物語 オランダの歴史 大航海時代から「寛容」国家の現代まで (中公新書) [Kindle]
- 中央公論新社 (2017年5月25日発売)
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感想・レビュー・書評
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桜田美津夫「物語オランダの歴史」(中公新書)
15世紀末に低地諸州(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ)はハプスブルグ家の所領となった。ただし単独の領土ではなく、多くの伯領、侯領(以下「諸州」)に分かれており、〇〇伯、〇〇候を兼任することで統治していた。またハプスブルク家は神聖ローマ皇帝、スペイン国王などでもあったので低地諸州を不在にすることが多く、親族、特に女性を執政としてブリュッセルに置いた。また諸州レベルでも地元貴族を州総督として置いて地域の政治を委ねた。
ドイツの宗教改革問題やイタリアを巡るフランスとの間のイタリア戦争などに忙殺されてきた神聖ローマ皇帝カール5世は、1556年に低地諸州の統治権とスペイン王位を息子のフェリーぺ2世に、皇帝位を弟フェルディナンドに譲った。その後、イタリア戦争終結後も低地諸州にスペイン軍を置き続けようとするスペイン王フェリーぺと、それに反対する低地諸州の全国評議会やホラント、ゼーラント、ユトレヒト3州の総督を兼ねるオランイェ公ウィレムの間で紛争が起きた。スペイン側が低地での異端審問やカトリックの司教制を強化しようとしたのに反発し、低地諸州ではカルヴァン派による聖像破壊も発生した。事態は地元の有力者の働きで鎮静化されたが、スペイン王は1567年にアルバ公が率いる1万人の懲罰軍を送り込んだ。ウィレムは一旦ドイツに退却した後、武力闘争を開始した。ウィレム率いる陸軍の戦果は芳しくなかったが海乞食(漁民からなる義勇海軍)が偶然も手伝いレイデン(ライデン)を解放。1579年には北部7州がユトレヒト同盟を結成した。1584年にウィレムは暗殺されるが次男マウリッツが戦いを継続。一方でホラント州法律顧問(ホラント州はオランダの人口の半数を占める大州であり、ホラント州議会と全国議会双方の事務局を務める同州法律顧問は事実上の首相でもあった)のオルデンバルネフェルトはイギリスやヤフランスと同盟を結び外交面でスペイン勢力の排除に取り組む。南部アントウェルペンがスペイン軍に再占領され、カルヴァン派の有力者がアムステルダムに避難した。それにより南部はカトリック、北部はカルヴァン派という色分けができた。またアムステルダムでの商業が盛んになり、漁業・造船業とも結びついて海上貿易が発展。友邦だったポルトガルがスペインに併合されたことを機に大航海にも乗り出し、1602年には東インド会社も設立されオランダ領東インド(今のインドネシア)やアメリカ大陸・カリブ海などに進出した。
1609年にはスペインとの休戦条約が結ばれ北部7州が事実上独立。一方でカルヴァン派内では厳格派と寛容派が分裂し、厳格派とマウリッツが結びつき南部の解放を主張、穏健派とオルテンバルネフェルトは現状での和平を主張した。マウリッツがオルテンバルネフェルトを反逆者として逮捕・処刑するに至る。
1648年にミュンスター条約(ドイツ30年戦争の後のウェストファリア条約の一部)でオランダ独立が正式に承認される。17世紀はオランダの栄光の時代となり商工業の発展とともにレンブラントやフェルメールなどを輩出するなど芸術の面でも輝いた。
政治面では軍の指揮権を持つオランイェ公(州総督)と商人層の支持のもとでの経済発展を志向するホラント州法律顧問の対決が何度も繰り返され、国際的には海上では貿易を巡るイギリスとの対立、陸上では膨張志向のフランスとの対立が続いた。イギリス名誉革命ではオランイェ公ウィレム3世がイギリス王ウィリアム3世になるが、オランダにとってのメリットはあまりなかった。またフランス王ルイ14世がたびたびベルギー・オランダ方面に進出を図ったため戦乱が続き18世紀に入ると国力も衰えてきた。
1795年にはフランス革命の影響下、共和制を主張するグループがフランス軍の支援のもとオランダを解放、バターフ共和国を設立した。その後、ナポレオンの弟を国王とするオランダ王国が作られ、最終的にはフランス帝国に併合された。その間、オランダの政治風土は主権を有する州からなる連合国家から、ナポレオン法制を基盤とする単一国家に変貌した。また大陸封鎖令のためオランダの海上貿易は閉ざされ、海外領土はすべてイギリスに奪われた。
ナポレオンの没落後、フランスを牽制するため南部(ベルギー)を含むオランダ連合王国が成立、オラニイェ家のウィレムが国王となった。また海外領土のうち東インド(現インドネシア)とカリブ海の小島のみがオランダに返還された。しかし南北の融合は進まず1830年にはフランス7月革命の余波を受けてベルギーが独立した。さらに1848年にはフランス2月革命後、ウィレム2世が立憲君主政の憲法を作り上げた。民主制下のオランダはカトリック、カルヴァン派、社会民主主義者、自由主義の4者の合従連衡で政局が動いていった。
第一次世界大戦では中立を貫けたが、第二次世界大戦では早々にドイツ軍に占領された。戦後は日本軍に占領されていたインドネシアの回復を図るも独立容認を余儀なくされた。アメリカのマーシャルプランの恩恵で経済を復旧させ、NATO加盟、ヨーロッパ共同体の前身の設立を主導するなど西欧社会の一員となった。
本書ではオランダと日本との歴史的なかかわりについても記述されているが、ここでは省略した。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
16世紀後半から現代までのオランダの歴史を書いた本。なんというか割と混沌としていて、俺はまだ咀嚼できていない感じがする。オランダが、というよりヨーロッパの治安が悪いせい。良く言えば多様性があるということなのだろう。
オランダはプロテスタントの国というイメージがあった。実際、唯一の公認宗教はプロテスタントのカルヴァン派であった。しかし人口比で言えば過半数も占めておらず、カトリックやその他の宗派もかなりの割合でいたわけである。さらに同等の市民権こそ無かったもののユダヤ教徒もそれなりにいたのだから、実態としては何か特定の一つにまとまっていたわけではない。
興味深かった話として、学術語の話がある。16世紀から17世紀の科学者であるシモン・ステファンは、オランダ語こそ化学研究にふさわしいという見解を持っており、著作をオランダ語で出版した。オランダ語は既知の語を組み合わせることで、新しい複合語を作るのが簡単だからである。《子孫 / afkomst》が《下へ / af》と《着くこと / komst》を合わせたものであるように。日本語でも漢字を組み合わせることで新たな科学関係の熟語が作られているわけだが、これは西洋の科学技術がオランダを通じてもたらされたのが大きい。これに関してはオランダ語で学べたのは運が良かったと言えるだろう。
