とうきょう・ぼしょく。
最近小津映画を見始めている者にとっては、生誕120周年のポスターにて、本作の有馬稲子が煙草を吸って頬杖をついている二連の絵が、実にお洒落だったので、名作と扱われているのだろうと思っていたが、実は失敗作的な扱いだったらしい。
確かに……。
というのも、「晩春」以降の路線を、ある程度踏襲しているようでいて、強烈な「アンチ晩春路線」にもなっているので、見る側の受け取り方もまた進化しなければいけない、負荷の高い作品だと思った。
嫁に遣る云々はもう描いたのだが、その先があるのだ……そこまで描く、という強い意思がなければ、この作品は成り立たないだろう。
作り手の矜持。
で、その絵的な表現が、姉原節子の「疲れた顔」。
もちろん加齢も成長も変化もあるだろうが、嫁ったはいいが出戻り寸前しかも赤ん坊を抱えて、という父笠智衆にとっては、なかなかな状況。
その結婚相手を訪問してみても、どうにも失敗臭い。
その上、妹有馬稲子は身を持ち崩しているらしいし……。
ここでまたもや姉妹の対比が、和装と洋装できっぱり。
個人的には、有馬稲子のセーターとロングコートのスタイルに、魅了された。
スカーフや髪形も善き。
所謂童貞を殺す式の。
そういえば前作「早春」は半袖やワンピースだったが、本作は衣装すら重苦しい。冬。雪。
お兄さんの元嫁がいたのよ、と、かき乱すというか情報をもたらす役が、杉村春子で、笠智衆の妹。
「東京物語」では娘役だったのに……もう小津作品では年齢関係が縦横無尽って言わずもがなだけれども。
(見知った俳優が増えてきているのも原因で、あーあの作品であれしていた人がこんなチョイ役を、と。本作では、黒澤明「七人の侍」の宮口精二が、妹を補導する刑事だったり、「生きものの記録」の三好栄子が堕胎医だったり。)
(ところで最近とみに思うのが、川端康成が小津安二郎をどれくらい意識したり作品に取り込んだりしていたのか。もちろん同時代に、映画化も多かったから、他の監督を絡めるべきなのかもしれないが、疎いので。ただ、杉山周吉って、いかにも川端作品にいそうな名前。)
小津作品であまり意識してこなかったが、ウサギのぬいぐるみとか、赤ちゃんのガラガラとか、印象的。
また、姉、妹、雀荘の女将が実はその母、という関係が、緊張をはらむのは話としては当然だが、演出として、音。
修羅場になると、時計のチクタク音や、外からの犬の声や、が見る者の心臓のリズムを作り出すかのよう。
一切笑顔を見せない有馬稲子も凄いが、原節子の顔、やっぱり怖い顔が実に似合う。
マスクをして雀荘を訪ねるシーンでは、眼だけがギョロリと。
もちろん息抜きになりうるコミカルな脇役もいて、「英語で云う所の ラージポンポンとでも云うんでしょうか」という「ワル仲間」や、珍々軒のおやぢ(藤原釜足)とか。
が、後半、妊娠中絶(そのカット直後に姉の赤子を映すって、なんて残酷な演出だろう)、自分の血は性悪なお母さんのせい、本当のお父さんは違うんじゃないか、と妹の精神の荒廃に拍車がかかり、泥酔の挙句、恋人に四連ビンタをかました直後、列車と接触。
病院で、か細い声で、「アー。死にたくない。やり直したい」と。
喪服の姉、母に「お母さんのせいです」と。
呆然としたまま、酒を飲みにいく母。
捨てた子が、死んだと聞いて、やっぱりここを去ろうと……言語化されていないからこそ想像される、山田五十鈴の過去と、現在と……。
数日後に北海道に発つ直前の母が来ても、表情を動かさない姉。
汽車の車窓から、娘が見送りに来ることを期待する母。
姉は家にいて、母と同じ轍を踏まないよう、不仲な夫のもとに帰るという。
家族全員が、ある意味では再開を決意するのだが、どの再開も数か月先数年先には行き詰りそうな再開でしかない……暗い……。
ちなみに「エデンの東」がネタ元らしいが、踏切の眼鏡の看板から、フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」1925と、その映画化「華麗なるギャツビー」1974を思い出した。
なんか……見ていて疲れた……。