文學界 (2020年5月号)

  • 文藝春秋
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レビュー : 6
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  • / ISBN・EAN: 4910077070508

感想・レビュー・書評

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  • 連載横尾忠則「原郷の森」、文學界新人賞三木三奈「アキちゃん」読了。アキちゃんについて途中でえっ⁈って思う瞬間があって、なんかすごいかもと思った。

  • 第165回芥川賞候補「アキちゃん」
    まあちょっとトリッキーな短編であるが、ジェンダー理解をテーマにした作品……なのかな。なんとも後味が悪い。
    「わたしはアキちゃんが大嫌いだった」と小学生のころのアキちゃんへの憎しみを延々と書く。ジェンダー、格差、宗教など世界を子どもの視線で認識するのは面白い。
    うーん。「選考会を議論の渦に巻き込んだ”寄り添わない小説”」との表紙のフレーズがねえ。
    ジェンダーをテーマにした作品、素直に読むべきか、選者の東浩紀のように読むべきか。

    主人公が大学で小学生のころの同級生から、すぐに気づかれる場面、「うしろ姿でわかった。ミッカーって、すごい猫背じゃん。」って、ここで傍観者だった主人公は見られる存在となる。
    芥川賞予想▲単穴。

  • 芥川賞候補作、三木三奈著「アキちゃん」読了。性格が悪いことはよくわかった。小学生位だとこういう奴いるし。もう少し読みたい気が。

  • 『アキちゃん』

    面白かった。冒頭の段階では、今村夏子さんや、村田沙耶香さんのような、独特な世界観というか、ある意味極端な思い込みや価値観を持つ人物を描き出す作品なのかと思った。しかし、実際には独特な舞台設定とか人物設定というものは大掛かりな形ではなかったし、今村さんや村田さんがある種過剰なまでにその人物について筆を割くのに対し、本作はむしろ、描かないことにより表現し、それに成功しているように思う。アキちゃんについて、あえて出す情報を制限していて、そのため変に教訓的にもなっていないし、恣意的に何か解釈を提示するということでもなく、小説としてそこがとても上手な表現だと感じた。
    今後、今村さんや村田さんのような作品を表現することもできそうな方のような予感がした。つまり、簡単に読者を自分の方へ引き込んでしまうような小説を。
    ただ今回、少し残念に思ったのは、作品の短さである。面白いからすぐに読了してしまったように感じたが、それにしてもと思う。たくさん字数を使っているのに、それでも絶妙に「言わない」ことによって上手く表現する作品もあると思う。そのことを考えると、本作は、全体をコンパクトにまとめることが表現の上手さに寄与している面があると思ったので、そこをどう評価するのだろうか。

  • 第125回文學界新人賞受賞作、三木三奈さんの「アキちゃん」について。
    選評者東浩紀・円城塔・川上未映子・長嶋有・中村文則各氏によるこの作品への評価と反応がかなり"揺らいでいた"印象をうけた。「選考会を議論の渦に巻き込んだ」という。

    ひょっとしたら「アキちゃん」は"なんとなく"(受賞作として)推されなかったかもしれなかった、と感じた。ポリティカルコネクトネス的にこの作品を推すのは問題があるんじゃないか、と。

    選考会が実際どんな雰囲気だったかはもちろんわからないけど、川上さんの「アキちゃん」への評価を読んでそんなふうに感じた。実際、「アキちゃん」の評価を保留した選評者(円城さん)がいたし。
    (個人的には円城さんを無責任だと感じたけれど、じゃあ責任を負うべきなのかといえば、それは選評者各々の自由だろうともまた思えたので、評価を保留する場合もあるのだな、とうけとめた。)

    問題は東さんの「アキちゃん」の選評だ。
    この選評が問題なのは、一見するとセクシャルマイノリティの声なき声を代弁または汲み取っているように見えるのに、その見た目とは裏腹に、そう見えるような言葉で東さんが「憎い」と言っている主人公の女性の言葉を、その言葉の意味のまま受けとらないで、捩れた愛情のその表現だと解釈しているからだ。

    つまり、セクシャルマイノリティをだしにして、実際にしているのは「嫌よ嫌よも好きのうち」論法に落とし込んで、作中の女性の言葉を無視して評価を展開していることが問題なのだ。
    この選評が、「シスジェンダーヘテロセクシャル男性が、シスジェンダー女性とセクシャルマイノリティの対立を煽っている図」になっていることが問題なのだ。

    あと、アキちゃんには救いがないと思っているみたいだけど、東さんの言葉からは、アキちゃんには救いがないというよりも、「救いがないアキちゃん」なる人物/イメージをピンで止めて、そうやって評価が固定された「彼女」に自己投影している感じを受けたのだけど、どうなのだろ。

