本人たちの生きざまを克明に紹介するとともに、その背景についても若干考察した民俗学の古典。

  • 民俗学ってこういうことか。民俗学=柳田国男みたいなフレーズだけ中学生のときに覚えたけど、この本に出会うまで民俗学の意義や中身を全く理解できていなかったんだな。
    誰かが地道に訪れて聞き取って書き残さないと、ここに記されているような文化や慣習は簡単に忘れ去られてしまうのだろう。著者の地道な研究には頭が下がる。公式な歴史からは人の息づかいを感じることはできない。語り部による生きた物語を伝承することの大切さと難しさを感じた。

  • 引き続き、宮本常一「忘れられた日本人」を聞く。冒頭の「寄りあい」から一気にその語りの世界に没入する。ああ、日本の村での取り決めや話し合いは、こうやって行ったり戻ったり寄り道したりしながら、しこりを残さないように時間をかけてすり合わせ、みんなが納得する形で決められてきたんだろうなと妙に納得する。

    たしかに胡乱で、きわめて保守的で、違いや新奇なアイデアを認めない頑固さと背中合わせのやり方だし、息苦しくってかなわんなと思う一方、時間の流れがいまよりずっとおだやかで、去年も今年も来年もずっと同じだと信じられた世の中にはふさわしいやり方だったのかもしれない。

    平穏無事でいることが最大の願いであり関心事であるなら、簡単には変化を認めない保守的な人が多いほど社会は安定する。が、それは井の中の蛙の見方であって、視野をもっと広げれば、世界ではもっと過酷な生存競争が繰り広げられているのかもしれず、そうなると、前例踏襲で新しいものを拒んでいては太刀打ちできない。

    結局、誰がライバルで、どこをベンチマークするかによって、何が望ましいかという価値観も変わるし、何をすべきかという行動基準も変わる。目の前にいる人だけが相手なら「寄りあい」的なやり方が有効かもしれないが、その場にいない相手に対しては、別のやり方を模索するしかない。投票や多数決による意思決定もその一つ。

    オーディブルは宮本常一「忘れられた日本人」の続き。「村の寄り合い」より。

    「人間一人一人をとって見れば、正しい事ばかりはしておらん。人間三代の間には必ずわるい事をしているものです。お互にゆずりあうところがなくてはいけぬ」
    「そのムラでは60歳になると、年より仲間にはいる。年より仲間は時々あつまり、その席で、村の中にあるいろいろのかくされている問題が話しあわれる。かくされている問題によいものはない。それぞれの家の恥になるようなことばかりである。そういうことのみが話される。しかしそれは年より仲間以外にはしゃべらない。年よりがそういう話をしあっていることさえ誰も知らぬ」

    「他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。したがってそれをどう処理するかはなかなかむずかしいことで、女たちは女たち同士で解決の方法を講じたのである。そして年とった物わかりのいい女の考え方や見方が、若い女たちの生きる指標になり支えになった。何も彼も知り抜いていて何にも知らぬ顔をしていることが、村の中にあるもろもろのひずみをため直すのに重要な意味を持っていた」

    「この呪人形も多分男女関係のものであろうが、それにしても老女の一代のうちには、それほど深刻な人間関係のもつれはなかったという。そこへいくまでにたいていは解決がついた。その解決へ導いた理由の一つは、広い世間が村の外にひろがっているということであった。村の中で解決のつかない時には村の外へ出してやることが一番いい解決法であった。古くはそれが十分にできなかったのである。村の中でおこったことは村の中で解決しなければならなかった。ところが今はにがしてやることすらほとんど必要なくなったという。問題がこんがらがって来ると、皆勝手に村を出ていくようになった」

    こちらに理があっても、相手に逃げ道を用意してあげるのが、交渉で実利をとるときの第一の心得。論破して終わり、断罪して終わり、では、逃げ場を失った相手の死にものぐるいの反撃を受けるおそれもあるし、絶望した相手が顔を見せなくなるくらいならまだマシで、最悪、世をはかなんでしまう可能性もゼロではない。負けた側にもその後の人生がある。そこまで気を遣えるようになれば、物事を自分の思いどおりに動かしやすくなる。

    切って捨てるやり方が成り立つのは、二度とその相手とは会わずにすむというネット社会の暗黙の前提があるからで、現実世界でそれをやってしまうと、必ずしこりが残る。負けた事実を構成員の大半が知っているような逃げ場のない共同体(親族、学校、職場、地域社会)で、あんまり相手を追い込んでしまうと、共同体が維持できない。負けたほうがその場から退くしかないが、それが頻繁におきれば、メンバーがジリ貧になって、共同体は自然と崩壊するだろう。

