知的ヒントの見つけ方 (文春新書) [Kindle]

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  • 文藝春秋 (2018年2月20日発売)
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  • 知的ヒントの見つけ方 2018

    2018年2月20日発行
    著者 立花隆

    これは立花隆氏が冒頭のはじめにで78歳時点のコラムをまとめたものだ。
    月刊文藝春秋の巻頭随筆2014年8月号から2017年12月号までをまとめたもの。
    立花隆氏は2021年4月に亡くなった事が報道された。(享年80歳)
    このはじめにでも歳を取ったこと、死が目前に迫ってきていることを感じさせる。
    立花隆氏がそれぞれの時代でどのように感じていたかを確認する意味でも本書は面白い。
    昔と比較してこのコラムを書いていた頃との感覚の差。これが勉強になる。
    しかし、プロフィールにあるように科学、脳、がん、政治、音楽と非常に多岐にわたる関心を示していたのだな立花隆は。
    あとTVから、特にNHKスペシャルあたりをよく見ていたようだ。
    TVは意外につけっぱなしで仕事もしていたのか。
    世の中で起きていることを拾うにはそれもひとつの手法なのかもしれない。

    立花隆氏はネットやオンラインでコラムを書いたり読むことが出来たりしたわけではなかったようなので、存命の時はあまり熱心には捉えていなかった。
    今思うとそれは残念な事をしたなと思う。
    そもそも雑誌を買う習慣は私はついぞ身につくことはないまま今に至る。


    印象に残った点

    がんは普通、手術後、5年経過すると完治したとみなされるが、膀胱がんはその例外とされ、5年を経過しても完治したとみなされない。

    人間、どうせいつかは死ぬのだから、死ぬべきときがきたら、あまりジタバタせず、頭も体もムダなエネルギーを使うことなく、ゆうゆうと死んでいきたいと思っている。

    還暦を過ぎてみると、やはり目の前で起きていることは、歴史の新しいページであることを頭のすみで理解はしているものの、どことなく映画を二度見している時のような感覚に何度も襲われてしまう。

    自分の70代以前の人生を振り返って思うことは、やはり70代以前の人間の言うことなど、つまらんということだ。

    昔は年をとると、もう少し楽な気持ちでものを書けるようになるのではないかと思っていたが、現実に年をとってみるとその逆で、活字として世に残ってしまう文章を書くことは、いくつになっても、その責任の重さから逃れることができず、これは因果な商売を選んでしまったものだと、思わずはいられない。

    ステント(内部補強材)を入れると、そこに血栓ができやすい。できた血栓が飛んで、脳の血管につまったりしたら、たちまち脳梗塞だ。そんなことが起きないように、ステントを入れた人は、血液がサラサラになる薬を常時飲んでいる。それは血液を固まらせる血小板の働きを最小限にする抗凝固薬といわれるものだ。これを常時服用していると、血液が固まらないから、怪我をしたら大変だ。私は一度台所で手を切ってしまい、血が止まらず往生した。ウッカリ歯医者の治療を受けて、口の中を血だらけにしてしまったこともある。

    がんに勝てなくても、がんに敗けない生き方はあると思った。

    しかし、そうは思っても、お迎えがこないことには、なかなか死ねない。かといってじゃあ自分から進んで死ぬかといえば、それだけのエネルギーはもう残っていないし、そうする理由もない。結局、人間最晩年になると、もうこれ以上生きていなくてもいいやと思いつつ、それでも自分から進んで最後の旅に出る気にもなれない。ある種の優柔不断さの中で生き続けることになる。

    我々の世代は、戦後民主主義教育の一期生みたいなものだから、それ以前の戦争時代の皇民教育全否定の上に歴史教育が成り立っていた。否定すべき歴史教育があったことも事実だが、否定しすぎて逆に歴史をゆがめた部分もあったと思う。早い話、私の世代は、日本神話完全否定教育で育ったから、大人になってから、別の世代の日本人と話をするとき常識があまりにもズレているので困った。あるいは軍国主義完全否定教育の延長として、日本が大昔から平和愛好国家で、戦争などやったこともない国であるかのごときイメージを植え付けられたが、真実は、邪馬台国の時代から日本は戦乱と戦争の連続だった。

