文學界 2019年1月号

  • 文藝春秋
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レビュー : 5
  • Amazon.co.jp ・雑誌
  • / ISBN・EAN: 4910077070195

感想・レビュー・書評

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  • 古川真人さん「ラッコの家」を読んだ。
    タツコさん、タッコ、しゃべったことを文字にして送ってくれるLINEの機能で、タッコがラッコになり「ラッコの家」という言葉が生まれる。この言葉あそびが、物語の後半の、うねるような自由さの下敷きになっている。
    現実と想像の世界が重なってみえている様子が、途切れない言葉で鮮やかに表現されていて、感嘆した。特にラストシーンは、タッコさんがまさにラッコになっていて、海の中と外の描写、泳いでいくスピード感、ぬるかったり冷たかったりする海の温度まで、せまってくるみたいだった。

    ところで、方言は、読みにくいものなんだろうか。この物語は改行が少なく、言葉を途切れさせないで、方言が連続するように書かれている。私自身のルーツが西日本なので、九州の言葉はなんとなくリズムとしてつかみやすいけれど、完全に標準語で生まれ育った人が読むのと、自分が読むのとでは、感じ方が違うのかなと思った。

    デビュー作から本作までをとおして、この家族を書く、という作者の覚悟がみえるように思った。なにを、なんのために書くのか、なぜ小説を書くのか、そういうことを、考えた。

  • 「影裏」で沼田真佑氏を知ってから、他作品を身近な範囲で読んでいる。本号には「陶片」収録。なぜこの視点でこんな作品が書けるのか。ますます気になる。せっかく過去の文學界を借りた(図書館より)ので、他の作品も読んでから返そうと手始めに山崎ナオコーラの「最後のストロー」すみません、この方の作品、以前は出るたんびにチェックして好んで読んでいたのだけれども、いつのころからかなんだかちっともおもしろくなくなってしまった。本作も然り。対談多和田葉子×温又柔「移民」は日本語文学をどう変えるか?は、かなり興味深かった。温さんの作品、素直であたたかみがあって、新鮮だった覚え。また読んでみよう。

  • 芥川賞候補作、古川真人著「ラッコの家」読了。タッコさんの回想の心の声と本当の会話とが繰り返される。一人になってからの生活の描写がいきいきしていた。
    沼田真佑著「陶片」も。こういった小説が増えていると感じる。難しい言葉も使わずに淡々と描かれて一気読み。

  • らっこの家を読了

  • 古川真人「ラッコの家」
    この作者の作品は二作目。前回読んだ「四時過ぎの船」と同様、一種過剰なまでの九州の方言の嵐。その嵐の中に、今回は主人公のタッコ(80歳近くの老婆、一人暮らし)の内面での想念が、入れ替わり立ち替わり、めまぐるしく展開する。「ぬわんばならん」は読んでいないが、おそらく、この方言を濁流のごとく使いまくる手法や、主に他人とではなく親戚関係にある者同士の会話が中心に話が進んでいくと思われるのも、この作者に共通の手法なのだと思う。よく、芥川賞は選考委員の指摘を受けて修正すると次は高評価を得られるというが、「ぬわんばならん」が長すぎるという評価だったように思うので、その意味では、分量としてはちょうど良かったのかもしれない。前半は、タッコと二人の姪(といっても娘がすでに成人し仕事をしているくらいの年齢)との会話がほとんどで、正直なところずっとこんな調子だと読みづらいことこの上ない、と思っていた。だが、そのうち、外面的に、つまり実際に聞こえるはずの音声としての会話の比率がどんどん少なくなり、タッコの内面のとりとめのない想念・イメージが比重を占めていく。それも当初は過去にタッコが暮らしていた離島での生活の情景や、亡き夫との決して楽とは言えない生活など、単に過去の断片的な記憶の再構成を頭の中でしているという感じだったのが、だんだん、タッコの脳内の抽象度は増していき、姪が牙を剥くヒョウに変わったり、タッコ自身がラッコになったりするイメージなど、非現実的な情景が増えていく。このような手法面では、前作は認知症になりかけてしまっている老婆が、やはり現実と想念のごちゃ混ぜになったようなことになっていたが、それを踏襲していて、かつやり方としては、登場人物も少なく設定もよりシンプルにしているので、より効果的ではあったか。また、抽象的なイメージに深く意味を持たせすぎず(タッコ自身も流れていくイメージの流れにただ身を委ねていると言った風で、それに拘泥しているわけではないし)、さらっと描いているのも良かった。
    このように、形式面では良かった。signifieとしては?くつろげる場所=救いは、語り続けることにある-「声の尽きないこと」ということなのだろうか。盲目のヒロシを先に食べてほしいと言った想念の意味するところは、よくわからなかった・・単にフヨウ=ヒョウの言葉遊びの連想の一部なのか。沈黙しないで語り続けること(たとえ独白であっても?)。小説の形式がそのまま作者の意図に昇華していると言っていいのだろうか。
    ちょっと『おらおらでひとりいぐも』に似ている気もする。

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