    一方、個人の側に立てば、逃げられることはいいことだが、逃げてもう一度別のコミュニティに居場所をつくっていくのもそれなりに負荷がかかる。ならば、最初から逃げずに済むように、もめごとをうまく解消する仕組みがあったほうが、お互いにストレスをためずに生きやすくなるはず、と思うのだけど、どうだろうか。

    「観音講のことについて根掘り葉掘りきいていくと、「つまり嫁の悪口を言う講よの」と一人がまぜかえすようにいった。しかしすぐそれを訂正するように別の一人が、年よりは愚痴の多いもので、つい嫁の悪口がいいたくなる。そこでこうした所ではなしあうのだが、そうすれば面と向かって嫁に辛くあたらなくてもすむという。
     ところがその悪口をみんなが村中へまき散らしたらたまったもんではないかときくと、そういうことはせん。わしらも嫁であった時があるが、姑が自分の悪口をいったのを他人から告げ口されたことはないという。つまりこの講は年よりだけの泣きごとの講だというのである。
     私はこれをたいへんおもしろいことだと思った。自らおば捨山的な世界をつくっているのである」

     コミュニティが失われたことで、隠居した老人たちのガス抜きの場も、もめごとや厄介事の調停役として年寄りが果たしてきた役目も失われた。老人が培ってきた知恵や経験は何の役にも立てられず、横のつながり、世代間のつながり、どちらも希薄になって、誰の役にも立てない老人たちの孤独感はいかばかりか。

    「名倉談義」より。金田金三郎、後藤秀吉、金田金平、小笠原シウという70歳以上の老人たちの話。ナレーターの方の、1人4役の職人技がじつに楽しい。「土佐源氏」の語りを「語ってほしくて」オーディブルで聞き始めたが、こういう語りは、耳で聞くほうがすんなり入ってくる気がする。村の寄り合いでの語りも口承伝承も、こんなふうに染み込んでくるものだったんだろうなあ。

    オーディブルは宮本常一「忘れられた日本人」の続き。

    「女の世間」:老女たちの口からあけっぴろげに語られる性のおおらかさに、なんというか、ほっこりする。早乙女というのは田植えをする女性一般のことで、乙女ってわけじゃないんだね。年齢と関係なく◯◯女子というのと似たような感じかな。

    「土佐源氏」:若い頃に読んだこの話を、ぜひ「語り」で聞き直したくて、オーディブル版を買ったkのだけど、大正解。宮本常一は、これをテープじゃなくて聞き書きで書き起こしたのだろうか。だとしたら、信じられないほどの耳のよさと記憶力。いまの世の中ではなかなか認められない生き方かもしれないけど、人をだますことと、おなごをかまう事しか知らんという馬喰あがりの80すぎの盲目の老人が語るこれって、間違いなく「純愛」だよね。お互いを思いやる愛情の深さは、法的に夫婦かどうかとは全然関係ないんだな、という当たり前のことを思う。

    「わしはててなし子じゃった。母者(ははじゃ)が夜這いに来る男の種をみごもってできたのがわしで、流してしまおうと思うて、川の中へはいって腰をひやしてもながれん。石垣に腹をぶちあててもおりん。木の上からとびおりても出ん。あきらめてしもうていたら、月足らずで生まれた。生まれりゃァころすのはかわいそうじゃと爺と婆が隠居へ引きとって育ててくれた。母者はそれから嫁にいったが、嫁入り先で夜、蚕に桑をやっていて、ランプをかねって、油が身体中へふりかかって、それに火がついて、大やけどをして、むごい死に方をしなさった。じゃから、わしは父御(ててご)の顔も、母者の顔もおぼえておらん」

    役人の嫁さんとできてしまったときのいきさつ。
    「それでも相手は身分のある人じゃし、わしなんどにゆるす人ではないと思うとったが、せんたく物をほしている手伝いをしたら、つい手がふれて、わしが手をにぎったらふりはなしもしなかった」
    と来てからの、遠くを見るような
    「秋じゃったのう。」
    のひと言で、思わず笑みがこぼれる。ナレーターの人、感情入りすぎw