  • 三木三奈「アキちゃん」
    ……そう考えることによって、世界を単純化し、まるごと手中に収めることができるような気がしていたのだった。(P18)
    【初読の感想】
    まず冒頭を読んだときに、このエピソードが現在の語り手にどう影響しているのだろう、という疑問を覚えた。しかし語り口の回想の形とは別に、物語は現代に戻ることはなく終わる。
    「アキちゃん」という呼び方と、彼女に関して話す語り手の違和感により、物語終盤に明かされる「アキちゃんが実は性別小男だった」という事実に驚きはなかった。
    代わりに与えられたのは、語り手を散々にいじめる「アキちゃん」も確かに報いを受けているということ。彼女(彼)は結局真の幸福に辿り着けず、中学に進学後自身の生物としての性と精神の性が一致しないことには意味があると感じる。結局この物語は語り手の呪いが成就したと思うべきか、或いはより宗教学的にカルマを考えるべきか、判断は難しく思う。

    会田誠「げいさい」
    終わり方が正直どう判断すべきか困る。ただ「ずるい女」としての  を考えると、中絶した赤ん坊のことを考えた結果、藝大の受験を失敗し、それから人生がうまくいっていない二郎と、一時は不感症になりながらも新たな恋人を見つけ、また新たな表現方法を見つけた  の対比は面白い。作品全体を通して、二郎が語り手の分身であると見なすのであれば、結局芸術で成功した(と判明している)のは中絶した赤ん坊を捨てられず、当時散々な目にあっていた二郎なのだ。二郎の受験失敗については多くの言葉が作中述べられているが、結局のところ芸術において捨てられない物を捨てないことの重要性を感じたように思う。一点気になるのは  の立ち位置である。彼女は果たして芸術家として成功できない人物として描かれていたのだろうか。関氏との関わりをより考えることでそれは恐らく、明らかになるのだろう。
    芸術に関するリアルな描写が良かった。

    奥野紗世子「復讐する相手がいない」
    テロによって崩壊した新宿の街で暮らす人々の物語。冒頭で暴力を振るわれたアリゾナの描写があったことにより、読み始めた当初は彼女がどう「復讐」するか、という物語だと考えた。
    しかし実際に復讐をしたい、しかし復讐する相手がいないのは彼女を取り巻く「昔を知る大人たち」の方であると作品は語っている。
    では彼女は復讐をしないのか。
    彼女は結局、オールウェイズ・ハッピー・ドラゴンの一員としてテロに加担する。テロに加担する流れになっても彼女は、最後まで手にした銃を使うことを躊躇っている。
    「女の女衒はクソだ」と罵られ続けた彼女が「復讐」しないのは何故か、と問うたとき1番に思いついたのは、彼女自身が女衒であり、テロを起こした時にも傍らには彼女自身が貶めた少女がいたからであるということ。
    復讐する相手がいないのは、彼女自身が復讐する相手だからであるということだろうか。街が悪いだけで、復讐されるに値する人など誰もいない、という答えではないことを祈る。
    全体として情報量が多く、読み解くのが困難な作品だった。テロリストたちが金歯や銀歯(それらは都市鉱山からディグってきた街の記憶のような物だ)を自らの目印としていたことは興味深い。彼らは街を身につけ、街を破壊していた。

    田村広済「樒の家」
    宗教に囚われた母と、その母をどう思えばいいか分からずにいた息子とが、慢性硬膜下血腫による「汚い血」を通してその愛を確かめる。
    過去、母は火事で燃える家の中に息子を放置したまま、観音菩薩を助けた。その事は確かに息子である弘宣の心にトラウマを残している。事件以降、両親は離婚し弘宣は父親についていったが一度だけ、母親に会いに行っている(会ってはいない)。
    トラウマがあっても母親を愛する気持ち、求める気持ちを消すことができない弘宣の感情の動きは酷く人間的だ。そして且つ、彼が憎んでいたと言っても過言ではない「汚い血」によって彼らの絆が回復したのは、分かりやすく陳腐な構図ながらもしかし、これしかなかったのだろうと思わせてくる。
    認知症を患っていると思われる母親が徘徊しながらも、名乗ってもいない息子のことを思い出し、その血を(宗教に依って)綺麗にしようとしたシーンで、結局母親が弘宣の幸福だけを祈っていたのだろうと物語が帰結したのには心が温まった。
    少年期の弘宣のどうしようもなさを深く描いていたからこそ、あの落差が面白かった。

    李琴峰×王谷晶「同性愛を書くのに理由なんていらない」
    どうしても同性愛を特権化しようとする議論に思えた。
    「同性愛が異性愛と同様に、自然なものとして小説に描かれるべき」という理想は理解できるし、確かに現代社会はそういう方向に向かっているのだろうとも思う。しかし小説という仕組まれた世界に登場させるのであれば、それが例えどんなささいなもちーふであったとしても、そこには作為が込められるべきだと考える。外国人が沢山街にいることを描写すべきという意見も、小説は風景を全て描写しているわけではなく、必要なものを取捨選択して書いていることを考えれば、やはりマイノリティに特権的地位を与えたいのだろうと考えてしまう。
    フィクションと現実は明らかに同一のものではなく、それが故に現れる全てのモチーフはその裏を考えられてしまうのではないか。

    鴻巣友季子「疫禍のもたらすもの--病と文体」
    デフォー『ペストの記憶』の文体がペストそのものを示している。という考えが非常に面白かった。筋だけではなく、その文体によってまた主題を描くというのは、現代の小説(或いは読者の読み方)としては類を見ないものではないか。このようにトリッキーながらも読み応えのある文章を書きたいと思わされた。

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