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みんなの感想まとめ
この作品は、愛と運命に翻弄される女性の姿を描いた物語であり、時代背景や倫理観の違いから生まれる複雑な人間関係が魅力となっています。主人公マノンは、悪女として語られることもありますが、実際には時代を懸命...
感想・レビュー・書評
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Kindle Unlimitedで読了
光文社古典新訳文庫を、腰を据えて読もうと思った。大学の教材ということでなく、私の意思で一冊目を選ぶならば、間違いなくこの本からにしようと、心に決めていた。
折に合わぬ発熱で、するべき勉強もきつく、さりとて眠れない、というなら、回復のためと言いつつ、今日はこの本を読むのに使おうと、ベッドで読み始めた。
本作『マノン・レスコー』を読むのは、実は2度目。一度目は、岩波文庫版を、観劇の予習のために読んだ。
宝塚歌劇花組 バウホール公演だったろうか。
瀬奈じゅんさんがデ・グリュ。彩乃かなみさんがマノン。マノンの兄、賭博師のレスコーを蘭寿とむさんが演じていらした。赤系の、薄暗い照明。悲劇だと、直感的に感じたのをよく覚えている。
芝居を見ても、前後して岩波を読んでも、正直、あまり当時は好きになれず、一見無垢に見えるマノンが、やっていることは破綻していて、本当は何をしたいのか、何を求めているのか、よくわからなかった。デ・グリュにしても、マノンを求めるひたむきさに、読み手や観客として酔うよりは、
「君はなぜそんなことをするの?」
「かえって君のマノンを悪く思わせるだけなのに」
という思いを深くしてしまって、謎だらけの小説、という印象をずっと持っていた。
今回マノンに再挑戦したのは、ひとつには、翻訳なさったのが野崎歓先生であったことも大きい。私にとっては恩師である。仏文とは全く違う文学作品を読んでいた私だが、非常に丁寧に、鋭くも温かいご指導を頂いた。
本当は、解説を拝読してから本文を読めば、飲みやすいのかもしれないが、ともかくも自力で本文に向き合って、その後に解説を、と決め、夢中で読み進めた。
出版当時、読みやすい訳文だと話題になったそうだが、デ・グリュの心情が素直に入ってくる、熱気と気品のある語りであった。自分の中で絡まっていた糸がほどけるように、ぐいぐいと読み進めた。
そして、問題のマノン。タイトルロールのこの女性。こんなに無色透明の女だったのかと、非常に驚いた。ファム・ファタルの典型であるから、もっと個性が強いのかと思っていたら……。全然そうではない。
自我の薄さ、という点や、他の男と関係を持ってしまうところは、源氏物語の女三の宮や浮舟とも、似たものを感じたのは、私だけだろうか。
修道院に入る予定だった、おそらくは未婚の美女。でも、きっと既に恋愛経験はあって。初心なデ・グリュと見比べても、彼女だってまだ若い。享楽的で豪奢な生活が好きだが、娼婦と明示されているわけでもない。詩文に詳しく読書好きで、教養もあり、一見すると名家の令嬢にも見える。これは本文から知れる。
彼女は、どういった人なのだろう。文献で裏付けを取ったのではないから、ここからは本当に私の推測と感想なのだが。
なんというか、マノンは、感情が薄い。男を誑かしているというより、「好かれる」「愛される」ということのほんとうの意味や、唯一性が、まるっきりわかっていない。漂う木の葉のように彷徨う人に見えた。
例えば…貴族の男性が手慰みに産ませた、嫡流ではない娘?なのだろうか。
美しさに寄ってくる男はいるが、「マノン本人」に魅せられるひとはいなかったのだろうか。両親からも、なんとなく愛されていなかったように見える。まるで、自分自身のことも、取り換えの利く高価な贅沢品のように思っていて、人間として見ていないように感じるのだ。
デ・グリュの純情も熱意も、当然嬉しく愛しいが、彼にとっての恋の相手は、「マノン本人」でなくてもいい、のだと彼女自身が思っているから、平然と彼を離れてしまうのだとしたら、どうだろう。