    庄屋のおかたさまとのいきさつ。
    「それでいて、だんたんおかたさまをわなにかけるようなことをしたわい。「おかたさまおかたさま、せっかくこれほどの牛じゃから子をとりましょうや」いうて、とうとう種をつけることにして、わしはええ牡牛を借って追うていったぞね。そしたらおかたさまは、駄屋をきれいになさって、敷わらも換えて、牛をぴかぴかするほどみがいていた。どこの牛でも百姓屋の牛は糞の中に寝て、尻こぶたへ糞をべったりつけているものじゃ。「おかたさまおかたさま、あんたのように牛を大事にする人は見たことがありません。どだい尻をなめてもええほどきれいにしておられる」というたら、それこそおかしそうに「あんなことをいいんあさる。どんなにきれいにしても尻がなめられようか」といいなさる。「なめますで、なめますで、牛どうしでもなめますで。すきな女のお尻ならわたしでもなめますで」いうたら、おかたさまはまったになってあんた向こうをむきなさった。わしはいいすぎたと思うて、牡牛を牝牛のところへつれていきました。すると牛は大きなのを立てて、牝牛の尻へのっていきよる。わしゃもうかけるほうに一生けんめいで、おかたさまのほうへ気をとられることはなかったがのう、牛のをすませて、おかたさまのほうを見たら、ジイッと見ていなさる。牡牛はすましたあと牝牛の尻をなめるので、「それ見なされ……」というと「牛のほうが愛情が深いのか知ら」といいなさった。わしはなァその時はっと気づいた。「この方はあんまりしあわせではないのだなァ」とのう。「おかたさま、おかたさま、人間も変わりありませんで。わしなら、いくらでもおかたさまの……」。おかたさまは何もいわだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目へいっぱい涙をためてのう」

    オーディブルは宮本常一「忘れられた日本人」の続き。

    「私の祖父」:

    「市五郎は実によく働いたが財産はできなかった。妻をもってからは兄もたかりに来なくなったが弟にも財産をわけると、とたんに五反にたらぬほどの耕地になって、小作しなければ食えなくなった。その上火事で家をやいた。近所の子供が火あそびをしたのが家について、三軒やけ、その上牛を焼死させた。子供の火なぶりではあっても、火もとというのでやはり村に対してつつしまねばならぬ。こうして死にいたるまで村の表面にたつことはなかった。
     死んだ牛のために小さい瓦製のほこらをつくった。これを牛荒神としてまつったが、この荒神に草を小さく束にしたのをそなえていのると、皮膚病がなおるというので、まいる人が多く、いつのまにか私のうちからの管理をはなれて、村人が勝手にまつるようになった。しかし皮膚病もよい薬ができるようになってから、最近はめっきりへり、荒神にまいる人もすくなくなっている」

    「子供は四人あって、男が二人女が二人あった。自分が大工の弟子で苦労したから、大工にはさせたくなくて、長男には百姓をさせようとしたが、長男は百姓では一生頭があがらぬとて、綿打をはじめたが、外綿がはいって来てたちまち仕事に行きづまり、ついで染物屋へ弟子に入ったが、これも成功せず、二十一歳の年にオーストラリアのフィジー島へ出稼にいくのだが、やがて失敗して一年あまりでかえって来た。その間市五郎の家内は毎朝氏神さまへまいった。出稼者のある家はどこでもこうして毎朝早く神まいりをしたものである。そして何日かに一度は屋根の棟へお膳に御飯を盛ってそなえた。これはカラスにささげるものである。カラスはしらせをもって来てくれる鳥と信じられていた。そなえた御飯をよい声でないてやって来てたべていけば無事であると信じられた。ところが、どうした事かあるときカラスなきが大へんわるくて御飯もろくにたべぬことがあった。息子はその頃フィジーで病気にかかっていたのである。三百五十人渡航したものが、一年後に神戸へついたのは百五人にすぎなかったという。それでもとにかく生きてもどって来てくれたのである」

    「世間師(一)」:

    「その間に日清戦争があり、日本は大勝を博し、台湾を領土にした。一しょに仕事していた仲間が台湾へ行ってみようではないかというので、妻子を郷里へかえし、台湾へわたる事にした。そうして門司から船にのった。乗客は台湾で一旗揚げようというもので一ぱいであった。
     その頃まで芸人たちは船賃はただであった。そのかわり船の中で芸を見せなければならなかった。昔は遊芸の徒の放浪は実に多かった。それは船がすべてただ乗りできた上に、木賃宿もたいていはただでとめたからである。だからいたって気らくであって、いわゆる食いつめる事はなかったし、また多少の遊芸の心得があれば、食いつめたら芸人になればよかった。だから「芸は身を助ける」と言われた。芸さえ知っておれば飢える事もおいてけぼりにされる事もなかった。台湾へわたる船の中でも、そうした芸人たちが歌ったりおどったり手妻(手品)をして見せてくれるので退屈どころか、いつキールンへついたかわからぬほどだった」