    そのような防衛ライン(太宰府)を敷く一方、わからないのは、国内において、白村江の敗北をリアルにしっかり受け止め、あのような敗北を二度と喫さないようにするという反省がさっぱり見られなかったことだ。そもそも戦争の記録がしっかりしてないし、「釈日本紀」によると、鎌倉時代に開かれた貴族たちの日本書紀の勉強会では、先に引用した唐軍と衝突して敗北を喫するいちばん要の部分を「之を読むべからず」として読まなかったという。そういう歴史学習心の欠如が、後にこの国を本当に滅し、1945年敗戦を迎えさせることになったのだろう。

    仮定の話は仮定以上にはなれないものなのだ。

    この連続インタビュー記事を通読してみると、自分のことながら、私は結局やりたいことをやる(やりたくないことはやらない)精神だけで生きてきた人間だと思う。その精神を貫くために、私はせっかく入った会社(文藝春秋)もやめたし、一時つとめた東大特任教授の職も捨てた。本当につらぬいたのは一介のもの書き精神だけだった。

    多分正解はどこにもないのだろうが、歴史上、「正解はこっちにある」と大声で叫ぶ人々がいつの時代にも沢山いた。その人々は国を丸ごと誤った方向に導くことが多かった。日本でもヨーロッパでも下手をすると国が滅びかねない時代に再び入ってきたのではないかという思いがいまも消えない。

    私は今回の天皇の生前退位騒動の一番の核にあるのは、現行の象徴天皇制の根底にある人間学的無理だと思う。

    今回の騒ぎの根底にあるのは、現行の皇室典範に、天皇引退(譲位)あるいは休業などの規定がなく、死ぬまで休みなしに働き続けるのが当然の前提とされていることだと思う。

    どの国の民衆も権力者のスキャンダルは大好きなのだ。

    ただ、この自然の豊かさと引き換えに、日本は極めて危険なことが起こりやすい環境の中にいる。「こういう危険なところに住んでいることを自覚した上で、海の恵み、山の恵みも我々の暮らしにある」(堀内)という自覚が必要だろうし、危険が迫ったら迫ったで、「台風は会いたくない親戚がくるようなものだ」(川島)と気楽にかまえるマインドも必要だろう。「災害にしなやかに対応できるという意味での真の強靭化社会を築かねばならない(鬼頭)という考えに全く賛成である。

    少年A(酒鬼薔薇聖斗)はどこかで妙な人の影響を受けすぎたらしく、変に文学づいた訳のわからない文章があまりに多い。読んでいて不快だった。一読ナンジャコレハとあきれる文章が多く、この少年は病気が治っていないのでは(?)とすら思った。

    文章力は基本的に自己を見つめる力に比例する。内省力といってもよい。

    日本は国土の大きさにおいて世界で61位の小国だが、日本が利用可能な海の広さ(領海プラス排他的経済水域=FEZ)において世界6位の大国でもある。

    アメリカ大統領の歴史に残る名演説はいろいろあるが、オバマのヒロシマ・スピーチは、就任直後のプラハ・スピーチとならんで名スピーチとして残るだろう。

    なぜ(地震)予知は難しいのか。
    「いちばんの理由は地下の状態がわからないことです。我々は地表から1キロとか2キロ程度の浅い部分の活断層についてしか細かいことはわかりません。ところが実際に地震が起こるのは、10キロとか20キロの深さの部分です。そのあたりは想像の世界でしかないんです」
    本当に地下の状態を調べようと思ったら地下を掘って断層に地震計を設置し、観察しなければならない。100メートル、200メートルならまだしも、それ以上を掘るなど事実上不可能なのだ。