代価は、「自分の美」という唯一の自分に付与された価値に対して払われているから、当然非情で手ひどい方法だろうと、受け取る権利がある。それを取り除けば、所詮は、男たちの恋の相手は、他の美しい娘でもいい、とマノンが考えているから、より良い条件だけを追って、彼女は漂泊してゆく。そこに裏切りも罪悪感もない。ぼんやりした愛の感情の一方通行があるだけである。
頼りになるのは富だけであり、彼女自身の寂しさを埋めるのは、時折の遊楽と……深い部分では自覚はしていないが、読書による内省だけで、愛による満足感は、パリに暮らす段階では、薄い。
「私でなくても、美しい相手で、あなたがさみしくなければ良いのでしょう。」
という虚無がぱっくりと口を開けているだけだ。
だからデ・グリュに、マノンは身代わりとして、平気で別の美女を差し向けられるし、彼のように、マノンの心と身体の全てに愛する価値と唯一性を見出す人とは、なかなか本当には理解がし合えない。
このお話が、純愛として成立しているのは、このカップルが重ねに重ねた罪の結果として、アメリカに流された後のマノンの変化によると、私は考えている。罪を問われ、全てを喪って、苦役に繋がれて、初めてマノンは、デ・グリュの受けてきた社会的、精神的な苦痛に思い至る。様々に傷ついた彼が、それでもなお自分に向ける、深い愛に初めて気が付き、自分の意思で彼を愛し始める。ようやくこの二人は魂の平安を見出し、結婚を望むのである。
しかし、本当の悲劇は、流刑でも、フランスにおける地位や安楽な生活の喪失でもない。未開の荒涼としたアメリカに来てもなお、マノンを「美しいモノ」として扱い、引き裂こうとする者が出てくる。
これは、フランスにいた頃の、多くの男達の横槍や欲望の発露とは、マノンにとって意味が違う。昔のマノンなら、条件の良い方に流されても、平気だったはずである。デ・グリュを愛しつつも、双方自分がいないことでは、さして傷つく者はいない、とぼんやり考えているからだ。でも、流刑後の彼女は違う。
マノンが愛しているのはデ・グリュ唯一人であり、彼が愛するのもマノン一人であるという唯一性の自覚と、「相手に幸福であって欲しい」「離れたくない、共に生きたい」という動機から、マノンは、他の男の愛を受け入れて状況をやり過ごす、いつもの手段を捨て、デ・グリュに縋って二人で逃避行することを選ぶ。
逃げると言っても、逃げる先さえろくにない土地である。終始、転落と言い訳と、罪を重ねて来たこのカップルを、読者としては、
「もう良いから別れたらいいのに……。」
という目で見ることも多かった。デ・グリュの愛が、妄執にも見え、初めて肉体関係を持ったであろうマノンとの性愛の記憶に溺れているだけではないのかしら?と、意地悪な想像をしたことも、正直あった。
マノンの悪女ぶりが言われやすいこの作品だが、デ・グリュにも謎は多い。かなり優秀で人柄も良いとされるこの男性が、マノンに夢中になったにせよ、様々な問題の解決に選んだ手段は、その育ちの良さに反して、かなりガラが悪い。『カルメン』のホセと違って、デ・グリュが単独で選んだ行動も、かなり多くて、彼自身の弱さや、自棄になって突っ走ってしまうところ、このカップルに共通する、野太さ……のようなものが、二人を追い詰めてゆく。デ・グリュにも、不幸の一因はあるのだ。
しかし、終盤、ここに来て引き裂かれそうになる二人には、心から胸が痛んだ。せめて幸せにしてあげて、と祈らずにはいられない、マノンの変貌と、死は見事なドラマを生む。
逃避行の末に衰弱死したマノンを一人置いて、デ・グリュは、親友に迎え取られて帰国の途につく。解説でも指摘があるが、彼だけは何もなかったかのように「若気の至り」の結果として、元いた貴族社会に復帰してゆくのである。
なんという皮肉と、悲劇だろう。意思を持たない、流されるままのマノンが、愛と誠実に目覚めた途端、その生命は終わってしまう。誰も彼女を迎えとる人がいない。
埋葬され直したとはいえ、彼女は孤独だ。異国の砂に埋れ、風が吹き過ぎて、彼女を風化させてゆくだけである。
作中、デ・グリュも悔恨の言葉を述べる通り、彼が多くの罪を重ねず、あの粘っこさで誠心誠意マノンとの結婚を望んでいたら、認められるかどうかは別にして、マノンはフランスで、まだ生きていたかもしれない。解説でも触れられる、後に、このタイプのヒロインの系譜に繋がる『椿姫』のヴィオレッタが生きていなかったことを思うと、難しいかも知れないが……。