    「世間師(二)」:

    「それまで、このあたりには一年に一度だけすきなことをしてよい日があった。同じ南河内郡磯長村の上の太子の会式である。上の太子というのは聖徳太子の御廟のある所である。ここに旧四月二十二日に会式があって、この夜は男女共に誰と寝てもよかった。そこでこの近所の人は太子の一夜ぼぼと言ってずいぶんたくさんの人が出かけた。
     寺のまえに高い灯籠をたて、参詣した人たちは堂のまえにつどうて、音頭をとり石づきみたいなことをした。
    「出せ出せ酒を、酒を出さねばヨーホーホーイ」
    というおゆな音頭であった。そのぞめきの中で男は女の肩へ手をかける。女は男の手を握る。すきと思うものに手をかけて、相手がふりはなさねばそれで約束はできたことになる。女の子はみなきれいに着飾っていた。そうして男と手を取ると、そのあたりの山の中へはいって、そこでねた。これはよい子種をもらうためだといわれていて、その夜一夜にかぎられたことであった。ずっと昔は良家の娘も多かったが、後には柄のわるい女も多く来た。この時はらんだ子は父なし子でも大事に育てたものである。
     翁も十五になったとき、この一夜ぼぼへいって初めて女とねた。それから後もずうっとこの日は出かけていったが、明治の終頃には止んでしまった。
     ところが明治元年には、それがいつでも誰とでもねてよいというので、昼間でも家の中でも山の中でもすきな女とねることがはやった。それまで、結婚していない男女なら、よばいにいくことはあったが、亭主のある女とねることはなかった。そういう制限もなくなった。みなええ世の中じゃといってあそんでいたら、今度はそういうことをしてはならんと、警察がやかましく言うようになった」

    「村の者のほとんどが字を知らぬということで、どれほど損をしたかわからぬ。明治八年に地租改正ということがあった。いままで米で納められていた年貢が銭になるのだというので、土地から何からしらべあげられたが、その時野山が官有林になったことを知った者は一人もいなかった。ずっと後に官有林になっていることがわかって、大へんびっくりして下げ戻し運動を起こした。
     翁はそのために大阪の弁護士の所へ精出してかよった。自分らの持ち山が知らぬ間に官林になっていたり、庄屋の山になっていたりする。それは法律というものがあって、それを知っておりさえすれば、どんなことでもできることがわかった。翁は大阪の森という弁護士のところへいった。
     ところがそのまえに字がわからねばどうにもならぬことを知った。法律も耳できいただけではのみこめぬものであった」
    「さて字をならったおかげで、法律というものもわかり、官有林の払い下げには大へん役にたった。しかし、それにはずいぶん金もかかり、払い戻してもらう金のない者はみすみす他村へ山を手ばなしてしまった。
     こうして明治三十年までは何が何やらわからぬままにすぎてしまった。これはどこの村も同じことで、字を知らなかったおかげで、みなこづきまわされてきたのである。そうして字と法律ほど大事なものはないように思った。
     弁護士はそのころ三百代言といった。法律をたてにとってウソばかり言ってみんなからお金をまきあげた。しかし森という弁護士はいろいろのことをおしえてくれた。
     三十年をすぎてやっと世間のことがわかるようになった。その時は村人はすっかり貧乏になっており、字を知っている者だけが、もうけたり、よいことをしたりしていた。
     字を知らぬ人間はだまされやすかった。人のいうことは皆信じられた。平生ウソをつく者なら、「あれはウソツキだ」と信用しなくてもすむが、そのほかのことはウソでも本当と信じなければ生きて行けなかったものである。これはウソで、これは本当だというような見分けのつくものではなかった」

    「三人とも字を知らなかった。文字のない世界には共通したこのような間の抜けたものがあった。左近翁も若い時はこうした噂の中にだけ生きてきた。そしてそういう中にあっては人を疑っては生きて行けぬものであった。うたがうときりのないものであった。だから一度だまされると今度は何もかも信用できなくなるという。文字のない世界はそれだけにまた人間も間の抜けたような気らくさと正直さがあったが、見知らぬ世間の人はできるだけ信用しないようにした」