    かつて自民党の黄金時代に、希代の寝業師とうたわれた川島正次郎副総裁の吐いた名言、「政界は一寸先は闇」を懐かしく思い出した。政界に盤石はないのだ。だからこそ、政治は面白い。

    いつの時代も一国の政治と文化は歴史の多層的な積み上げによる現実展開から逃れることはできない。であるが故に、目の前の現実から入力を遮断して心の安定を求めるなど、あってはならないことだ。

    日本はあの戦争の時代の恥多き過去=現実忘却と仮想現実認識による敗北の現実の受け入れ拒否をもう一度冷徹に振り返ってみる必要があると私は思う。

    シビリアンコントロールがなくなった軍隊はいとも簡単にクーデタを起すことができるというのが、世界の歴史の教えるところだ。それを杞憂というなら、万が一にも杞憂を起こさせない制度的保障を一刻も早く作り直すべきだと私は思う。

    最近つくづく政治というものは面白いものだと思っている。何が面白いといって、政治の世界では、たびたび思いもかけないことがハプニング的に起り、それまで「これで決まり」と思われていたことが、突然引っくり返ることがあるからだ。

    アメリカでもヨーロッパでも、多分日本でも、ポピュリスト政治家に人気が集まりつつあるように見えるのは確かに恐い気がする。歴史的に政治の世界でポピュリストが蔓延した時代にはろくなことが起こっていないのだ。

    日本は本質的に忖度社会なのである。この人はこう思っているにちがいないと思ったら、その思いに合わせて自分がいち早く動く。

    たしかに世界はある意味では進歩するが、不変でもある。
    政治の本質は結局のところ社会の成員間の利益の調和をはかることにある。
    そして国際社会における権力問題は、最終的に①「軍事力」②「経済力」③「意見を支配する力」を国家間でバランスをはかるところにあるという分析には、その通りと思いながらも、でもどうすればいいんだと頭を抱えた。何事も言うは易く行うは難しいことばかりなのだ。

    E・H・カーは、政治は結局、ユートピアリズム(理想)とリアリズム(現実)の永遠の相克だと喝破した

    社会で成り上がっていく人間には、どうしても薄汚い部分がつきまとう。そういう裏面を暴くには、どこの国のジャーナリストにもマックレイカーたる能力が必要になるのだ。

    権力はチェックなしには暴走する。だからジャーナリズムによるマックレイキングがいつの時代にも必要なのだ。

    日本の政治は、小選挙区制に移行してから、政治家のスケールが、中選挙区制の時代とくらべて、驚くほど小さくなってしまったようである。選挙区の外に出たらその人の名前をほとんど誰も知らなくて当然の世界に入っている。
    小選挙区制になって間もなく、新幹線の車内で、続けざまに新任代議士からアイサツを受け、受け取った名刺の名前にまったく記憶がなく対応に困ったことがあった(中選挙区時代だったら代議士の名前は選挙区外でもある程度知られているのが普通だった)。いまは選挙区の外に出たら、「その人ダーレ?」なのである。本を書くとか、テレビに出るとかしている人なら(あるいは何らかのスキャンダルを起して報道されたりすれば)別だが、ナミの代議士は選挙区の外に出たらいまや全くのフツーの人で、名前を知る人もいないのだ。

    特に今回の選挙のように、選挙がはじまる直前に、新しい政党がバタバタと2つもできて、そこから新しい政治家がバタバタと何人も出馬したりしたら、その人の人格見識など、ほとんど知りようもない。こんな選挙制度、政治制度を持つ国では、何度選挙をやっても、まっとうな政治が行われるはずがないと思う。

    天然資源のない日本は、科学で知的財産を生み出し、日本の力としなければならない。

    子供の数と年寄りの数がほどほどで、働ける人数がたくさんという条件が揃ったとき、その社会は効率的に経済発展をとげることができると考えられます。これが人口学の言葉でいう「機会の窓」です。