デ・グリュもマノンを『結婚などの対象にはできない女」と見ていたのかもしれない、という、本当の悲劇が、ちらりと感じられる。そうだとしたら、彼女はこの愛に出会って、幸せだったのか。
1番目に出会った愛は、愛する喜びを知るための愛。
2番目に出会った愛は、愛する者と別れる悲しみを知るための愛。
3番目に出会った愛は、愛する人を幸福にするための愛だという。
二人にとって、この愛はどんな愛だったのだろう。私は、たとえ悲しい結末に終わったとしても、愛の意味を知ってからの、可憐なマノンがいて、良かったと思う。安逸と豪奢に囲まれていても、あのままでは、生きながら内側からマノンは朽ちていっただろう。
デ・グリュは……どうだろう。彼こそ悔いはないのか。
社会に迎え直され、再生してゆければ、それで良しとなるのだろうか。ホッとするのも本音だろうし、熱愛の抜け殻を内側に抱いて、これから長い時間を生きるのは、我に返った時に、思いがけぬ痛みをもたらすようにも見える。
そして、半ばBLのようにも見える、親友ディベルジュとの関係も、本当は深堀りしてみたいところだ。
デ・グリュにもう少しマシな友人がいたら。彼にもう少し違う解決の道を示す者がいたら。等々思うけれど。
これは、ファム・ファタルに転落させられる男の、純愛物語なのか。それとも、自我の目覚めが遅かった、美しいが不幸な女の、孤独の物語なのか。カトリック的道義というファクターをどう扱うかでも、まだまだいろんな読み方が出てくるだろう。
切り口をどうするかで、全く違う顔を見せる、複雑な物語であった。
よくわからない物語として、スッキリしないまま引っかかっていた『マノン・レスコー』が、少なくとも自分なりに読めたことは、非常に嬉しい。
ご一緒に学ばせて頂いた学生の一人として、自分の研究したものだけでなく、意欲的に色んな作品と出会い直してゆくことが、少しでも師恩に報いることになれば、これほど嬉しいことはない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ファンファタームを形作った最初の小説。だけど、実際に読んでみると悪女とは思えず、むしろ時代を懸命に生きた女性の気がする。逆に不甲斐ない青年に、んー!ってなる。
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○デ・グリュの視点から物語られること、マノンの来歴や生い立ちが不明であることから、マノンの言動(豪奢な暮らしをせずにはいられないところ、愛情と性交を一体化しないところ)に、彼女の視点から見た「やむを得なさ」があるかは分からない。
○マノン・レスコーの傾国ぶりより、デ・グリュの軽率さがよっぽど際立っている。17歳の青年であるから致し方ないのだろうが、愚かな判断を繰り返しその度に詭弁で自己を正当化する。この2人は破れ鍋に綴じ蓋で、マノンは低い身分の女性なのかもしれないが、デ・グリュは出自があるだけだ。
アメリカに渡るマノンについていく決心をした時にはじめて、この青年の決断を応援する気持ちが湧いてくる。
○解説も含めて読んで、ファム・ファタルとは非常に男性本位な概念なのだな、という気づきがあった。身の破滅を加速させたのはデ・グリュ自身の言動によるところが大きいが、紳士をして道を誤らせてしまう要因は美女、というわけ。原因が原因なので、男は──貴族は?──免罪され、社会に戻っていく。気分の悪い構造であり、むしろマノンに同情が湧く。そういう意味では結局マノンは男にも女にも許容される位置にいるのかもしれない。
現代と当時の倫理観が大きく異なるので、読み方もまたかなり違うのだと思うが、デ・グリュは批判の要素の少ない人物として受容されていたのだろうか?
○マノンの容姿の描写がない、という指摘は鋭く、面白かった。2人の恋人たちの印象が鮮烈なので、物語が教化の役割を果たしきれていない、という点も納得した。物語の読み方には様々なレイヤーがある。そのこと自体が、とても面白い。
プレヴォの作品
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