    教育がないと騙される。衆人環視のムラ社会では、おおっぴろげに人を騙すと、そこでは生きていけなくなるし、相手にいいことをすればそれが恩となって返ってくるから、中の人間同士なら、正直でいることにインセンティブが働く。いったん疑い出すと疑心暗鬼に陥って精神的に参ってしまうか、貸し借りに厳しくなって、ギスギスした社会になりがちなので、とりあえず相手の言うことを信用する性善説のほうが、ムラ社会を維持するコストは安くてすむ。
    ただし、それは閉じられたムラだから機能したシステムで、よそものの出入りが多くなると、行ったきり二度と会わない人には、衆人環視の圧力が効かないので、相手を騙してでも自分の取り分を多くしようというインセンティブが働く。情報の非対称性がゲーム理論を構築したように、騙し合いとまではいかなくても、真正直に相手の言うことを鵜呑みにするだけでは損するケースが多くなる。騙す人が出てくれば、騙されないための知恵(学)が必要になり、学をつけ遅れた人は、どうしてもカモになりやすくなる。
    性善説が成り立つのは、お互いをよく知ったもの同士がつくる閉鎖空間だけで、外に開かれた社会では、安易に性善説を持ち上げる人は、カモにされる人たちを放置するという意味で、罪作りな面がある。日本国内だけしか通用しない「平和ボケ」な平等議論もその一つ。周囲が「暗黒森林」に囲まれているときに、内輪の論理で生きていけるのはある意味幸せなことだと思うが、外部の圧力に気づいたときには手遅れになりかねず、「幼年期の終わり」は突如として訪れる。井の中の蛙大海を知らず。

    「大川という人は易者をしてあるいても土地土地の人情風俗をよくしらべて帳面にかきとめた。それをまた行く先々ではなしてやる。金をためることもしなかった。
    「左近さん、世の中には困ったり苦しんだりしている人が仰山いなはる。それがわしらの言う一言二言で、救われることもあるもんや、世の中にはまた人にうちあけられん苦労を背負うてなはる人が仰山いる。ま、そういう人に親切にしてあげる人がどこごにいなきゃァ世の中はすくわれしません。わしら表へたって働こうとは思わんが、かげでそういう人をたすけてあげんならん」」
    「易者の旅は一度出ると、二年くらいはかかる。旅から旅を人に請われるままに歩いていく。よい易者だと評判がたつと、一つの宿に十日も二十日もいることになる。半分は相談相手のようなもので、身の上のことから、農業、漁業なんでもきく。大川という人は見聞がひろく、何でも書きとめているので、旅先のそうしたいろいろの話をしてやる。たいていの人が納得していく。しばらく一つの村にいると、つぎの村からきてくれということになる。金は決して沢山とらぬ。支度はどこまでもうす汚い。それで誰でも気軽に相談できる。
     翁は七十歳までこの易者についてあるいた。大川という人は八十をこえていた。それで長い旅は無理だというて京都へかえって間もなく死んだ。
     左近翁はそれから長い旅をしたことはない。左近翁は大川翁ほどよい易をたてることができなかった。百姓や漁師に満足のいく易をたてるには大へんな知識が必要で、夜辻に立ってやるような易は易のうちにはいらぬという。易というものはそれが他人のためによかれあしかれ暮らしをたてていくための指針になるものでなければならぬ。気休めだけではいけない。それには易者が金持ちになるようでは私心があって本物でない。易者は貧乏だが食うに困らぬというのが本物だと大川翁はおしえたという」

    オーディブル、宮本常一「忘れられた日本人」は今日でおしまい。

    「文字をもつ伝承者(一)」:

    「文字に縁のうすい人たちは、自分をまもり、自分のしなければならない事は誠実にはたし、また隣人を愛し、どこかに底ぬけの明るいところを持っており、また共通して時間の概念に乏しかった。とにかく話をしても、一緒に何かをしていても区別のつくという事がすくなかった。「今何時だ」などと聞く事は絶対になかった。女の方から「飯だ」といえば「そうか」と言って食い、日が暮れれば「暗うなった」という程度である。ただ朝だけは滅法に早い。
     ところが文字を知っている者はよく時計を見る。「今何時か」ときく。昼になれば台所へも声をかけて見る。すでに二十四時間を意識し、それにのって生活をし、どこかに時間にしばられた生活がはじまっている。
     つぎに文字を解する者はいつも広い世間と自分の村を対比して物を見ようとしている。と同時に外から得た知識を村へ入れようとするとき皆深い責任感を持っている。それがもたらす効果のまえに悪い影響について考える。
    「よそがうまく行っているからと言って、ここもうまくいくとは限りませんしなァ、人を気の毒な眼にあわす事はできませんから……」