    国連の人口学者の定義では、機会の窓とは「人口全体に占める、子供(0歳から14歳)の割合が30%以下、かつ高齢者(65歳以上)の割合が15%以下であるような人口構成が達成されている期間」とされています。

    日本は「失われた10年」といわれる厳しい財政状況の中でも科学技術予算だけは「聖域」として減らさないようにしてきました。その成果が今、日本の産業の新たな核となり、この国を支えているんです。ところがこの「聖域」に手を付けたのが民主党政権でした。事業仕分けによってビッグサイエンス、大型プロジェクトをズタズタにし、大学・学術研究機関の予算を年当たり無条件に一律一割カットし続けています。この国が何によって支えられているかを無視した愚策としか言いようがありません。こんなことが続けられたら、日本はただ沈みゆくのみです。

    あえていっておきたいのですが、私はまだ日本は原発技術を捨てるべきではないと思います。もし原発が、原理的にコントロール不能であるなら、早く撤退すべきです。

    人類の歴史、特に科学技術の歴史は失敗の連続です。あらゆる科学技術は失敗を踏まえて、ステップバイステップで進んできました。今度の事故は、確かに大きな失敗です。しかし、それを何とかして乗り越えて前へ進もうという観点からの発言があまりに少なすぎるように思います。

    日本は天然資源の少ない国ですから、発電方法は、全方位的な可能性を追求し続け、その上で、ベストミックスを考えるべきです。早い段階で、選択肢を減らすのは得策ではありません。

    先進国は、どこも少子高齢化の道を歩みつつあり、近い内に日本と同じ問題に直面すると見られています。一人っ子政策を1979年から進めてきた中国もそうです。したがって、今、日本が率先して超高齢社会を乗り切る技術を開発しておけば、それが将来、日本の食い扶持になる。世界中にHAL的なロボットを輸出して、それで日本が食っていけるわけです。

    これが「悲観社会」を克服する方法です。同じ状況でも、見方次第で、チャンスがないように見えたり、逆にいくらでもあるように見えたりするのです。超高齢社会の日本はマーケットが縮小するばかりで、持つべき希望は何もないと悲観的な未来像を描く人がいます。しかし、ある人にとって悲観すべき状況が、別の人には最大のチャンスに見えます。

    むかし流行ったマーケティングの小話で、誰も靴をはいていない国に派遣された靴販売会社の二人のセールスマンの反応という話がありました。一人は「この国では靴は売れない。何しろ誰も靴をはいていないんだから」といい、もう一人は「この国には靴の無限の需要がある。何しろ誰も靴をはいていないんだから」といったというのです。悲観論者と楽観論者の違いです。この世の中は、悲観論者は自分の予測通り失敗して没落し、楽観論者は自分の予測どおり成功していくものです。楽観主義でいきましょう。

    →個人的にここは両方の主義、見方がいるのだと思う。
    悲観的に準備し、楽観的に対応するというか。どちらか一つの主義でなく両方だ。
    2つの力がいると思う。

    2023/06/05(月)記述

  • 文藝春秋で連載していた巻頭コラムをまとめたもの。日本スゴイとは違うんだけど、けっこう日本の良いところに目を向けてくれていることに驚く。少し前『サピエンスの未来』を読んだ時だったと思うけど、立花氏はなんだか悲観的な偏屈ジジイみたいになったんだなぁ、という感想を持った。本もあまり面白いと思わなかったんだよね。本書の中で、立花氏自身がそういう発言をしていて、以前はもっと悲観的だったけれど、もう少し明るい方に目を向けるようにした、とのことだ。それはがんを患いいずれ引いていく自分を感じた時の、残された世代へのエールだったんだろうかね。コラムといいつつ、取材に基づいた記事で、知らない事実も多々あった。いずれも気持ちを明るくしてくれるようなものだったと思う。面白かった。

  • p.2018/4/30

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著者プロフィール

評論家、ジャーナリスト、立教大学21世紀社会デザイン研究科特任教授

「2012年 『「こころ」とのつきあい方』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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