    文字を知ることは対象から離れた抽象化作用の一つであり、文字におきかえ、名前をつけ、言語化する行為そのものが抽象化のトレーニングとなる。さらにそれを誰かに説明するときは、いったん抽象度を高めたものを、相手の理解度に合わせて具体的で身近な例におきかえたりして、具体化のトレーニングとなる。文字にして記録を残し、その記録が多くの人に伝わるように工夫する。この一連の流れの中に、抽象化→具体化という抽象度を上げ下げする脳の働きが隠されていて、その訓練を積んだものほど、俯瞰の眼、他者比較、メタ思考、客観的な見方を発展させる。

    「文字をもつ伝承者(二)」:

    「古い農民生活は古い時代になっては、それが一番合理的であり、その時にはそのように生きる以外に方法がなかったのである。それだけにその生き方を丹念に見ていくことは大切であるが、時代があたらしくなれば新しい生き方にきりかえてもいかねばならぬ。しかしそれは十分計画もたて試してみねばならぬ。それは村の中の目のさめた者の任務である。自分の家はそういう目の見える家の一つであった」

    いまある環境に最適化していくのは生き残る術であり、環境が変わらないかぎり、最適化は行き着くところまで行く。なんらかの要因で環境そのものが変わったとき、微調整ですむレベルなら、それまでと同じ最適化路線で対応できるだろうが、前提条件が覆されるような大きな変化を前にすると、適応できるものとできないものとに峻別される。生存のための競争は、平時には同じリソースを争うライバルたちとのあいだでくり広げられるが、有事になると、外部環境への適応・不適応がそのまま生存条件になる。連続的イノベーションと破壊的イノベーションと同じように、漸近的な最適化戦略と、急激で極端な階段状のステップアップをくり返しながら、生命は進化してきた。

  • 宮本常一 (1907-1981) は、1939年から日本各地をフィールドワークして膨大な記録を残し、民俗学研究に生きた人間の生活という視点を導入した。『忘れられた日本人』(1960) は、日本各地の辺境に生きた人々の記録である。次の一文は、土佐の山中で馬喰 (牛馬の売買、周旋をする) をしていた老人の思い出話である。

     「女は男の気持になっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない。わしはなァ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさだった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出あうと必ず啼(な)くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけはうそがつけだった。女もおなじで、かまいはしたがだましはしなかった。どの女もみなやさしいええ女じゃった。

  • 寄合、女性、漂泊する人々(世間師)と、いわゆる日本人とはイメージが異なるけれども、しかし厳然たる日本人の姿であるとも思われる。それが面白い。

全8件中 1 - 8件を表示

著者プロフィール

1907年(明治40)~1981年(昭和56)。山口県周防大島に生まれる。柳田國男の「旅と伝説」を手にしたことがきっかけとなり、柳田國男、澁澤敬三という生涯の師に出会い、民俗学者への道を歩み始める。1939年(昭和14)、澁澤の主宰するアチック・ミューゼアムの所員となり、五七歳で武蔵野美術大学に奉職するまで、在野の民俗学者として日本の津々浦々を歩き、離島や地方の農山漁村の生活を記録に残すと共に村々の生活向上に尽力した。1953年(昭和28)、全国離島振興協議会結成とともに無給事務局長に就任して以降、1981年1月に73歳で没するまで、全国の離島振興運動の指導者として運動の先頭に立ちつづけた。また、1966年(昭和41)に日本観光文化研究所を設立、後進の育成にも努めた。「忘れられた日本人」(岩波文庫)、「宮本常一著作集」(未來社)、「宮本常一離島論集」(みずのわ出版)他、多数の著作を遺した。宮本の遺品、著作・蔵書、写真類は遺族から山口県東和町(現周防大島町)に寄贈され、宮本常一記念館(周防大島文化交流センター)が所蔵している。

「2022年 『ふるさとを憶う 宮本常一ふるさと選書』 で使われていた紹介文から引用しています。」

宮本常一の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×